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担当の先生を変えてください!


 ある日、私が外来で妊婦検診をしていると、助産師さんが言いにくそうに切り出した。「あの〜、H先生の患者さんなんですけど、担当の先生を変えてほしいって受付に来られているんですよ。先生診てもらえませんか?」
 経験の浅い研修医の先生が患者さんから「担当を変えてほしい」と言われることはそんなに珍しいことではない。しかしH先生は専門医取得前のレジデントではあったものの、とても優秀で、私は密かに「デキスギ君」と呼んでいた。彼は物静かで真面目で、いつも的確な判断をしていたし、診察技術や患者対応も信頼できるレベルだった。日本で5本の指に入るほど優秀なレジデントだと私は個人的に確信していた。
 ある時私が外来で担当している妊婦さんが、救急を受診してH先生がみてくれたことがあった。患者さんを診察したH先生は「先生の患者さんなんですけど、今日30週で腹緊増強で受診されました。週数にしては羊水が多めで、胃胞も小さいような気がして…食道閉鎖の可能性もあると思うので、来週先生もみていただけませんか?」と言っていた。H先生の言うとおり、その赤ちゃんは先天性食道閉鎖だった。赤ちゃんの食道が胃に直接繋がっていないので、赤ちゃんは羊水を飲み込むことができず、羊水の量が多くなる。たくさんの羊水で子宮が通常よりも大きく膨らんで、ハリが多くなってしまったのだ。妊婦さんのお腹のハリというありふれた主訴に対して、何か特定の原因がないかを考えて、しっかり診察をしていた証拠だった。
 だからH先生が担当を変えてほしいと言われるなんて、とても意外だった。診察室に入ってきたのは20代の若い妊婦さんと、これまた若く見える妊婦さんのお母さんだった。私は何食わぬ顔で挨拶をして、体調を確認したり、世間話をしたりしてから診察をさせてもらった。妊婦さんもお母さんも特別気になる言動はなく、診察は終わった。H先生の何がそんなに気に入らなかったのか?最後に私はゆっくり切り出した「あの…担当医の変更をご希望されていると伺ったのですが、もしよかったら何か気になったことがあれば教えていただけませんか?」妊婦さんとお母さんは一瞬お互いに顔を見合わせて声を揃えた。「前の先生は、赤ちゃんのエコーをするときに、今何を見ているのか何の説明もしてくれないんですよ。ただ黙って検査して、問題ないですよって。」「赤ちゃんのどこを何のために測っているのか、私は全部知りたいんです。それから赤ちゃんのお顔の写真もたくさんほしかったのに、H先生は1枚しかくれなかったんです。」
 そういうことか。全神経を集中しながら真面目な顔で画面を睨んでいたであろうH先生を想像して私は吹き出しそうになった。妊婦健診の胎児超音波には妊婦さんと産婦人科医の間に実は深い谷がある。
 この妊婦さんを含めて多くの妊婦さんにとって、妊婦健診とは「赤ちゃんの画像を見るためのサービス」だ。しかし私たち医療者にとっての胎児エコーは、「サービス」ではなく「病気の診断のための検査」である。例えば健康診断で胃カメラの検査をするとしよう。検査をしながら、今胃のなかのどの部分を見ていて、どうしてその写真を撮るのか、全部説明しながら検査をすることを求められる消化器内科医はいない。もちろん検査が全部終わって病気が見つかったりしたときには、記録した画像を見せながら、この部分がどういうふうに見えて、なぜ異常に見えるのかを説明してくれるかもしれない。しかし、胃カメラで見ている所見を全て患者さんが自分たちで見て理解する必要などそもそもない。実は胎児エコーも同じことで、どこを見ているのか、何を測っているのかを妊婦さんが自分で見て理解する必要はそもそもない。それは私たちの仕事で、その結果普通と違う所見があるならば、はじめてそこで画像を一緒に見て説明をすれば十分な話である。しかし妊婦さんとしては、エコーの画像を全て説明してもらいたがるし、妊婦向けの雑誌では「妊婦健診のエコーはこれを見てこれを測っている!」なんて記事が人気になったりする。時には妊婦さんが赤ちゃんを見ることを目的として、必要以上にエコー検査を希望したりもする。
 エコー検査はお腹の中の赤ちゃんには比較的安全な検査である。しかしどれだけやっても完全に安全であると保証されているわけではない。超音波は周波数や強さによっては尿管の石を砕くのにも使われているものであることを忘れてはならない。超音波が組織に与える影響には①熱と②圧力の二つがある。体の組織が超音波のエネルギーを吸収する時には、わずかに組織の温度が上がるし、超音波が与える圧力により、体液内に溶け込んだ気体が気泡となり、その気泡が壊れるときに圧力が発生して、場合によっては組織を断裂させたり、出血させたりもする。レントゲンに関しては、ごくわずかな線量でも過剰に不安になる割に、超音波に関してはどれだけ当てても全く心配をしないのは、実はとてもおかしな話なのだ。例えば歯医者さんで口腔内のレントゲンをとるくらいの放射線であれば、道を歩いていれば、空からいくらでも降り注いでくる。
 産婦人科で赤ちゃんのエコー写真をもらったら、隅の方に「TIs、TIb、MI」などと書かれていることが多いので確認してみてほしい。TIsは軟部組織に、TIbは骨にそれぞれ与える熱的作用の指標、MIは圧力の指標になる。骨の表面では特に温度が上がりやすい。超音波を当てる時は常に、今見ている組織にどのくらいの熱と圧力の影響があるのかを産科医は確認できるようになっている。
