理想を語る時に

少しずつ次年度の動きが出てきました。次年度は担任をやることにもなり、新学年団での会議も何度か設けられました。そこで、ふとした流れで事務的な話だけでなく「こんな生徒を育てたい」みたいな理想像を語る時間になりました。

生憎と、私はこれまで高校生しか相手にしたことがなく、中学生の担任は生涯初。加えて、この学校での担任も初。それなのに理想もへったくれもないんだけどな…とか思いつつ、他の先生方の話を聞きました。

皆さんそれぞれ言葉は違えど、生徒の成長を望んだ発言が続きました。
一応、私も拙い経験ながら、高校生に対して語っていた私の理想を話しました。端的に述べると、「努力の方向性やその強さは人によって異なるものの、最終的にはみんな幸せになりたいはずなので、幸せになってもらいたいな」というのが私の理想です。全然「理想の生徒像」ではないんですが・・・

そこでふと気が付いたんです。(口には出していませんが)
理想の生徒像を語る場合って、どうしても○○生(○○には学校名が入る)というラベル付けをして個性を消して集団としての理想像を描きがちではないでしょうか。

極論かもしれませんが、「あいさつができる生徒」を理想に掲げる学校は多いし、挨拶ができることは決して悪い事ではない。
しかし、例えば吃音の生徒や場面緘黙の生徒なども元気に挨拶ができないといけないのでしょうか。現代の物差しでいえば、これに対してYESと答える人はなかなかリスキーな感覚の持ち主であると言えそうです。

屁理屈をこねるな!と言われるかもしれませんが、理想の生徒「像」となると、こういうことが生じると思うんですね。(そういえば数年前にこの手の話を英語の授業でやったな。日本語の「○○らしく」って統計的正しさを個人に押し付ける暴力的言葉だよね、というこれまた暴力的な言葉を使った記憶があります)

そこで思いついたのが(口には出していませんが)、理想の生徒像を語る前に理想の「学年団」、つまり理想の教師集団を語るべきだったかもしれません。あるいは、教師も一個人であるからして、この集合体にこそなれ、一枚岩のように一個体にはなりえない。であるならば、学年団としての「理想の接し方」のように理想の行動を目的地とした話し合いの方が建設的かもしれません。

例えば校則を破った生徒を注意する時も、一方的に怒鳴りつける先生と、説諭する先生と、なんでやっちゃったのかな?と話を聞く先生とがいるかもしれません。どれが正解というわけでもないでしょうが、仮に学年団の理想の生徒像が「他者を思いやる生徒」だとしたら、まずは教師が他者を思いやる行動をとるべきとも言えそうです。他者を思いやるためには他者理解が必要で、そのためには自分が他者に理解される経験をすることは決して悪くはない。となると、最後の先生の行動の方が好ましい、と言えそうです。

このように学年団としての理想の行動(の方向性)が定まっていれば、教師の取るべき行動も決まりそうです。また、その路線から外れた行動をとる教師に対して、「それは学年団で決めた理想から少しずれていませんか?」と個人ではなくその行動を諫めることができそうです。

とはいえ、生徒に「理想の行動」を強要するのは、それはそれでまたちょっと違う気もするので、この手の悩みはまだまだ続きそうです。

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