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「しあわせの詩」(2013)/観劇エッセイ「非常灯は消灯中」「小説ウィングス」2014年冬号掲載分


「小説ウィングス」(新書館)にて、観劇エッセイ「非常灯は消灯中」を連載しています。編集部に許可をいただいたので、その中で公開可能と思われるものを限定公開します。

 公開期間は、劇場が元のように開くその日まで。

結構開いてきましたが、終わったとわたしが思った日まで、かな。

明日この「しあわせの詩」の脚本演出作曲をしている、オリジナルミュージカルカンパニーOne on One主催の浅井さやかさんとInstagramでお喋りするので思い切って公開。

なんで思い切ってなのかというと、これは緊急事態宣言中に浅井さんに、

「公開していい?」

と訊いてOKを貰っていたんだけど、先の「非常灯は消灯中」の掲載のどっかにも書いてあるけれど、この頃本当に私が未熟で、読み返したらひたすらあらすじを追っていた。

「これはないわ。観劇エッセイでもなんでもないわ。観てもらったらいいやつだわ」

と恥じて掲載しないでいた。てなわけで読み始めて興味が湧いたらそこで読むのをやめてショップにGoです。安いし、今だいたい在庫があるんじゃないかな?

わたしのおすすめは、26th note 「BIRDMAN~空の果てにあるもの・ライト兄弟」と、20th note「コエラカントゥス~深海 眠る君の声~」。

もちろん「しあわせの詩」

わたしの未熟な観劇エッセイについては、浅井さんと知り合う前のわたしということでノスタルジックに薄目で見てください。

「コエラカントゥス」も書いたことがあって、そっちに書いたみたいなんですが。わたしはいつも不思議なのは、浅井さんとわたしは多分価値観が遠い。でもわたしは浅井さんの創る舞台がとても好きだ。遠いのに好きなのが嬉しい。

明日はお時間があったら、空ノ椅子に是非。呑みながらのお喋りです。


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「しあわせの詩」(2013)