 例えば血液の流れを描出するためのパルスドプラと言われるエコーでは、通常のBモードと言われるエコーに比べて出力が大きく、組織に与える影響も大きくなる。特に妊娠初期の胎児に対して安全が保証されているものではなく、医学的に必要でない限りは13週6日未満の胎児に使用するべきではないとされている。エコーで心拍を確認するのであれば目で動いているのを見れば十分であり、心音のリズムの音を出して妊婦さんを喜ばせることだけを目的にドプラを当てるべきではない。もし妊娠初期に産婦人科を受診した時に、特別な理由もないのにドプラ波を当てる産婦人科医がいたら、少なくとも胎児超音波をちゃんと勉強したことがないということがわかるし、実際にそういう産婦人科医が多いことも事実である。
 実はアメリカで2006年に通称「トム・クルーズ法案」と呼ばれる法律が成立している。これは超音波診断装置の販売を医療資格保持者に限ることを定めた法律で、この法律ができたきっかけは、俳優のトム・クルーズが、妊娠した婚約者のために、いつでも赤ちゃんを見られるように超音波の機械を購入して使用したことだった。胎児エコーは胃カメラと同様に医学的な目的に限り、医師が必要と判断するタイミングで行う、というのが残念ながら正しいのだ。胃の粘膜を見るのが大好きだから毎月胃カメラをします、というのが許容されないのと同様に、たくさん赤ちゃんを見たいから毎日エコーをします、というのも許容されない。
 一方で胎児エコーというのは、妊婦さんが生まれてくる赤ちゃんに対して愛着を形成したり、産科医と妊婦さんの信頼関係の構築に果たす役割が大きいこともまた事実である。赤ちゃんが生まれてくるのを心待ちにしている妊婦さんやご家族が、お腹の中の赤ちゃんが動く姿を見たいと思ったり、かわいい手や顔の写真がほしいというのも、当然のことだ。もしエコー検査をしているときに、妊婦さんが全くエコーの画面に興味を示さなかったら「この妊婦さん大丈夫かな」と心配になるだろう。妊婦さんが赤ちゃんをかわいいと思う気持ちを持ってもらうことは、赤ちゃんが健康に幸せに成長していく上で何よりも大切なことである。だから私は赤ちゃんに生まれつきの病気が診断されていて、不安な気持ちになっている妊婦さんや、妊娠自体が計画外であり、妊娠を受け入れきれていないような妊婦さんに対しては、あえてたくさんの顔の写真を撮ったり、一緒に4Dの画像を見たりして「かわいいねー」と全力で伝えている。
 長年妊婦健診をしていると、通常の健診で必要な範囲のエコーであれば、ほとんど何も考えずに勝手に手が動くので、私は妊婦さんと色々なおしゃべりをしながらエコーをすることが多い。妊婦さんのお母さんが一緒にいらっしゃる時は、お母さんの出産がどうだったかを聞いたりもする。どんな家族にこの子は生まれてくるのだろう、そんなことを想像しながら妊婦さんやご家族と話している時間が私は大好きだ。しかし少しややこしい診断をするために、いろんなことを考えながらじっくりエコーをするようなシチュエーションではそうもいかない時もある。そんな時は事前に「今日は赤ちゃんをゆっくり見せてもらいますね。気になる所見があったら、検査が終わってからちゃんと説明するから大丈夫だからね」と伝えておく。何も言わずに真剣な顔で黙々とエコーをしていたら、妊婦さんは「赤ちゃんに何か病気があるのかもしれない。先生はそれを隠そうとしているのかもしれない」と要らぬ不安を与えることになるからだ。ちなみに特別に妊婦さんから「これは知らせないでほしい」というリクエストがない限り、超音波で分かったことを妊婦さん本人に隠すということはあり得ない。たとえ重大な生まれつきの病気があったとしても、その病気を持った赤ちゃんの人生と向き合うのは、赤ちゃんの両親となる妊婦さん、パートナーにしかできないことだ。「妊婦さんに知らせたらショックだから」とパートナーや他の家族にだけ情報を開示するというやり方は、今はドラマの中でさえ出てこない話だ。
 妊婦さんとしては自分が赤ちゃんの情報を知りたいという純粋な気持ちであることは確かなのだが、そのためにリアルタイムでの説明を求めたり、描出する所見の全ての説明を求めるというのは、赤ちゃんの診断に集中している産科医の集中力を妊婦さんに向けさせて、検査の精度を下げてしまうリスクになる可能性がある。
妊婦健診のときに超音波検査の画像をスマホの動画で撮影する妊婦さんもしばしばいる。健診に一緒にこられないパパや上の子に動いている赤ちゃんを見せたい、赤ちゃんの成長の記録を残したい、などさまざまな理由があることだろう。だから私は「撮影してもいですか?」と言われた時はにこやかに「大丈夫ですよ」と言うことにしている。しかし産科医も人間なので検査中に動画を撮られていると思うと、無意識のうちに自分が見る必要があると思っているところよりも、記録にふさわしい赤ちゃんの顔などを長く描出してしまったり、エコーの画面を自分が見やすい角度ではなく、妊婦さんが撮影しやすい角度に調整するなど、検査に集中しにくい状況を作ってしまうこともある。声が録音されていることを意識すると「ここが胎盤で、ここから臍の緒が出てますねー」など検査中に説明するのを控えてしまったりもする。赤ちゃんのために良かれと思ってやっていることが、実は赤ちゃんのためになっていないかもしれない、という側面もあるのが妊婦健診である。自分たちが赤ちゃんの顔を見ることよりも、産科医が検査に集中できるように協力することが、実は本当に赤ちゃんのためになることなのかもしれない。要はバランスが重要であると私は思う。

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