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作品とかの問題ではないという話

作品とはいうけれど、わたしは作品を作っているとは全く思っていないという気づき最近があった。それは三浦春馬さんの訃報を見たときのことで思い出された。自殺というのは何かを追いかける一つの手段、いいか悪いかはわからない。しかし死ぬ。そこから消えてしまう。わたしには、三浦春馬さんは何を追いかけたのかは全くわからない。しかし肉体は決して戻らないということはわかる。ここ2日ほど様々な媒体で三浦さんのお写真を見かけている。
報道がどうだとかそこへわたしは全く何にも思っていないというか、ここで書きたいことはそこではなくて、三浦さんがお写真として、ネットならばその画像として雑誌ならば印刷物として祈りのように残っているということの話。

今年の初め、わたしの大切な友達が亡くなった。友達からのラインがきて知った。もっと前に同級生が亡くなり、そのもっともっと前にひいおばあちゃんが亡くなっている。その時は思えなかった感情がふつふつと湧いてくる。そしてこの日常に時折思い出される、その子と見た景色、その子の綺麗な髪、そしてその子のだんだんおかしいなと思う言動。わたしもおかしなことを時々言い出すから、その子の刻まれていく気持ちの移り変わりとか、気持ちの波の激しさ、いろんなものをその時のわたしは軽率に、わかるわかると言っていたな、と言うのを思い出してしまう。そしてわたしの展示活動、イラストレーター/(いわゆる)表現活動をしている、意味を理解した。大切なひとの誰とも共有できない気持ちをわたしは感じ取ることができるから(理解も共有もできないけど)、それをものにすることに意味があるのだと言うことなのかな?その時、そうだとしたら作品と言うことをやめよう、このイラストをもっと自分の近くにしていこう、と言うことも思った。

ここ少し前、わたしはイラストが描けなくて、他のことに気を取られすぎていた。そしてイラストが描けなくて焦っていた。展示も近い、けど描けない。どうしよ、でもそのうちかけるよね。と言う気持ちがわたしの中には大きくあった。(主催者さんごめんなさい)。

今、とってもいろんなことをしたいです。アニメーションもしたいし、イラストレーションのお仕事をたくさんしたい。展示ももっとしたい。それは自己満足の世界。そしてそれはそれでいい。わかってくれなくていい感情を吐き出す。イラストレーションは絵画と何が違うのかなと考えることは時折あると思うけど、展示に関して言うとあんまり垣根とかはないのかなと思う。どう思ってくれてもOK。(仕事としては、それではいけないですが)。

今、いろんなことを最初は誰のせいでもなかったはずのことを、それが落ちてきてとてつもない速さで広まったから怖くなってみんなで一斉に責めているのかなと思う。それは自然なことだなと思う。でも、本質が見えなくなっちゃうことも感じられる、これも自然なことだと思う。そうすると、残さないといけない肉体があったこと、と言うことが責め合うことでどうでもいいゾーンに入ってしまう。今、わたしの役割は、人は、そこにいたのだよと言うことを伝えることだと思っている。インスタグラムでもなんでもいいのだけど伝わればいいのかなと思います。別に他の捉え方をされてもいいし、わたしもこの素行が変わってしまうかもしれない。でも2020年7月19日17:10の今はこんな感じに考えている。そう考えるとSNSやっている意味ってあるな。

そしてondo galleryと霧とリボンさんでのグループ展示ぜひご覧になってください。よろしくお願いします。


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