 既に終わった舞台を、思い切りネタばれしてオチまで語ってしまう舞台観劇エッセイです。ネタばれしないで語りたいと考えましたが、全く無理でした。
 だからもしタイトルの再演、DVD等を待つ方は、ここは読まないように要注意だよ!
 毎回この書き出しで行きます。
 今回の要注意は、「しあわせの詩」(2013)。One on Oneプロデュースの、同タイトル再々演公演。
 不老不死の狐と、人間の、和風ファンタジー。
 実は私はファンタジーを、理解する力があんまり足りてない。
 なのでこの話も、ちゃんとはわかっていない。
 でも、多分これはそんなに難しい話じゃない。
 そしてもしかしたらこの物語には、子どもを持つことが大きな幸いというテーマが根底にあるかもしれない。
 現実問題として私にとってそれは、共感性の低いテーマだったりする。
 しかし去年多分、一番泣いたのがこの舞台。
 だから色々わかってないけれど、わからないままに、書き連ねる。
 私は今まで、One on Oneの舞台をDVDで鑑賞してきた。「コエラカントゥス」(2010)、「Genius Writer~本物と偽物・シェイクスピア~」(2010)、「Room-閉ざされた扉-」(2011)、「しあわせの詩(再演)」(2012)。
 実際にOne on Oneを生で観るのは、今回の「しあわせの詩(再々演)」が初めてだった。
 劇場は、赤坂RED/THEATER。
 初めての鑑賞だったけれど、One on Oneのミュージカルはこのくらい、キャパ二百くらいの劇場がきっといい。それは芝居や歌が小規模だということではない。溢れかえる程の手作り感には、この距離で触れたいのだ。贅沢な話である。
 開演前には、狐のお面を被った柏狐吽形(美木マサオ)と、柏狐阿形(正井雪香)が、無言で客席を舞い、観客を穏やかに物語の世界に誘ってくれる。
 冒頭には薄い布の幕の向こうにいる、主人公の亡くなった母親である人間の詩織(千田阿紗子)が、お腹の子が健やかで幸せに育ってくれることが一番の願いだと朗らかに言い、やがて物語のテーマである「しあわせの詩」が全員で高らかに歌われる。
 全て満たされたからこそ、旅立てる。そんな歌。この歌が本当にいい。気持ちのいいきれいな歌だ。最初から大きく引き込まれる。
 私はOne on Oneの歌がただでさえ好きなのに、今回は好きなミュージカル俳優、小野田龍之介と内藤大希の共演だ。二人の歌を聞くことができることが、またこの芝居への私の期待を高めた。
 前述の通り「しあわせの詩」はDVDで、再演を観ている。多分主演の役割を担うのは二人。人間である大島健役と、狐の桔平役。何故多分二人、なのかというと、みんなにスポットライトが当たっていて私には断定できないからだ。健の物語とも言えるし、でも物語を進行するのは健の恋人の悦子にも思える。しかし狐の桔平も、とても重要だ。
 その再々演に小野田龍之介が出ると知ったとき、私は健役なのだと思い込んだ。しかし意外にも、小野田龍之介の役は、狐の楓。桔平の仲間であり、再演では女性がやっていた役だ。成る程合っているとあれこれ頭の中で想像しながら、はちきれんばかりの期待に胸を膨らませて観劇の日を迎えた。
 観たのは前楽と、千秋楽。
 期待には全力で応えて貰った。ちょっと意味がわからないくらい泣いた。
 そうしてそれを今書こうとして、気づいたのだが。
 もちろん脚本も演出も、セットも素敵だ。衣装もメイクもかわいらしい。
 だが私が物語の中に連れて行かれたのは役者の歌の力が大きく、それを言葉で説明することは難しいことだ。
 難しいけれどとにかく、去年一番泣いたのだ。
 まずは簡単に、粗筋を辿りたい。
 悦子(岡村さやか)は、恋人の健(上野聖太)と同棲を始める荷ほどきをしている。荷物が崩れて悦子は怪我をするけれど、健は怪我をしない。健は実は、物理的な痛みがわからない。感じられないのだ。健はそれを隠している。
 健は雑誌の記者をしていて、偶然生まれ故郷に取材に行くことになる。悦子は恋人の故郷が見たくて、ついていくことに決めた。
