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【Day.0】 6/12 プロローグ。

6月11日、父が息を引き取った。
7年前から癌を患い、年が明けてからは自宅でケアを受けながら、日曜の昼前に逝った。 長年の消防団での活動が認められ、叙勲も授かった人生だった。

父と息子という関係にはよくあることで、僕たちの会話はほとんどなかった。
会話が多くなかった分、お互いの行動で意思を伝え合っていたと思う。

僕が大学を出て働き始めた頃、父と二人きりになった時にぽつりとこう言った。
「彰、男は稼ぐだけではダメだ。稼ぎと務めで1人前だぞ。」

「務め」は地域やコミュニティのために貢献すること。
55年以上、消防団の活動を続けた父らしい言葉だった。
その言葉は、僕の心にずっと残っていた。

2011年の東日本大震災。
「稼ぎ」も不安定な中、せめて「務め」を果たしたいとプロジェクト結コンソーシアムを始めた。
復旧・復興の仕事に10年以上携わることになった。
復興庁で公の仕事に就くこともあった。

2022年2月のロシアにウクライナへの侵攻。
武力による現状変更に対して「これは僕の出番では無い」と言い聞かせていた。
ある日、友人がウクライナから国外に避難するバスへの寄付を募っていて、僕にメッセージをくれた。
「どうにか助けてもらえないか」って。

それがきっかけで一般社団法人戦災支援復興センター(以下WDRAC)を始めた。

友達のネットワークの中で、地道にできることを続けてきた。
2022年の暮れ、ポーランドとウクライナの国境の街、メディカに拠点を構えて活動するActions Beyond Words(以下ABW)のSimonとTravisから、「彰、現場を見るべきだよ」と声をかけられ準備をしながら6月13日に日本を立つことになった。

6月11日の昼に父の死亡が医師によって確認されると、物事が慌ただしく動き始めた。
妻と娘たちを迎えに行く車中で、今回の訪欧をどうすべきかについて逡巡することになる。

「こんなとき、父さんだったら何て言うだろうか。」


胸に手を当てて、これまでの父との時間を思う。

僕は好き勝手に生きてきて、母は心配し続けていた。

そんなとき、父はいつも母にこう言っていた。

「彰がいいと思うようにすればいいんだ。」

行かない、という選択肢を僕は選ばなかった。
きっと父は「行って務めを果たしてこい」と言うはずだから。

月曜の通夜を終え、妻と娘を斎場近くのホテルに送り、そのまま下北沢の自宅に戻った。
日付を過ぎて、離陸まで8時間。
旅支度を始める。

40リットルのバックパックは、機内持ち込みができるぎりぎりのサイズ。

必要最低限の荷物を用意する。

父も旅立ちの準備をしていて、僕も旅立ちの準備をしているんだな。

25時、シャワーを浴びて寝過ごさないようにリビングのソファーに横たわる。
目をつぶって父との一番古い思い出の記憶をたどっていくうちに眠りに落ちていた。




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