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中村俊輔選手の現役引退によせて

プロサッカー選手の中村俊輔が現役を引退するらしい。

いわゆる彼の“推し”や“個サポ”ではないが、それなりに思い入れはあるし、過去を振り返ったり自分の意見をまとめたりするにはいい機会なので、久しぶりに筆を取ることにした。

僕の中にあるのは、「横浜F・マリノスの中村俊輔」との思い出と教訓だ。

むかしから彼のことは知っていたが、僕が初めてマリノスのホームゲームを訪れたあの頃、彼はFIFAワールドカップ南アフリカ大会の絡みでメディアに追いかけ回され、日本代表を見守る大勢のファンに叩かれ、最終的には周囲の期待に応えられず、どこか失望と脱力感を思わせるような表情を浮かべ、サムライブルーの10番を脱いでいた。端的に言うと、「過去の人」になりつつあった頃だ。

しかし、あの日あの時、日産スタジアムのピッチに立っていたマリノスの背番号25は違った。パスを受けてからの大胆なサイドチェンジ、そこしかないというコースで正確にボールを送る技術、ボールが足に吸い付くようなトラップ、そして彼の代名詞であるフリーキック…サッカーに詳しくなくても、あの佇まいの華麗さをたくさん感じ取ることができた。

やがて僕は新横浜に足繁く通い、トリコロールのアディダス製ユニフォームに袖を通すようになった。毎週のように中村俊輔の妙技を味わい、そこからサッカーを学び、だんだんとピッチ上のしくみが分かるようになってきた。サッカーって面白い。彼は、僕にそう思わせてくれた人々のうちのひとりだ。

でも、ひとつ残念なことがあった。中村俊輔が中村俊輔であり続けようとしたことだ。巧みなボールコントロールと大局観で、フィールド全体を動かすファンタジスタ。「俺が試合を決める」という強烈でカリスマティックな想いは、かつての輝きを失いつつあった彼自身にとっての軛へと変わっていった。だからといって彼との思い出が変わるわけではないが、少なくとも僕の目にはそう映っていた。

2015シーズン中盤、負傷離脱から復帰した彼は、それまで慣れ親しんだトップ下ではなく、ダブルボランチの一角を務めていた。ビルドアップのために2列目ないしは1.5列目からスルスルと離れ、中盤の底あたりから攻撃のスイッチを入れることが多かった彼のプレースタイルを考えれば、エリク・モンバエルツ監督の采配は理に適っていた。あの頃、彼があの場所で活路を見出していたら――その後すぐに彼が大車輪の活躍を“見せてしまった”ことも含め、7年が経った今でも、あの先につながっていた「もしも」の世界を想像することがある。

でも、それも含めて中村俊輔なんだろう。きっと。

リーグ優勝はできなかったし、2014年元日の天皇杯優勝も旧国立には行けなかったけれど、マリノスゴール裏から「俺らの誇りウルトラレフティ」と何度も歌ったことは良い思い出だ。2016年末、長居で試合終了のホイッスルを聞いたあと。あれが歌い納めだった。あのチャントをまた歌える日が来るのか僕には分からないが、彼は水色のユニフォームを着てプロキャリアを終えようとしている。そのことが意味するものは大きく、重たい。

きっと、彼も心境の変化があっただろう。いつだったか、天皇杯で彼がいるチームと対戦したときのことだ。パスは相変わらず光っていたものの、走る姿の軽やかさが失われていたり、ちょっとした身のこなしのキレが感じられなくなっていたり、なにより“中盤の底”を主にプレーしていた彼の姿を見て、来たるべき日はそう遠くないと僕は思っていた。そうした変化の数々を彼自身はダイレクトに感じていたわけで、葛藤や苦悩、そして受容と諦観の日々を過ごしてきたのではなかろうか。

とにかく諦めの悪い男だったと思う。それこそが彼の向上心の源で、批評批判の的で、経歴の華々しさを支えた屋台骨で、トリコロールから去った理由で、僕が今日このように彼のことを振り返らなければならない原因だ。俺たちはついに、プロサッカー選手・中村俊輔とリーグ優勝できなかった。そればかりか、あの頃の思い出が複雑なものとなってしまった。

それでも、あの頃の綺麗な思い出は、なるべく綺麗なままにしておきたい。またいつか、どこかで道が交わったときにあの頃のことを思い出して、わずかでも穏やかな感情を持てたらいいなと思う。

彼が引退するそのときまで、彼のマリノスのユニフォームは買わないと決めていた。だから、僕のクローゼットに彼のユニフォームはない。

遅えよ、俊輔。

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