[ヴァン・ダイク・パークス "ディスカヴァー・アメリカ"を勉強する] Bing Crosby(1)
ライオンの唸り
「Bing Crosby」はザ・ライオン、あるいはロアリング・ライオン(Roaring Lion)という芸名で知られるカリプソニアン、ラファエル・デ・レオンの曲だ。1939年にデッカから発売された78回転盤にオリジナルヴァージョンが収録されている。
デ・レオンはカリプソの黄金時代である1930年代から1950年代に活躍し、芸名のRoaringはライオンのような猛獣の咆哮を意味する。彼が世に出た1020年代は俗に〝狂騒の20年代〟(Roaring Twenties)〟と呼ばれていたので、それも由来のひとつだろう。
1908年にブラッソ・カパロというトリニダードの小さな町で、婚外子として誕生したデ・レオン。引き取ってくれた養母とも幼少期に死別し、その後は孤児院で育った。しかし、不幸な生い立ちにめげることなく、野心的で、知的で、カリスマ性があり、学校でも非常に優秀な少年だったという。子供の頃から文章や音楽が好きで、作曲法やクラリネットの演奏もマスターした。19歳からトリニダード初の商業用カリプソテント「レイルウェイ・ダグラス・テント」で活動を開始。その年のうちにいくつかのコンテストで優勝を果たす。1940年には年間で最も優秀なカリプソニアンに与えられる栄誉〝カリプソ・モナーク〟にも選ばれる。
デ・レオンの作った曲は他のカリプソニアンだけでなく、英米のフォークやポップス、ソウルなど、さまざまな歌手によって頻繁にカヴァーされた。しかし、残念なことに、彼のような第三世界のアーティストの楽曲は著作権など存在しない民謡のごとく扱われ、カヴァーしたアーティストが自らの著作物として登録するケースも跡を絶たなかった。
例えば、アメリカのフォークグループ、テリー・ギリキソン&イージー・ライダーズが、デ・レオンの「Mari Ann」(1945年)を「Marianne」(1957年)という曲にアダプテーションした。サビの歌詞やメロディもほぼ原曲どおりで、聴き比べても違いはほとんどわからない。
ただ、レーベル面に記載された作詞・作曲のクレジットは、ギルキソンらメンバー3人の名前になっている。フォークの世界では古い歌のメロディに別の歌詞を乗せて歌う手法が伝統的にあった。歌が商売のためではなく、人々にメッセージを伝えるための〝道具〟だった頃の名残りだ。また、人々が歌い継いできた民謡や労働歌を発掘して、次の時代に伝承するのもフォークシンガーの使命とされていた。
これも一例を挙げるなら、「The Wabash Cannonball」という19世紀から伝わるアメリカ民謡を、1929年にカーター・ファミリーが取り上げた。
1936年、それをロイ・エイカフがカントリー調でカヴァーすると、累計1000万枚というとてつもないメガヒットとなる。
1941年、ウディ・ガスリーがメロディだけを流用して「Grand Coulee Dam」という曲に変えたり、1964年には、チャック・ベリーも歌詞だけを書き直して「Promised Land」というロックンロールにアレンジした。
日本でも高田渡が「The Wabash Cannonball」のメロディを流用した「しらみの旅」を作り、デビュー盤「ごあいさつ」(1973年)に収録する。このときバックを担当したのがはっぴいえんどで、彼らはチャック・ベリー「Promised Land」スタイルのアレンジで演奏している。
「The Wabash Cannonball」の場合は〝詠み人知らず〟の曲なので問題無いが、「Mari Ann」は作家であるデ・レオンが存命なのはもちろん、現役のソングライターとして、カヴァーした歌手たちと同時代に活動していた。著作権に対する意識が今とまったく違う時代なので、一概に彼らを責めることはできないけれど、ASCAPで調べたところ、デ・レオンの名は現在もクレジットに無く、実質的に〝盗まれた〟状態のままだ。
他にも、デ・レオンの代表曲「Ugly Woman」は、戦時中、トリニダードに軍人として駐留経験のあったアメリカ人プロデューサー、フランク・グイダらが原曲の歌詞をアダプトし、「If You Wanna Be Happy」(1963年)という曲に変えた。
これをR&Bシンガーのジミー・ソウルが歌うと全米チャート第1位を記録する。しかし、こちらも「Marianne」同様、デ・レオンの名はクレジットに含まれていない。こうした〝三角貿易〟的なやり口にヴァン・ダイクは心を痛め、『ディスカヴァー・アメリカ』のライナーノーツで、第三世界の音楽家の権利を軽視し、西洋の音楽業界で搾取が横行する状況に対してこう糾弾している。
ただ、ヴァン・ダイク自身もこのアルバムで取り上げているカリプソに関して、作詞・作曲のクレジットを明記していない。アラン・トゥーサン、ロウエル・ジョージ、ジョン・フィリップ・スーザというアメリカ人作家の名前は書いてあるのに、だ。どうしてこんな〝片手落ち〟のようなことが起きてしまったのか、また、アルバムから得た印税は各曲の作家たちにちゃんと配当できているのか疑問に思うが、日本盤のライナーノーツで小倉エージがこう解説している。
日本盤のレーベルには出版社のクレジットが載っていないため、US盤を確認してみた。2曲めの「Introduction」以外のA面全曲、B面の「Ode To Tobago」「F.D.R. in Trinidad」「Your Own Comes First」「G-Man Hoover」にはCarifta Co.という出版社名が記載されている。これがヴァン・ダイクがトリニダードの音楽家を助けるために作ったという〝新たな出版社〟の名前だろう。
