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ベートーヴェンとシュパンツィヒ

1792年、ハイドンに弟子入りするため、ドイツの片田舎ボンからはるばるウィーンに出てきた21歳のベートーヴェン。音楽好きのリヒノフスキー侯爵の屋敷の一室に住まわせてもらうことになる。侯爵のサロンには才能のある弦楽器の少年たちが出入りしていて、そのリーダー格が、ベートーヴェンより6歳年下のイグナーツ・シュパンツィヒだった。とりわけ、彼の率いる弦楽四重奏のすばらしさにベートーヴェンは心奪われる。シュパンツィヒの弦楽四重奏団はのちにラズモフスキー伯爵邸のお抱え弦楽四重奏団となり、これが史上初のプロ弦楽四重奏団となった。

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カール・リヒノフスキー侯爵

2人はすぐに仲良くなり、ベートーヴェンは、シュパンツィヒにヴァイオリンのレッスンも受け始める。新進気鋭の青年作曲家が、6歳年下の天才的な少年ヴァイオリニストにヴァイオリンを習う…微笑ましい光景である。ベートーヴェンがシュパンツィヒにつけたあだ名が「ファルスタッフ」。太った体型にちなんで、シェイクスピアの戯曲に登場するデブキャラの名をあてがった。シュパンツィヒ率いる最高の弦楽四重奏団が、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲に生命を吹き込んでくれた。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は、シュパンツィヒへの友情と信頼の賜物なのだ。

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イグナーツ・シュパンツィヒ

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ファルスタッフ

ベートーヴェンが初の弦楽四重奏曲(Op.18の6曲)に取り掛かったのは1798年から1800年。満を持しての作曲である。このなかで最初に作曲されたのは第3番 ニ長調。ところが、ドミナント7thから始まるという斬新さを持つので、出版に際してはこれを1曲目にしないほうが良いとシュパンツィヒがアドバイスしたようだ。ツェルニーがこんな証言をしている。

最初の6曲の弦楽四重奏曲の「第3番 ニ長調」はベートーヴェンが一番はじめに書いた弦楽四重奏曲です。出版順では第3曲目になりましたが、これは、成立年代としては、ニ長調より後のへ長調を「これを第1曲目にした方が良さそうです」とのシュパンツィヒの忠告にしたがってベートーヴェンがこの順にしたのです。ニ長調はいきなり第7度から始まりますが、こんな始まり方は当時考えもつかないやり方でした。シュパンツィヒは「これではとても誰も弾きたがらない」とでも思って「第1曲目は普通のやり方の曲が良い」とベートーヴェンに言ったのかもしれません。

ツェルニーは、ベートーヴェンにとってのシュパンツィヒの存在の大きさについて感嘆とともに述懐している。

シュパンツィヒは、ベートーヴェンの友人の中でも特筆に値する1人と言えましょう。冗談半分にベートーヴェンは彼を「私のファルスタッフ君」と名づけたのですが、世間一般の人たちは、背が低くて太ったこのおもしろい青年が、その胸中に繊細で精神的な感覚を秘めていることに気づかなかったのです。弦楽四重奏のヴァイオリン奏者として当時の第一人者、なかなかの腕前の独奏者でありまた指揮者としても第一級だったのがこのシュパンツィヒでした。彼は作曲せず自己顕示欲がぜんぜんなかった人ですから、その演奏はベートーヴェンの意図するところとぴったり一致し、演奏芸術のすべてを駆使して、聴く者にベートーヴェンの音楽の偉大さ・美しさを満喫させてくれたのです。シュパンツィヒ以上に、ベートーヴェンの音楽の根底に立ち入ることのできた者はおそらくいないでしょうし、また、ベートーヴェンにとってシュパンツィヒのような友人は実に貴重な存在でした。

作曲家の創作ジャンルの分布は、音にしてくれる仲間の存在に大いに影響される。ベートーヴェンの弦楽四重奏はシュパンツィヒとの二人三脚で誕生したものと言っても過言ではないだろう。

1806年、ウィーンに駐在していたロシアの外交官アンドレイ・ラズモフスキー伯爵の委嘱で、いわゆる「ラズモフスキー弦楽四重奏曲」Op.59の3曲が生まれる。伯爵へのオマージュとしてウクライナ民謡風のテーマを使ったりして、ユニークな楽曲となった。ラズモフスキーは自らも優れたアマチュア・ヴァイオリニストであり、四重奏曲の初演をしたシュパンツィヒたちを、1808年に自分のお抱え四重奏団にしてしまった。時々ラズモフスキー自身もセカンド・ヴァイオリンに加わって一緒に演奏したようだ。

