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「私の変な美容師がもう私のものではない話」(2017)/「Wings」連載中日常エッセイ「必ずあなたの役に立つ海馬」期間限定公開

 隔月刊「Wings」(新書館)にて、日常エッセイ「必ずあなたの役に立つ海馬」を連載させていただいています。許可をいただいたので、その中から単行本未収録エッセイをランダムにいくつか期間限定公開します。

 よかったら読んでってください。

 公開期間は、なんか落ちついたなと思えるその日まで。とっととこーい!

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「私の変な美容師がもう私のものではない話」(2017)


 私の変な美容師がもう私のものではない話なのだが。
 別にもともと私のものではない。
 私の変な美容師は多分私より少し年下の男性、Sくん。
 きっともう二度と会うことはない。大喧嘩をしたとかそんなことではない。
 一年前に私が美容師を変えてしまった。
 なのでもう二度と会うことはない。彼と私は美容師と客でしかなかったのだと、思い知る出来事だった。
 悲しい。
 悲しいのでサイトの日記に書いていた彼の思い出を纏めようと思う。
 出会いは2011年だった。友人が紹介してくれた中央線沿線の某駅の某美容室の、彼は支店長だった。
 今年で海馬も連載二十年目(1997年9月号からスタートしてるよ!)、連載開始当時も書いているが相変わらず人様に自分の職業を言えないで生きている。
 四十過ぎて家庭の気配もなく職業も言えないとなると、もうそれはアメーバ状のなんだかよくわからないシロモノである。
 それでも私は言いたくないの自分の仕事を。
 自分の仕事を恥じてるの?
 いいえそうではありません。
 最新刊の「泣かない美人」(ディアプラス文庫)は、地元を舞台にした日本酒の酒蔵の杜氏の、BL。初夏の頃出るだろうBLの攻めがしている仕事は、二十年来の友人がしている仕事。細かいことを教えて欲しいと電話をしたら、何も知らずに懇切丁寧に教えてくれたけどあなたの設定は攻めよ。
 勝手な振る舞い、相手に申し訳ないではないか。言いたくない。
 その上エッセイでは「今目の前のあなたがおもしろいから今度書くね」という精神で、見聞きした端から売り飛ばしている。
 職業について私が無口になるのは、人として当たり前のことであった。
 なのに特に聡いでもないSくんは、初対面のときに言った。
「なんか書いたりする仕事?」
 職業は? と尋ねられて「丸の内のOLです」と嘘を吐いたこともある私だが(これも美容師で、「そのサンダルで!?」と笑われて終わった)、ズバリ言い当てられてさすがに違いますとは言えなかった。
「……まあ、そんなところです」
 最初の頃は、私にも彼に対して敬語だった。
「あはは、やっぱり? 会社って感じしないもん」 
 初めて会って五分くらいのSくんの言葉であった。
 失敬なやつだが、私は彼が切った髪の形がいいのと、美容室最前線で支店長をやっている割に商売っ気がないところがとても気に入った。
 彼は私が髪を傷めるパーマを続けていると知って、首を傾げた。
「なんでこんだけやってて、髪傷んでないの?」
 訝しげに尋ねられて、
「椿油、ドライヤーの前に使ってる」
「ふうん、じゃあそれ必ず続けて。仕上げにワックスつけていい?」
 椿油でいいのかと思いながら、聞かれたので「どうぞ」と頷いた。
「これで良かったかな。普段どんなワックス使ってるの?」
 ワックスをつけながらそう訊かれたので、
「普段は使わない」
 と、何の気なしに答えた。
 すると彼は手を止めて、
「使わないなら使わないって言ってよ、つけちゃったじゃない!」
 若干怒り出した。
 変なやつだが、私はこの人好きだなと思った。
 客商売向いてないかもしれないけど、セールスのために嘘を言わないし、相手の嘘も好まない。
 お気に召しましたと次回も彼を指名すると、彼は私を見るなり言った。
「あ、僕のこと覚えてる?」
 うん、覚えてるから君を指名したんだよ本当に変なやつだな。