Cariftaを調べてみると、"Caribbean Free Trade Association"(カリブ自由貿易連合)という組織が見つかった。カリブ自由貿易連合は1965年から1972年まで存在した組織で、カリブ海一帯の経済的発展を目指し、加盟国間の自由貿易を促進することを目的に設立された。そして『ディスカヴァー・アメリカ』が発売された翌年の1973年、カリブ共同体 (CARICOM)という後継組織に移譲している。こんな大がかりな組織が音楽出版を手掛けるはずはなく、ヴァン・ダイクが虎の威を借るように名前だけ引用した、というところだろう。
A面に収録された曲でいえば、現在、「Jack Palance」は本来の作家であるマイティ・スパロウに、「John Jones」はリトル・ミルズの名でASCAPに登録し直されている。「F.D.R. in Trinidad」「G-Man Hoover」「John Jones」(二重に登録されていた)「Ode To Tobago」はヴァン・ダイクの名義で登録が見つかった。
「Bing Crosby」「Steelband Music」「The Four Mills Brothers」はASCAP、BMI共に登録すら見つからなかった。保護期間の延長問題など著作権のシステムは常に見直され続けているので断言はできないが、すでに著作権が切れてしまったのかもしれない。ただし『ディスカヴァー・アメリカ』は発売から半世紀が経過した今もワーナーのタイトルとしてリリースされている。ヴァン・ダイクの宣言どおり、きちんと彼らにロイヤリティが支払われ続けていることを祈るばかりだ。
先程のヴァン・ダイクのライナーノーツの文中に出てくるアンドリュー・デ・ラ・バスティードはトリニダードの伝説的なパンマンのことだ。HILL 60という名門スティールバンドのリーダーとして活躍したのち、1960年代にアメリカへ移住。西海岸でバンドを新たに結成しており、60年代前半にヴァン・ダイクが兄と組んでいたフォークグループ時代に共演を果たしていた。
デ・レオンの「Bing Crosby」はトリニダードで録音されているが、アレンジ(ディレクション)を担当したのはジョゼフ・グリフィスというバルバドス出身の音楽家だ。彼は西インド諸島とアメリカを股にかけて活躍した音楽家で、経験豊富なクラリネット&サックス奏者だった。警察や政府系のバンドで指導者を務めることも多かった。1951年にイギリスで開催された一大イヴェント「Festival of Britain」でトリニダードを代表して、スティールバンドが演奏を行なうことになり、島内から優秀なパンマンが11人選抜された。
彼らを率いることになったのもグリフィスだった。バンドは"Trinidad All Steel Percussion Orchestra"(TASPO)と名付けられる。廃棄されたドラム缶をリサイクルして作られるスティール・パンは、ヨーロッパの聴衆に奇異なものとして見られることは間違いなかった。もともとストリートカーニヴァルで使用されてきた楽器なので、演奏は荒っぽく、調律も一定ではなかった。また、グループ同士の対立が激しく、メンバーたちが衝突すれば流血沙汰も日常茶飯事。トリニダードの人々からパンマンに向けられる目は非常に厳しかった。だからこそグリフィスは高いモラルと、高いレベルの演奏をパンマンたちに求めた。
グリフィスは楽譜の読み方や記譜法をメンバーに伝授した。またTASPOのために集められたトニー・ウィリアムズ、エリー・マネット、スプリー・サイモンといった一流の調律師たちと共に、パンのチューニング方法やバンド編成もアップデートした。勇躍イギリスに乗り込んだTASPOは「Festival of Britain」の会場以外にも、BBCのスタジオや英国各地で演奏を繰り広げた。
廃品同然のドラム缶によって美しい音楽が奏でられていることを理解できなかったイギリスの観衆は、事前に録音した音源に合わせて、彼らが当て振りしているのではないかと疑って、スピーカーを探す者もいたという。その後、TASPOはイギリスの歌手とのセッションやレコーディングも行ない、次の遠征先のフランスでもセンセーションを巻き起こす。そして、ヨーロッパから戻ったメンバーは各バンドに戻り、グリフィスから教わった知識を伝え、TASPOで再構築した新しいバンドの形式に自らのグループをモデルチェンジした。じつは、ヴァン・ダイクがアメリカで出会ったアンドリュー・デ・ラ・バスティードもTASPOのメンバーのひとりだった。
そんなグリフィスの指揮のもと、デ・レオンのバッキングを務めたのが、このレコードの仕掛け人である、エドゥアルド・サ・ゴメスの名を冠した「サ・ゴメス・リズム・ボーイズ」という楽団だ。サ・ゴメスはレコードと蓄音機の店「サ・ゴメス・ラジオ・エンポリアム」をトリニダードで経営していたやり手のビジネスマンである。ポルトガル領のマデイラ諸島出身で、26歳の時にトリニダードにやってきた。彼はアメリカから仕入れたレコードを売ることに飽き足らず、自らがプロデュースしたカリプソを次々と〝円盤化〟し、西インド諸島の英語圏の地域に拡販することで大成功を収めた。「FDR in Trinidad」の章で詳しく触れているが、サ・ゴメスは1934年にデ・レオンとアッティラ・ザ・フンをニューヨークに送り込み、初めての海外レコーディングに臨ませた。カリプソの歴史において一大転換点となったこの録音現場には、アメリカの国民的人気歌手だったビング・クロスビーとルディ・ヴァリーが立ち会っていた。