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ラヴェルの弟子、アンリエット・フォール

Roger Nichols氏による、作曲家の回想録(Remembered)シリーズは、近しかった人たちの重要証言が網羅されていて、たいへんに興味深いものです。

わたしも一通り揃えて時々参照するのですが、ラヴェル編に収められた次の証言にはびっくりしました。

ラヴェルの《水の戯れ》についての、アンリエット・フォール(Henriette Faure, 1905-85)の証言(筆者訳)

私がこの曲を演奏すると、ラヴェルはただ一言、「あなたの弾く《水の戯れ》は悲しげですね。さては、アンリ・ド・レニエのエピグラフ〈水にくすぐられて笑う川の神〉をまだ読んでいませんね」。そこで私は再び弾き始めました。今度はもっと生き生きとしたテンポで、新たなモチーフにいざなう4つの8分音符をラヴェル風に引き締め、メロディラインの抑揚やその隙間に少し空間を与えて呼吸し、すっと手を上げてスラーの末尾をクリアにして。何よりも楽しいことを考えて、それまで瞑想的だと思っていた音楽を、きらめくディヴェルティメントに変えてみようと試みました。ラヴェルは、「良くなりました。でも、最後はもう少し夢見るような感じにした方がいいですね、できる限り…」と言うので、生意気にも「でも先生は減速していませんでしたよ」と反論。彼は、私の模倣に内心腹を立てたかもしれませんが、実際には、とても素直に笑っていました。

Henriette Faure. Mon maître Maurice Ravel (Paris, 1978) p.95

アンリエット・フォールは1922年(17歳)にラヴェルに師事し、翌年シャンゼリゼ劇場で世界初のオール・ラヴェル・リサイタルを開いた女性ピアニスト。世界各地でラヴェル作品のツアーも行った、ラヴェル演奏のパイオニア的存在です。

Henriette Faure(1905-85)

いくつかラヴェル作品の録音も残っており、たとえば、先ほどレッスンの記録をご紹介した《水の戯れ》はこんな感じ。眩いばかりに鮮烈に煌めく演奏で、そのなかに陽気な遊び心を漂わせており、すっかり心奪われてしまいました。

アンリエット・フォールの証言は、ラヴェルのレッスンでの会話も書き留められていて、実に生き生きとラヴェルの美学を伝えてくれるものです。ラヴェルの弟子ヴラド・ペルルミュテールの証言は、演奏上の注意事項を伝えてくれてはいますが、ラヴェルの言葉という点ではここまで具体的でないため、是非ともこのフォールの著書を入手したくなりました。

パリで1978年に出版されたフォールの著書『わたしのラヴェル先生』は、すでに絶版になって久しいため、母校の図書館を通じた「海外図書館間貸借」を利用。送料などで9150円かかりましたが、こうなると、もはや何かに取り憑かれたような執念とか、使命感みたいなものです。