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アンドレイ・ラズモフスキー

Op.59-3の第2楽章(ウクライナ風の旋律)

しかし、1814年、ラズモフスキー邸が火事で焼失し、四重奏団も解散となってしまう。シュパンツィヒはロシアに行ってしまうが、1823年にウィーンに帰郷。旧ラズモフスキー四重奏団のフランツ・ヴァイス(ヴィオラ)、ヨーゼフ・リンケ(チェロ)に、若いカール・ホルツ(セカンド・ヴァイオリン)を加えたメンバーで四重奏団が再結成される。こうしてベートーヴェンの晩年の傑作弦楽四重奏群が生まれ、第9交響曲の初演(1824年)のコンサートマスターもシュパンツィヒが務めた。ちなみにシューベルトもシュパンツィヒ四重奏団の演奏に感銘を受けて、弦楽四重奏曲《ロザムンデ》を彼に献呈した。

ベートーヴェンのOp.127の変ホ長調をめぐっては一悶着あった。楽曲が斬新かつ難解で、奏者たちが咀嚼しきれず、初演が失敗に終わったのだ。シュパンツィヒがくどくどとその言い訳をしている筆談帳の書き込みが面白い。

わたしは本当に完全になるまでは演奏しない、と言っていたのです。
われわれがあの曲を安直に演奏したこと、あの曲があるべきように演奏しなかったことは確かです。ですが、わたしだけではなく四人全員の誤りです。
わたしに音を勉強させてください…。

この曲のリハーサルに際し、シュパンツィヒが「ヴァイオリンの限界を超えている」と不平を言ったとき、ベートーヴェンは「音楽の精霊が語りかけてくるときに、君のあわれなヴァイオリンのことを考えていられるか」と言ったそうである。

そして、2人の仲の良さを現代に伝えているのが、ベートーヴェンがおふざけで作った合唱曲《シュパンツィヒはろくでなし》WoO100。

Schuppanzigh ist ein Lump. シュパンツィヒはろくでなし
Wer kennt ihn nicht, 知らぬ者はいるか?
den dicken Sauermagen, 太ってもたれたお腹
den aufgeblasnen Eselskopf? ぶくぶく膨れたロバみたいな顔
O Lump Schuppanzigh, おお、ろくでなしシュパンツィヒ
o Esel Schuppanzigh, おお、ロバのシュパンツィヒ
wir stimmen alle ein, 僕らはともに謳いあげよう
du bist der größte Esel, 君こそがもっとも偉大なロバ
o Lump, o Esel, hi hi ha.” おおろくでなし、おおロバ、ヒ、ヒ、ハ
(内藤 晃 訳)

さあ、ベートーヴェンの弦楽四重奏を聴きながら、この「偉大なロバ」に感謝しようではないか…!

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カール・ホルツ

ちなみに、ベートーヴェン晩年に彼の秘書も務めた、シュパンツィヒ四重奏団のセカンド・ヴァイオリンのカール・ホルツが伝えているところによると、ベートーヴェン自身、Op.130のカヴァティーナ(第5楽章)を、自作曲でもっとも好きな楽章と語っていた。悲しみの涙のなかで作曲したもので、この音楽を思い返すと今なお涙が出る、と。心して耳を傾けたい。

初出 アルカスSASEBO「ベートーヴェン小噺」に大幅加筆

参考

ベートーヴェンの弟子ツェルニーによる、ベートーヴェン:ピアノソナタの解説。前半に、ベートーヴェンとの出会いやレッスンの回想録や、ベートーヴェンの種々の作品、彼の難聴の進行に関する記述など、貴重な証言が満載。

ベートーヴェンの手紙。シュパンツィヒとのOp.127をめぐるすったもんだも記録されている。特に面白いのは、作曲の弟子でもあったパトロン、ルドルフ大公とのやりとり。彼に献呈した《告別》ソナタをめぐっては、原題のLebe wohlをLes adieuxに勝手に仏訳した出版社に、ニュアンスが違うと抗議までしている。

引用は前掲書からですが、適宜筆者が改訳しているところがあります。

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