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「風の谷のナウシカ」(1984)

 久しぶりに観た。
 今年になってレンタルで、久しぶりに「となりのトトロ」と「魔女の宅急便」を観たら以前と違う感想があった。
 でも「風の谷のナウシカ」は自分にとっては普遍なのではないかと思いながら観たら、今までと違うところで泣いた。

 私にとっては一点の曇りもない不朽の名作だ。
 中学生の頃映画館で観たときは、
「ものすごいものを観た」
 と、終映しても立ち上がれなかった。
 高度成長期の工業汚染問題が当時様々な作品に反映されていて、その一群の中の骨頂だと思った。

 今日は、侵略戦争の部分が本当に辛かった。
 それは私の年齢なのか、時代なのか。後者だとは思いたくない。

 この頃の作品を創った人々は、先の戦争をよく知っている。武装した船がやってきて、
「辺境の小国を統一して王道楽度を建設する。我に従えば幸せになる」
 という侵略は、地球上のあちこちで繰り返され、今も続いていることだ。
 けれどその強い実感は、中学生の私にはなかった。

 ペジテの姫、アスベルの双子の妹、ラステルの死とその死を取り巻く母や女たちの思いが辛かった。何度も泣いた。

 ペジテでトルメキア軍が行ったのだろう虐殺を見たアスベルの怒りに、泣いた。
 以前観た時は気づかなかった。
 トルメキア軍の連隊をたった一人で壊滅させるアスベルの目は、正気ではない。多くを殺されて、我を失っている。
 自爆テロの少年兵はきっと、こんな目をしている。

 だが力に差があるだけで、トルメキアとペジテはどっちもどっちだ。どっちも馬鹿だ。
 助けようとするナウシカの手が届いて、アスベルは正気を、心を取り戻す。
 ペジテが風の谷を蟲に襲わせる非道さに気づく。
 娘を喪ってなお心を手放さないラステルの母と、ペジテの女たち。その力を借りて、ペジテの避難民船がトルメキアに襲われている絶体絶命の中でアスベルは、残ろうとするナウシカのメーヴェを蹴り出して叫ぶ。
「頼むいってくれ。僕らのためにいってくれ」
 アスベルの叫びに泣いた。
 アスベル自身は恐らく、この時自分の命はあきらめている。
 トルメキアとの戦いの中でたくさんの人を喪い、妹を奪われ、正気を失って超えてはいけない最後の一線を超えてしまった自分たちの代わりに、叶うなら取り戻してくれ。
 犯してしまった罪を、止められるなら止めてくれ。
 叫びが響き渡った。

 巨神兵の炎は、原爆の雲の形に似ていた。

 久しぶりの「風の谷のナウシカ」は、アスベルの目線で観た。アスベルが今の自分に近しく思えた。
 痛みから間違うこともあるけれど、立ち止まって悔いて、やり直すことももしかしたらできるかもしれない。

 いつかまた時が経って観た時に、私はどんな風に思うのだろう。

 野暮かもしれないが、今使われている言葉で、この作品の優れているところを語りたい。
「その者青き衣を纏いて金色の野に降り立つ」
 古の伝説はバイアスによって、タペストリーに男性の姿に描かれていた。
 降り立ったのは少女だった。

 ただ、ナウシカは少女ではない。
 統べる力、采配、指示、慈愛。
 人でもないのかもしれない。

 ナウシカがなんなのかは、漫画版に描かれていた気がする。こちらはあまり覚えていない。久しぶりに読もう。

 1984年の「風の谷のナウシカ」。
 子ども時代を包んでくれた人々の澄んだ声が、鮮やかに聴こえた。
 昨日聴いたように、どの声もよく覚えていた。

「ひめねえさまかわいそう」
「ラステルの母です。本当にごめんなさい。私たちのしたことはみんな間違いです」
「ひどい仕打ちを許しておくれ」
「頼むいってくれ。僕らのためにいってくれ」
「あの人は敵じゃないよ。何か叫んでいた」

「どいて」

「風の谷のナウシカ」

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