 健はまるで記憶になかったのだが、その村では不老不死の狐の化身達が、暮らしていた。
 健の母親詩織と親しかった桔平(内藤大希)、クールな楓(小野田龍之介)、二人の妹分的な蛍(田宮華苗)、みんなを見守る長老的なおばば梔子(蔵重美恵)。
 不老不死の狐たちは「願いの葉」を持っていて、「満たされたら」旅立つことができる。死ぬことができるのだ。
 粗筋の途中だが、どうしても心から、言っておきたいことがある。
 赤い目張りを入れて、着物を着崩して、エクステを付けて、低い声で台詞を響かせる、楓、小野田龍之介のかっこいいこと半端ない。ものすごくかっこいい。かっこいいを二度言った。そのくらい私は楓にメロメロになった。
 内藤大希の桔平も、本当にかわいい。内藤大希は人外ものをやらせたらかわいさが非常に輝く。いつでも耳か尻尾を付けていて欲しい。それくらい狐が似合う。
 何より、小野田龍之介の、楓の歌声に私は胸を掴まれた。
 不思議だ。私はその二ヶ月前に別のミュージカルで、彼の歌を聞いている。なのにたった二ヶ月で、彼の歌が以前とまるで違う。
 楓の歌声は、包み込むような、やわらかな、感情の籠もった、丸みを帯びたゆりかごのような歌声だった。
 歌と物語が彼に合うのか、二ヶ月の間に何かあったのか私には知ることはできないけれど、とにかく大きな変化に驚いた。
 意味を持って、歌詞が心に響くのだ。
 私は今回のキャストの歌がみんな大好きなのだが、小野田龍之介は突出したその声量で調和を乱さないだろうかと、余計な心配もしていた。本当にそんなの、余計なお世話様だった。ハーモニーも美しく、その中で伸びやかに彼の声は生き生きと空気を震わせた。
 物語はほとんど、悦子の視点を中心に動いていく。
 健を愛している悦子は、健の何か欠けた部分を、多分埋めたいと思っている。それもあって健のルーツを求める旅に出る。
「知らないあなたが沢山いる」
 朗らかに歌う悦子、岡村さやかの歌声がまた、本当に心地よい。気持ちが何か、浮かれたようになる。そんな声だ。
 悦子は、健の母親である詩織の日記を荷ほどきのときに見つけていて、その日記も読み解く。日記には、枯れた願いの葉が挟まっていた。見つけたときに悦子は、もちろんそれとは気づかない。
 悦子は歌声に見合った、明るく、やさしい、愉快な女の子だ。
 健は「痛みを感じない」という欠けたる部分があるだけに、他人の痛みがわからない。それは物理的な痛みだけではなく、心の痛みにも鈍感で、わずかに残酷な一面を持っている。
 幕開けからしばらく、結構長いこと、ほとんど最後まで、私は思った。
 何故、悦子は健を愛して、健を選んだのだろうか。
 悦子にならもっと他にいい人、いるでしょう? と。
 もちろん、恋ってそういうものなのかもしれない。好きになるって理屈じゃないのかもしれない。でもいつの間にか私にとって、悦子は気の置けない素敵な友人のような存在になっているので、何故と、どうしても思ってしまう。
 その疑問を持ちながらも、物語は進んでいく。
 桔平はその日も、もういない人間の詩織と話していた。健のことを見守っているから、安心しろと、いない詩織に語り掛けていた。桔平が詩織の墓に見立てた祠があって、桔平はその祠に語るのだ。
 桔平はどうやら、詩織がとても好きだった。だがそれは桔平が語り始めたときから、多分恋ではないことがなんとなく伝わってくる。それは桔平の無邪気さ、純真さ、幼さが、内藤大希に合っているからなのかもしれない。
 不老不死の狐の力なのか、桔平は健の訪れの気配を感じて、心から喜ぶ。桔平が垂れるに会ったのは、健が本当に小さな頃が最後だ。なのに桔平は、健という存在への無条件の愛情を示す。
 取材に行った九州の山の中の森で、悦子と健は、偶然狐たちに出会った。健には狐が見えて、悦子は触らないと狐が見えない。そのことには健が痛みを感じられないのと同様、理由がある。
 それぞれの表情がある。
 桔平はただただ大喜び。悦子のことも大歓迎だ。
 悦子は不思議な存在である狐たちに出会って最初は戸惑うけれど、受け入れ、親しむ。