 客商売に全く向いていない彼には、更に次回行ったとき営業という苦行が待ち受けていた。
 普段特に必要のないものを売りつけて来ないSくんは、席に着くなり玉音放送なの? というくらいとうとうと喋り出した。内容は、
「九月いっぱいまでヘッドスパを1500円という格安で体験できる」
 と、いうものだった。
「ふんふん」
 あら営業もできるのね、っていうか当たり前だねと思いながら聞いていると、
「興味ないよね? でも九月中また来たら、僕またこの話しないといけないから」
 九月中にはもう来るなという勢いで、彼は笑った。向いてないね営業。どうやって支店長になった。
 前置きをするのを忘れたが、ここはなんか小洒落たサロンだ。ドン小西みたいなオーナーが二つ持っている店のうちの一つである。
 美容室に行ったときにしか読まない小洒落た雑誌が積まれて、髪を切りながらネイルをしたりしている女性たちはその雑誌みたいな会話を美容師としている。
 なのに何故か、彼と私は「サザエさん」の話をしていた。
「色々、つじつまが合わないと思う」
 サザエさんをたくさん読むと、整合性が合わないと彼は言い出した。
「私一巻を読んだことがあるけど、終戦直後の話だったよ。だから今の感覚とは噛み合わないんじゃない?」
「そうなの?」
「うん。私が読んだ話は、アイスキャンディー売りが来てカツオが欲しがったら、サザエさんが『赤痢になるから駄目よ』って話だったもん」
「へえ……僕が読んで印象に残ってるサザエさんはね」
 彼は、我が心の「サザエさん」の話を始めた。
「サザエさんちで、鶏肉食べてんの」
「うん」
「みんな悲しそうなの」
「なんで?」
「飼ってたニワトリ、絞めて食べたんだろうねえ」
 隣では女性美容師と女性客が「ミッドナイト・イン・パリ」(ウッディ・アレンの映画)の話をしていた。その温度差が、私は今でも忘れられない。
 映画の話になど一切ならず、そのまま「サザエさん」の時代きっかけでジェネレーションギャップの話になった。
「お店の若い子達とカラオケ行くと、若い子達の歌ってる曲が全然わからない」
 珍しくごく普通のことを、彼は言った。
「でもすごく年上の人とも、話が合わない時があって」
 はっきりはわからないが、彼は私の三つから五つくらい下なのではないかと思う。
「どんな話?」
「健康とか病気の話は、まだついて行けるんだけど」
「そうだね、そんな話も出て来るよね」
「墓石の話には、ついていけないなあ」
 真顔で言われて、私は店に響き渡るくらい爆笑してしまった。
「御影石がいいとかさ」
 彼の溜息は深かった
 その日の夜、私は友達の誕生会だった。
「私幹事だから」
「え、幹事? 向いてそうもないけど、幹事なんだ?」
 遠慮は、多分最初からこの男にはなかった。
「幹事だから、呑み過ぎないようにしなきゃと思うんだけど、呑み始めると飲んじゃうんだよね。気をつけないと」
 相当呑むメンツによる誕生会だったので、私は戒めを呟いた
「酒は呑みたいだけ呑んだらいいよ。浮き世の憂さを忘れるために」
 全くらしくないことを、彼は言った。
「浮き世の憂さなんかあるの?」
 遠慮がないのはお互い様である。
「僕、中間管理職だから。腑に落ちないことばっかりよ、上からはやいのやいの言われて、下からはつつかれて」
 彼は中間管理職には確かにまったくもって向いていない。
「誕生日ならサプライズとかしないの?」
 彼に尋ねられたサプライズについて、私は朝から悩んでいた。
「頭にティアラの一つも乗っけてやろうかと思うんだけど、いい年をしてそんなことしたら駄目かしら」
 相談するべきではない相手に、私は相談をしてしまった。
「僕はね、誕生日にティアラを頭に乗せられたら、それを用意してくれた友達のその気持ちが有り難いと思うと思うな」
「そう?」
「そこにLoftあるよ」
「ありがとう、買っていくわ」
 嘘を好まない彼だが、この日初めて私に、嘘というか思っていないことを言った。
「誕生日会、随分ちゃんとやるんだね。節目?」
「そう、節目」
「ふうん」
 しばらく、彼は考え込んだ。女性に対して、年を若く見積もるのはつまらない礼儀である。ましてや彼は美容師、私はそのお客さんだ。
「さ、さ、さ……さんじゅう?」
 言えてないし!
