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[第五回] 今日という一日を楽しむ〜Carpe diem quam minimum credula postero

つい2週間ほど前、行きつけの喫茶店「マリモ」が閉店したと思ったら、今度は「バー露口」まで無くなってしまった。

https://www.rnb.co.jp/nnn/news110g7cgqp2108w4p9u7.html

ご夫妻が揃って腰を傷められたのが先月末。そのまま閉店を決められたとのことだ。実に64年の歴史の幕引きだった。

ちょうど8月の終わり。堀込高樹(KIRINJI)が松山に弾き語りライヴで来たとき、終演後に馴染みの居酒屋に案内して、もう一杯ハイボールでも……と思って「露口」へ誘ったら、ドアに臨時休業の貼り紙があった。来訪のタイミングがちょっとだけズレていたら───と、今になれば思ってしまうが、マスターが85歳、奥さんの朝子さんは80歳。生涯現役を貫かれた結果なので、致し方ないと思う。

喫茶「マリモ」は、ぼくと同い年だった。二番町という入れ替わりの激しい繁華街で、1969年の創業当時のしつらえを残したまま営業を続けていた貴重な店だった。

ある日、いつもなら上がっているはずのシャッターに〈テナント募集〉の紙が貼ってあった。たぶんそのときのぼくは呆然の「呆」の字そのままの顔つきだったと思う。そして、今、跡地は無情にも無料案内所へ形を変えようとしている。

カート・ヴォネガットが作家志望の学生に向けた講演でこんなことを言っていた。

作家はいずれにせよ、自分の人生について書くことになる。しかし、もしつまらない西部劇を書いていたら───つまらないものでなくても、たとえば『真昼の決闘 』みたいな傑作の西部劇を書いていたとしても、書いている本人は自分の人生のことを書いているとは気づかない。なぜなら、作品のどこかに、作家の精神的な問題がそれとなく紛れ込むからだ。

ぼくが「マリモ」や「バー露口」のような店に惹かれる理由は、単なるノスタルジーじゃない。彼らが出す珈琲やハイボールに、あるいは保ってきた空間に、店主たちの〈人生のこと〉や〈精神的な問題〉が滋味としてたっぷり含まれているからだ。つまり小説や脚本のような、ナラティヴィティのある場所だから好きなのだ。

今後、高松「おふくろ」のような復活劇が起こらずとも、あの素晴らしい場所が無料案内所に変わるようなはしたない・・・・・ことだけは、長年「露口」を贔屓にしてきた、財力と権力のあるおじさまやおばさまたちに全力で阻止してもらいたい。さもなきゃ、なんのためにえらくなった?


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