 蛍は、桔平の心がそもそも詩織にあるのも気に入らないので、人間が嫌いだ。
 楓は無関心を装い、おばばはみんなを見守る。
 健は、まず自分にしか狐たちが見えないことを、なかなか信じない。そして狐が普通の存在ではないと知ってからは、記事にしようと考える。
 健は雑誌記者として、今の自分の仕事の内容に不満があった。この狐を記事にしたらそれは大きな仕事になるだろうし、人々も注目するだろうという欲に取り憑かれる。
 そんなに複雑な思惑の交錯ではない。
 私はどうしても楓に引き込まれてしまうので楓中心に物語を追ってしまうが、登場人物達を巡るものはほとんどは愛情だけだ。
 本当の願いを叶えられたら、満たされるという根本がある。外界から来た健を、桔平は楓に会わせようとする。楓の願いが、森の外に出ることだからだ。それは掟に寄って禁じられている。だから外の世界の話を健から楓に聞かせてやって欲しいと、桔平は頼み込む。
 それもまた桔平から楓への、愛情だ。だが桔平と楓の関係は、一見、そんなにべったりしたものではない。お互いへの干渉は少ないが、大事なことだけをやり取りする。そんな感じだ。
 楓は、いつか人間が落とした雑誌の写真を、大事に持っていた。自分の知らない、楓が無限と思っている、ここではない世界の写真だ。
 それが確かに森の外だと、健は教える。
「行ってみればいいのに」
 健はけしかけた。
「掟だから無理だ」
 そんな風に楓は、そっぽを向く。掟を破ったら、願いの葉は輝かず、満たされないので旅立てない。死ねずに、永遠のときを生きなければならない。
 桔平はかつて、詩織にもそのことを教えていた。健を身籠もる前の詩織は、本当の願いはわからないと、笑っていた。
 桔平の願いの葉は今、悦子の持っている詩織の日記に、枯れて、挟まっている。
 森の高いところに、下界を一望する場所があった。
 楓は、桔平とともに、健をそこに案内する。
 それは詩織がかつて愛した場所で、詩織は健が生まれたらその景色を見せたいと言った。
「それまで外になんか興味はなかった」
 無愛想に、楓は言う。
 楓の外に羽ばたきたいという気持ちは、高まっている。
「掟で禁じられているなら、願いの葉で叶えて貰ったらいい」
 気軽に、健は楓の背を押す。
 楓の心に、何かが呼び掛けた。それは多分、それが本当の願いだよと、いう声だ。
 このとき、「心の叫び」という歌を、楓が歌い出し、桔平がともに歌う。
 二人のハーモニーは力強く、その叫びが私の胸にも意味を持って迫る。
 楓には、「本当の願い」を叶えるときが訪れた。
 そのことに気づく桔平に、健は尋ねる。
「おまえには願いはないのか?」
 物語の軸になる問いだ。
 桔平はそもそも、願いの葉を持っていない。それは詩織の日記に挟まっている。桔平の葉が枯れているのは、かつて掟に背いたからだった。
 曖昧に、桔平は笑う。
 何故、桔平の願いの葉は枯れたのか。もう旅立てない桔平は、どうなるのか。何故それでも朗らかなのか。何故そんなにも、健を愛し受け入れるのか。
 疑問とともに必死で、私は物語を追った。
 そうでなくとも素晴らしい歌と、狐たちが舞うかわいらしい世界観が、観客を引き付けて放さない。
 楓と桔平の話を理解した健は、悦子と泊まっている宿に帰って、桔平達をそっとしておいてあげたらと言う悦子に、首を振る。
「明日おもしろいことが起こる。楓が旅立つ。楓が死ぬ」
 健はそれを記事にするつもりなのだ。
 悦子と一緒に、私もまた、健のあまりの心無さに青ざめた。
「それっておもしろいことなの? 死ぬことが?」
 咎める悦子を、健は怒鳴り、腕を掴んで酷く傷つける。
 もう別れてしまえばいいのに。
 悦子の友人のような気持ちになっている私は、楓のこともあるけれど、悦子をそんな風に傷つける健に腹立ちが治まらなかった。
 傷つけた自分に、健は「昔から自分はこうだ」と、いうような歌を歌う。健なりに苦しんでいる。
 だがこの時点では私はまだ、健には同情も共感もできなかった。身勝手な痛みのわからない男を、上野聖太は本当に上手に演じていたのだ。