「四十だよ!」
「あはは、だと思ったー」
 そして彼は誕生日会ということで、私の髪をとてもかわいく巻き髪にしてくれた。
「女十人の誕生日会なの? すごいね。ちょっと待ってて」
 自分の名刺に手書きで彼は十枚、「10%オフ」と書いて、
「配って来て」
 十枚くれた。お、できたじゃないの営業と思ったが、走り書きの「10%オフ」は本当に有効だったのだろうか。
 そんな無礼な彼と失敬な私の美容師と客としてのつきあいは、なんと四年に渡った。
 最初から特になかった遠慮は、どんどん希薄なものになっていったのであった。
 あるとき私は予約の時間にちょっと遅刻をしてしまい、入店したときから慌てていた。あわあわしながら席に着き、
「この間、どうだった?」
 と、聞かれたので、前回友人の誕生日会で彼が私の髪を巻いてくれたことかと思い、
「え? ああ、大好評だったよ」
 ちょっと盛ってそう答えたら、
「そうじゃなくて、誕生日会」
「ああ! 盛り上がった! ありがとう、お陰でティアラ買えたよ」
 気になるのはティアラなの?
 そんな具合に最初話が噛み合わなかったので(私一人のせいではないと思いますがね)、
「私……まともに人と喋るの、ほぼ一ヶ月ぶりなんだよね」
 謙虚にそうカミングアウトした。このとき私は「あした咲く花 -新島八重の生きた日々-」を脱稿した直後だった。
「ああ、どうりで……」
 やつは本当に失礼な相槌を打った。
「まあ、そういうことなら思い切り喋っていって」
 と、言いながら彼は10分くらい無言で私の髪を弄る。
「あのさ、さすがに私も一人では喋れないんだけど」
 あまりにも長い沈黙に訴えると、
「だって僕、一ヶ月も人と話してない人と何を話したらいいのかわからない」
「なら私がこの前私の仕事場の近くに熊が出た恐怖体験の話をするわ」
 結構熊が出る私の仕事場、その上事件が起きた恐怖を語ると、彼はどういう思考回路なのか、
「あのさ、熊に襲われるってちょっと、普通ないことじゃない? 保険金ちゃんと下りるのかな? 僕が仕事中に熊に襲われたら労災扱いだと思う?」
 普通にそう尋ねて来た。
 大丈夫ここは大都会よ。
「でも僕の田舎も、ものすごいど田舎だよ。信じられないくらい家が古くて、家がぎしぎし言っててさ。うちのばあちゃんがすごい静かに歩く人だったんだけど、騒ぐと目茶苦茶怒られたなあ」
 ほのぼのと、彼のおばあちゃん話が始った。
「お茶の名産地なんだけどね、子どもの頃茶柱立ったことあって、嬉しくて。そんでばあちゃんに見せたら」
 なんで私は、どんないい話が始まるのだろうとか一瞬でも思ってしまったのだろうか。
「茶柱が立つようなお茶は、古くて悪いお茶だって言われてね」
 とてもあなたのおばあさまらしい逸話です。
「蛍がいたんだよ、子どもの頃。そんくらい田舎で。ばあちゃんが蛍を見に連れてってくれたんだけど」
 それでも私は期待する。
「蛍かもしれないけど、まむしの目かもしれないって言ってさ、ばあちゃんが。なんでそんなところに子ども連れてくんだろうね。そのまむし噛まれたら即死するくらいの猛毒持ってるんだよ」
 いったい何を期待したの私。
「今も実家、ぎしぎし言ってる」
「じゃあ、お父様とお母様がご実家にいらっしゃるの?」
「え? ばあちゃんも生きてるよ」