こうして目にすることができたフォール『わたしのラヴェル先生』は、期待に違わず面白い内容!たとえば、《鏡》についてはこんな風に述べられています(筆者訳)。

《鏡》というタイトルは、明らかに、当時のあらゆる美学を支配していた象徴主義に由来する精神を示唆するものですが、ラヴェルは物事を客観的に表現しようとしていたのでしょうか、それとも、外界の生きた鏡である彼の感性に、響きや反射を取り込もうとしていたのでしょうか?
これは、ラヴェルの魂についての深い理解があれば答えられる、重要なトピックです。
ラヴェルが人生や自然のイメージを、彼独自の緻密さ、色彩、技巧、スタイルで描写するとき、作者は絵画の輪郭をより純粋なものにするために、彼自身の感情の縁を意図的に取り除いています。これは決して、作品がドライで感情がないという意味ではありません。
しかし、自然を例にとれば、ラヴェルが大地と空、太陽と夜、風とそよ風を、その作品と人生の主要な要素として描いたのは周知の通りです。
自然は「私がどれほど美しいか見てください」なんて言いませんし、感情を溢れさせて私たちの足元に涙を流すこともありません。ただ、在るだけなのです。それ以外はすべて見る人次第なのです。うっとりした眼差しと確かな喜びとともに自然を眺める人もいれば、自然から思索や優しさを受け取れる幸運な人もいるでしょう。中には、自分を忘れて自然と一体化し、自然の素晴らしさのなかで肉体を忘れて自分を薄められる、特別な人もいます。そうすることで、自然は人間よりも優位な、純粋でかけがえのない存在であり続けます。これが《鏡》という曲集の意味だとわたしは信じています。こうしてラヴェルは、大変な努力を通じて、偏見のない、超越した存在となって、作品の一部として取り込まれます。彼は、自分が同化した音楽の主題の変容の旅のなかで、自ら進んでその存在を消すことになります。福音書にあるように、「自分を忘れる者が自分を発見する」のです。これが、ラヴェルの厳格で宗教的でさえある意識を創り出すのに必要な客観性です。
《絞首台》は「城壁で鳴る鐘の音」、《水の戯れ》は「水にくすぐられて笑う川の神」、《悲しい鳥》は「夏の暗い森の中で失われた鳥の声」。ここには、作曲者の感傷的な貢献は消え去っています。
残っているのは、彼の作品を創り出した精神の純粋さであり、音楽言語の清冽さであり、俗悪なものに邪魔されることのない美の光を直接伝える鏡なのです。
だからこそ、モーリス・ラヴェルは音楽の弾き手たちに、「私の音楽を解釈せずに演奏してほしい」と、感情の介入を完全に排除するよう命じたのです。

Henriette Faure. Mon maître Maurice Ravel (Paris, 1978) p.69-70
筆者はフランス語に堪能でないため、DeepLと辞書の手を借りていますが、
若干不正確なところがあるかもしれないことをご容赦ください。

アンリエット・フォールは、《夜のガスパール》の〈絞首台〉のレッスンで、ラヴェルから強烈なダメ出しを食らいました。〈絞首台〉の鐘の音は、「支配する」のではなく、「ただ鳴っている」のだと。そして、彼の作品の削ぎ落とされた性質と、演奏者が自ら意識的に人格を消す必要性を辛抱強く説明されたそうです。その内容を、上に引用した《鏡》についての頁で改めて詳にしているわけですが、これは《鏡》というタイトルの意味のみならず、ラヴェルの音楽の本質を伝える、きわめて重要な証言と言えるのではないでしょうか。

ここで語られている内容は、ラヴェルが《鏡》についてのインタビューで引用したというシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の場面とも付合します。キャシアスがブルータスにシーザー暗殺を唆す場面です。

キャシアス:ブルータス。君、自分で自分の顔が見えるか?
ブルータス:いや、目には、目そのものを見ることはできぬ。何か、ほかの物に映して見るほかはない。
キャシアス:そのとおり。だからこそ、誰しもが嘆いているのだ、ブルータスにはそういう鏡がないことを。[…]
ブルータス:どんな危険に私を引き込もうというのだ。[…]
キャシアス:[…]おれが、君の、鏡になろう。君自身もまだ知らぬ、君自身の心の奥を、君自身の目に、ありのままに見せてやろう。

シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』安西徹雄訳、講談社古典新訳文庫より抜粋

わたしたちは、人格を消して音楽に同化し、〈蛾〉や〈悲しい鳥〉が映し出す自分を発見することができるのでしょうか…。

アンリエット・フォールの奏でるラヴェルは、夏目久生氏の主宰するSakuraphonから復刻CDが出ています。ラヴェルを愛する方は必聴です。


追記
日本モーリス・ラヴェル友の会の石黒万里生氏から情報をいただきました。アンリエット・フォールの『私のラヴェル先生』の抜粋を、下記のサイトで読むことができます(フランス語)。Frédéric Gaussin氏による紹介記事です。


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