 傷ついた悦子は、もう帰ろうと一人で山に入る。そのとき詩織の祠の前で桔平に会って、手にしていた日記のことを問われた。全ての始まりが書かれている詩織の日記を、桔平に乞われて悦子は読んでしまう。悦子が読んだ頁は、ある事件が起きた日の日記だった。詩織はその日の記憶がないと書き記していて、桔平はそのことを心に重く思っているので立ち去ってしまう。
 聞いていた蛍が悦子に、その日のことを聞かせるから、もうこれ以上桔平を追い詰める前に健を連れて帰ってくれと迫る。蛍と、そしておばばが、悦子にその日のことを語って聞かせる。
 きっと少し変わり者の人間で、悦子と同様に桔平達を忌み嫌わずに親しんだ詩織は、健を身籠もったことを山に知らせに来た。健の父親は、出ては来ないがもちろん人間の男だ。
 おばばは言う。
「中でも桔平は喜んではしゃいだ」
 そんな風に、その日のことを。
 少し、不思議な気持ちになる。桔平は何故、恋ではなく、無心の愛をそうして詩織に向けたのか。
 物語の中で、おばばがかつて人間の男に恋をした話が語られているので、狐が恋をしないわけではない。
 桔平の詩織への気持ちは、無防備なほど大きい。大きすぎるその愛情は、不安さえ掻き立てられる。
 その不安はやがて形になった。
 詩織は、健が生まれたら見せたいと言っていた高い場所に、どうしても行きたいと言う。桔平と楓は、雨の翌日だから危ないと止めるが、詩織は聞かない。案の定、詩織は岩場から落ちて死にかける。
 そのとき桔平は、永遠の命を持つ自分の血を、詩織に与えて蘇らせたのだ。
 それはもちろん禁忌で、桔平の願いの葉は枯れ、そして詩織の体も永遠の命の受け皿にはなりきれない。詩織は痛みを感じない体になり、健を産んだのちに、目眩を覚えるようになりやがて死んでしまう。健に桔平達が見えるのも、この狐の血を受けていることが原因だ。
 詩織を蘇らせたことを桔平は悔やんでいないけれど、命の理を曲げたことに苦しんでいる。
 けれど桔平は、人間を愛することをやめず、心は無垢なままだ。
 悦子は、痛みを感じない健には薄々気づいていて、話を聞いて健の身を案じる。
 そんな中満月の晩、楓が旅立ちを決めた。
 外の、広い世界に行きたいと願い、その願いが叶えられて、旅立つのだ。
 その旅立ちを、桔平は微笑んで見送る。
「怖いけれど、それでも満たされたい」
 楓は呟く。
 楓の願いは叶えられて、楓は高らかに歌う。
「今、風になる」
 広い、楓が切望した世界へと、楓の心が全て、四散していくような歌だ。情感豊かに楓が歌い、舞うのに、胸を掻き毟られる。
 ステージの奥が開いて、目を射るような光の中に、楓がゆっくりと歩いて行った。
 楓は、満たされて、旅立ってしまった。
 それは「しあわせ」の筈なのに、涙が溢れて止まらなかった。
 楓はもう、いない。
 楓の歌を通して大きな存在を伝えられたあと、光の中に消えていく姿が、更に大き過ぎる喪失感を私に覚えさせた。
 旅立つ者は何も失っていない「しあわせ」、でも、残された者はその人を失う。それは普通の愛がもたらす普通の悲しみだ。
 楓の旅立ちを見送って、桔平が「自分の本当の願い」は何だろうと考え始め、思い出した。詩織が健を身籠もったと伝えに来て、
「この子が笑ってくれたらいい。健康で幸せであってくれたら」
 そう告げたときに、自分の心が震えたと。
 だからこそ掟を破って枯れた願いの葉は、悦子から蛍の手を通って桔平の元に戻っていた。何かが、動き始めているのを感じる。某かの時が来たのだと、行方をひたすら見守った。
 悦子は心配を、健にぶつけた。
 健は自分が痛みを感じず、欠けた人間であることをぶちまける。
 目眩を覚えた健に、悦子は震えた。それは詩織が死に至った前兆と同じだ。
 悦子は桔平達の元に走り、桔平は己の罪に戦く。
 このままでは健が死んでしまうと、桔平も悦子もどうしたらいいのかわからなくなる。そもそもは健をこの世に送り出すために、桔平は詩織を助けたのに。
 みんなの思いが重ね合わせられ乗せられた歌が、大きく歌われる。