 なんかね、上手く言えないんですけど、亡くなったおばあさまの思い出話に私には聞こえたんですよ……失礼しました、おばあさま。
「で、ばあちゃんがさ」
「厳しいおばあちゃんが?」
「静かに歩くばあちゃんだよ」
 私の問いかけを、彼は言い直した。
「耳が遠くなっちゃってね。もう全然聞こえなくて、僕の言うことなんか」
 ちょっと悲しい話が始まったかと、くじけず懲りることなく思った訳ですよ私は。
「会う度どんどん小さくなって、兄貴の嫁さんが大きい声で通訳してくれるんだけど、それが悲しくてね」
 そうか、おばあさまは大分はかなくていらっしゃるのだなと、私はまたもうっかりしみじみ聞いてしまっていた。
「ばあちゃん耳聞こえないのにカブ乗ったら危ないよって、言った瞬間にはブーンって走り出してるからね」
「は?」
「危ないよね、耳聞こえないのにカブ乗ったら」
 会う度どんどん小さくなるおばあさま、カブをぶっ飛ばしてらっしゃる。
 この日は仕上げに何か、ドライ用のオイルみたいなものを付けてくれた。
「付けていい?」
「いいよ」
 そしてドライヤーを掛けてから彼は、
「これセレブご用達のドライオイルなんだって、本当かどうか知らないけど。だいたいセレブって誰なんだろうね」
 相変わらずの商売下手を発揮して、
「椿油、続けるといいよ」
 椿油で充分と言いながら、「またどうぞ」と私を送り出してくれた。
 いつでもこんなテンションの彼が、一度だけ超ハイテンションだった日があった(Sくん比)。
 WBCで日本が劇的な逆転勝ちをした翌日である。
 まず入店して待っているときに、雑誌を二冊差し出された。
 MOREとNumber。
「MOREとNumber……?」
 MOREは女性雑誌、Numberは男性が多く読むのであろうスポーツ雑誌である。
「昨日、野球観た?」
 私はその前日、安西先生(スラムダンクだよ)の言うことを聞きかなかった。
「九回まで観て……負けると思って観るのやめちゃったんだよね」
「あー、わかる。わかる、あそこで負けると思うよね。うんうん、わかるよ」
 ええ、あきらめたらそこで試合終了です。
 私は朝結果を知って、テレビを消した自分を憎んでいた。
「その後がすごかったんだよー」
 そして彼はハイテンションに野球の話を延々とし続けた。
 観なかったのは私が悪い! くそー! 観れば良かった!
 興が乗ったのか彼は、私に秘密を一つ、打ち明けてくれた。
「これね、内緒ね。本当はしちゃいけない話なんだけどね……」
 多分、美容室で禁じているのであろう。
「僕、中日ファンなんだよね」
 野球、宗教、政治、の話を禁じているのだろう。なんで打ち明けた! いや別にいいけど!
「中日に、四十七歳の現役投手いるよね」
 しょうがないので、話に乗ってさしあげた。
「ああ、山本昌?」
「そうそう。世が世ならもう儚い年齢よといつも思うんだよね。すごいね」
「何言ってんの、マサが投げる限りは中日ファンはマサを応援するんだよ。たとえ最速130kmでも」
「それってピッチングマシンくらいじゃないの?」
「球界最遅と言われてる。でもね、○さん(私)」
 彼はそれも大変珍しいドヤ顔で言った。
「マサの球はね、手元で伸びて誰よりも早く見えるんだよ」
 おまえ打ったことあるんかい!!
「あ、○さん八重の桜観てる? 僕周りに観てる人一人もいないんだけど」
「もちろん観てるよ」
「やっと話せる人来た! あんつぁまの裸見た!?」
 一番最初に話したかったことはそれですか。
「見たよー」
 そこからしばらく「八重の桜」の話をしていたら、
「なんでそんなに詳しいの? 八重」
「いや……そこはそれ会津の人だから」
 私の秘密は打ち明けられなかった。
 新島八重のフィクション小説を書いたときに、山ほど資料を読み込んでいることを。
 それ以来我々は、小洒落たサロンの片隅で延々と大河ドラマの話をする人たちになった。彼は大河ドラマが好きで、しかし他に語れる人がいないという。
 けれど私も大河ドラマの話になると楽しく喋り過ぎてしまうので、彼は時々横を向いては、
「歴女だ、歴女」
 と、呟く。横には誰もいない。
「何それ」
 尋ねると彼は、
「陰口だよ」
 いつもの真顔である。
 大抵の日はそうして野球か大河ドラマの話をするようになった私たち(小洒落たサロンなのに)、しかしあるとき彼はただでさえ低め安定のテンションを更に降下させていた。
「ねえ、○さん」
「なに?」
「なんでずっと、僕を指名してくれるの?」
 おいおいなんだよその質問。
 困るよ、困るよねそれ。
「仕上がりもいいし、持ちもいいから」
 誠実に私は答えてみた。先週の大河ドラマの話がしたいのに。
「じゃあなんであんまり来てくれないの?」
「仕上がりもいいし、持ちもいいからだよ……」
 私、下手すると三ヶ月以上行かないことがある。
「そうか」
「なんかあった?」
「いや、僕、ばあちゃんの髪を切ってるんだけどね」
「へえ? 素敵じゃない」
「最初、美容師になったときに、母親の髪を切ってやろうと思って、道具を持って、実家に行ったんだ」
「それも素敵だね」
「でも母親が、自分はいいって言ってさ。いまだに僕に切らせないんだよね」
「それは……子どもの頃からよく知っている息子に髪に切られたくないのは、わかる気がするけど」
「なんで?」
「私も中学の同級生男子が握ってる寿司は食べたくない」
「なるほどー。でも母親さ、この間もばあちゃんの髪を切ってたら」
「素敵だよ、おばあさまの髪を切るの」
「ダメ出しするんだよ」
「え?」
「母親がめっちゃダメ出しするんだよ」
「そうなの?」
「あそこがダメだここがダメだ、バランスが悪いってさ」
「そう……」
「だから、○さん何年も、時々だけど、なんで僕を指名してくれるのかなって思ってさ」
 身内の意見は大きいと知る。母に肯定されない限り彼は前に進めない。
 正直、そんな普通の感性が彼にあることに私はこのときとても驚いた。
「まあ、僕も○さん歴女だから時代劇の話しするの楽しいんだけどね」
 歴女、言うな歴女。
 そうこうしているうちに彼は、突然本店の店長になった。
 知らなかったのだがもともと本店の店長で、支店のテコ入れのために支店に来ていたそうなのだが、この話を聞いたときに、
「あなたのその営業力で一体どんなテコ入れができると言うの?」
 と、喉まで言葉が出掛かったがもちろん全力で飲み込んだ。
 本店の店長に戻った彼は、ボロボロに疲れていた。聞くと、新人が沢山入って来て、新人研修で大変だという。
 本店は二階建ての美容院で、アシスタントさんたちはインカムを使って指示を出し合い、そのめまぐるしさは私を大きく困惑させていた。
 彼は臆さず私に聞いた。
「○さん、この店、嫌いでしょ?」
 おまえここの店長だろう。
 でも、私は初めてその本店を訪ねた瞬間、オーナーが自分の顧客を連れて店頭に出て来てその顧客を全身鏡の前に立たせ、
「見て? 全身を見た時のこの素晴らしいバランス!」
 と、パッショネイトに自分の仕事を称えるのを目撃してしまい、それはもうインカムとかの問題ではなく好き嫌い以前にこの店私全然合わない! と、悲鳴を上げそうなくらいだった。
「でも、この店は嫌いでも僕は嫌わないで」
 うん、なんていうか期待を裏切らない発言だな。
「そんなに大変? 新人研修」
 疲れ切っている彼に、私は尋ねた。
 人の上に立っている気配が全然しなかったので訊いた。
「あのね、彼らには」
 大きく彼は溜息を吐いた。
「若さしかない!」
 彼は倒れそうに疲れていた。率直に言ってあのね、向いてないよ店長!