 桔平は詩織と健を思い、悦子は健を思い、蛍は桔平を案じる中、健だけは自分の身の上に苦しむ。
 圧倒されるような歌声が幾重にも押し迫り、苦しく、胸が潰されそうになった。旋律がきれいで、余計にそれが切ない。
 満月の中、山に現れた健は苦しみながら、桔平を酷く責めた。まともな人間に戻して欲しいと。
 この時点でさえ私はまだ、健に苛立ちを覚えていた。誰もが自分ではない誰かのことを考えているのに、健は自分のことしか考えていない。
 桔平が願いの葉を枯らして詩織を助け、それらは全て健を助けるためでもあったのに、桔平を責め立てる健に酷く腹が立った。
 けれど、繰り返された詩織の言葉が、また、響く。
「この子が笑ってくれたらいい」
 桔平に、大きな気づきが訪れる。
 その詩織の願いこそが、自分の本当の願いだったと。
 正直、こんな風に書き連ねても、上手く伝えられるかは私にもわからない。
 舞台の上から溢れかえる桔平の、無償の、無限の、なんの迷いもない愛情が。
 詩織のお腹の子どもへの愛情が、歌われて、それが自分の願いだと桔平は笑った。
 枯れていた願いの葉が輝き、「これが本当の俺の願い」だと、桔平は健を強く強く抱きしめる。
 健に人としてのまともな幸せ、くどく説明すれば痛みを感じられる人間に戻すことだ。健の幸せこそが、桔平の切なる願いだ。
 母が子を思う、何も求めない愛情が桔平を通して健に、やっとはっきりと届けられる。欠けたる部分が、埋められようとしていた。
 健はいつの間にか、泣きじゃくっていた。
 私はここで初めて、健という人を知った。
 健は自分が足りないことを、よくわかっていた。知らないことがあることを、わかって、それをずっと求めて苦しんでいた。
 それは具体的に言えば痛みを知り人を思いやる心なのかもしれないし、母から子に与えられる代え難い愛情なのかもしれない。
 健はそれが欲しかったし、それを誰かに分けたかった。できなくてできなくて、嘆き続けていた。
 それが一息に伝わってきて、健の抱えていた苦しみの大きさが本当に辛かった。
 人間は誰でも人の子であるように、私もまたそうだ。
 目の前でみんなが欲しいと思うものが、分け合われるのが、はっきりと見えた。聞こえた。
 涙が零れない訳がない。
 健を幸福にしたいという、桔平の本当の願いは叶えられた。
「桔平の旅立ちを一緒に見守っておくれ」
 おばばは言う。
 満たされて、桔平は旅立って行く。
 ステージの奥が開き、楓が旅立ったときのように、眩しい光が放たれる。
 桔平の旅立つ先には、楓が迎えに来て、手を差し伸べていた。
 ぶっきらぼうな楓の、慈愛に満ちた微笑みに、ただでさえ目の前が滲んでよく見えないのに、これ以上泣きたくないのに、涙が止めどなく流れた。
 理由なんていらないのかもしれないけれど、私はここでやっと、悦子が健を愛した訳も腑に落ちた気がした。
 健は確かに愛されていた。母である詩織に、そして桔平に。けれどそれを見失って、愛情を渇望していた。
 悦子には無意識にだけれどそれが見えていたように、私には映った。
 痛みと思いやりを覚え直した健と、悦子は、これから新しいときを紡ぐ。
 様々な愛情を受け、それが息づき、二人を支えていくのだ。
 この物語は、一つの前提の元に編まれている。
 人はすべからく、愛の元に生まれ、愛の元に育まれているという大きな理が、ある。
 それが受け入れられるかどうかは、それぞれだとは思う。
 けれどもしいつか「しあわせの詩」に触れる機会があったら、素直な気持ちで歌を聞いて欲しい。
 きっと誰にも、誰かの愛情が掛けられている。
 自分にもきっと、それがある。
 もし持ち得なかったとしても桔平のように、何処から生まれたともつかない愛を、誰かに与える力があったなら。
 満たされるかもしれない。
 しあわせの詩が、私達にも聞こえるかも、しれない。
      

サポートありがとうございます。 サポートいただいた分は、『あしなが育英会』に全額寄付させていただきます。 もし『あしなが育英会』にまっすぐと思われたら、そちらに是非よろしくお願いします。