「でも、僕の若い頃よりはマシだよ。僕美容師になったの、モテたいだけだったからさ」
「一人前になるのに何年くらいかかるの?」
 彼は言った。
「なんでそんなこと聞くの?」
「それは新人研修の話をあなたがしたからです」
「ああ……もういいよその話は」
 おい!
 そこから彼は私に、Facebookはやっていないのかと聞いて来た。
 私は公私ともにやっていない(2020年から始めました)。
「やってないよ」
「そうなの? おもしろいよ。やればいいのに」
「何書いてるの?」
「何も書いてないよ。全然更新してない。他の美容師がコンクールのために訓練したりしてるの読んで、焦ったりしてるだけ」
「ねえそれ楽しいの?」
「僕はいつかFacebookは、大事件の元になると思うね」
 疲れのままに、彼は話を進めた。
「僕中間管理職だから、みんなが休みの日にも働いてたりするわけ」
 中間管理職の四月は、愚痴にまみれていた。
「そんなとき部下がさ、釣りに行ったりバーベキューしたりして、それをFacebookに上げてるの見ると殺してやろうかと思うよね」
「殺人だけはよしてちょうだい」
「あとさ、僕がオーナーに呑みに誘われて断ったとするじゃない?」
 パッショネイトなオーナーと彼が全く合わないことは、一度オーナーを見ただけの私にも一目瞭然だった。彼はオーナーと呑みに行ったりしたくないのであろう。
 しかし、何故そのオーナーの持つ本店の店長をやっているのだ君は。
「それで僕が他の美容師と呑みに行って、その美容師がFacebookに僕と呑んでるって書いたとするじゃない。それはもう、大事件だよね」
「なんで私にFacebook勧めた!?」
「○さんもこんな思いをしたらいいと思ってさ」
 疲れ果てながらも彼は、いつも通り扱いやすく髪を切ってくれた。
 思いがけず最後になってしまった日に、私はちょっとやらかした。
 平日の午前十一時に予約したので、到着するとお客さんもそんなにはおらず、Sくんが珍しく入り口のホールみたいなところに立っていた。
「ああ○さん」
「ああSくん」
 彼が私に歩み寄って来て右手を差し出したので、
「やあやあどうもどうも」
 みたいな感じで私はなんの躊躇も疑問も抱かずに、両手で彼の手を握った。
 彼は真顔で言った。
「○さん。握手じゃないんだ。荷物をくれ」
 政治家であった祖父の血がどくどくと流れていることを、このとき私は呪った。
 とても恥ずかしかった。
 その日は大荒れの天気予報のはずだったのだが、見事なまでの秋晴れで暑いくらいだった。
 髪をなんかされながら、
「爆弾低気圧何処行ったんだろうね」
 と、私は「天気の話」という最も当たり障りのない話題を出した。
 すると彼は、私の左側に立っていたAさんというアシスタントさんに声を掛けた。
「Aさん」
 呼びかけられたAさんは、淀みなく言った。
「爆弾低気圧は午前五時半頃関東地方を通過して、予想外の早さで現在北海道におります」
「なんなの!?」
 なんなのこの美容院!?
「うちのお天気お姉さんなの」
 Sくんは、いつものことみたいな感じで言った。
「お天気詳しいの?」
 Aさんに尋ねると、
「お天気はとても大事です」
 そうAさんは笑顔だ。
 天気予報から朝の情報番組での食べ物の話になり、常々思っていたことを私はSくんについ言ってしまった。
「好き嫌い多いよね」
「そんなことないよ……あれとこれとこれとあれが食べられない」
「多いじゃない」
「○さん鮭の皮食べられる?」
「大好き」
「エビの尻尾は?」
「普通に食べるよ」
 なんでそんなこと聞くのだ食べられないのかと思って聞いていると彼は突然、
「あなたの今日一日の幸せをお祈りしております」
 と、手で小さな丸を作った。
「なんなの!? やめてよ変な呪いかけるの!!」
「え? 知らないの? ジップ観てない?」
「なにそれ」
「今日のジップで、鮭の皮が食べられる人はエビの尻尾も食べられるってやってたんだよ。ジップで最後にこれやるの。あなたの今日一日の幸せをお祈りしております」
「それ知らない人にやったら、なんの新興宗教かと思われるよ」
「心外だな。ジップ観ないで何してるの?」
 観なければならないのかジップは。
「寝てるんじゃない? その時間私」
「いいご身分だね。じゃあ、もこずキッチンも観てないんだ?」
「ああ、観たことないけどオリーブオイルを掛けまくる番組」
「そうそう。もこみちイケメンだよね」
 ちなみにこの番組、幼なじみは「高いところから塩を振る番組」と、言っていた。
 私は見たことがないので、私の中の「もこずキッチン」はオリーブオイルと塩に塗れている。
「えー?」
 もこみちイケメンだよね、と言われて私は同意しなかった。
「イケメンだと思わないの?」
「イケメンかもしれないけど、好みじゃないかな」
「へえ。じゃあ好きな男性芸能人って誰?」
 私は随分長いこと彼に髪を切ってもらっているけれど、こんな公共性の高い質問をされたのは初めてだった。
「高橋一生」
 ドラマ「民王」が終わった頃である。
「いしだ壱成?」
「いや、高橋一生」
「坂本一生?」
「だから高橋一生」
「誰それ」
「黒田官兵衛全部観た?」
「観た」
「最後に黒田官兵衛が死ぬところで、三人の重臣が看取ったでしょ? まさに、もこみちがそこにいて」
「いたね」
「残りの二人のうちの一人。多分黒田官兵衛の足下辺りにいた方」
「auのCMの金太郎?」
「それ真ん中にいた人ね。濱田岳」
「じゃあ松田翔太?」
「auのCMの話してるんじゃないんだよ。黒田官兵衛の家臣」
「え? もう一人? 誰だっけ?」
「割と早くから出てずっといたよ」
「何してた?」
 Sくんは違う話になってはどうしても残りの一人が気になるらしく、度々私に聞きました。
 最後の最後に、
「笛吹いてた」
 と、言ったら、
「ああわかった! もこみちの方がイケメンじゃん」
 彼との楽しい(私は楽しかった)会話の日々の最後の言葉は、「もちみちの方がイケメンじゃん」というごく普通のコミュニケーションとなった。
 何故私が美容師を変えたのかというと、単純にもっと腕のいい美容師にうっかり出会ってしまったからである。しかし私はすぐに新しい美容師に乗り換える気持ちにはなれずに、「大河ドラマと野球の話をし続けるSくん」と「腕の良い勉強家の女子」との間で揺れ動いていたのだが、女子はとにかく腕が良かった。
 不意にその女子に出会って、私は思い知った。
 髪を切ってもらわないとSくんには会えない! 私なんてただの客でしかない!!
 この悲しみを私はBL小説に転化しようと考えている。
 私が攻めで、Sくんが受けよ。新しい素晴らしい技術者を見つけたので取引先を変更するものの君が好きだと気づき、
「技術はもっといい人見つけたけど君のことは人として好きだ!」
 と、攻めが愛を打ち明けるBL。どう?
「あれ? この話」
 というBL小説に今後出会うことがあったら、なんちゅう酷いやつなのだと私のことは存分に罵ってください。
 私が人様に職業を言えないのは、当たり前のことなのである。

サポートありがとうございます。 サポートいただいた分は、『あしなが育英会』に全額寄付させていただきます。 もし『あしなが育英会』にまっすぐと思われたら、そちらに是非よろしくお願いします。