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鏡と写真の哲学

「使える現象学」という本に「写真はどの点において、鏡像に似ており、またそれに似ていないのだろうか」という問題があります。この問題を考察してみようと思います。

普段われわれは鏡と写真をどう経験するのでしょうか?

たとえば起床後、鏡の前に立って自分の鏡像を見ながら髪を整え、髭を剃り、肌が汚れていれば洗って落とします。家族写真を見て懐かしんだり、旅行先で撮影した写真を見ながらそのときの様子を想起したり、部屋にインテリアとして飾ったりします。鏡も写真も日常生活のなかでよく利用する物です。

では、両者はどう似ており、どう違うのでしょうか?

はじめに科学的な視点から説明してみます。

辞書を引くと、「鏡は滑らかな平面における光の反射を利用して容姿や物の像などをうつし見る道具」(『広辞苑』)とあります。
一方写真は、「光学的な映像や、放射線、粒子線の痕跡を可視的な画像として固定する技術の総称であり、またそれによって得られた画像」(『日本大百科全書』)のことです。

鏡はガラス板の裏面に銀などの金属がメッキされており、この金属に凹凸がないため光は反射の法則に則って反射します。鏡の前に立つと顔の各部で反射した光が鏡でさらに反射し眼球に飛び込んでくる。鏡面と対称な位置に自分の顔があるように見えるのは視覚が、目に入った光を光が反射した鏡面上の点と目とを結んだ延長線上からきた、と認識するからです。

では写真のメカニズムは光学によってどう説明されているのでしょうか?
銀塩フィルムカメラを例として取り上げるとその構造は、被写体で反射した光をレンズに集めフィルムに像を結ばせ画像を記録するというものです。
そしてフィルムを現像してネガがつくられプリント処理によって写真が出来上がります。デジタルカメラも基本的な構造は同じですが、画像素子が画像を電気信号に変換し、画像処理エンジンで処理がなされてから記録メディアにデジタルデータのかたちで記録される点が大きな違いです。それからパソコンにデータを取り込ませモニターに表示させれば画像を閲覧できるわけです。

ここでヤングヘルムホルツの3原色説にもふれておきます。われわれはなぜ色を感じるのでしょうか?この説によれば、眼球の奥にある網膜には明暗を感じ取る杆体と主に色を感じ取る錐体という細胞があり、錐体には赤色の光、緑色の光、青色の光を感じ取る3種類があります。錐体が感じ取った光の強度の組み合わせが視神経から脳に伝えられ色として感じ取られる、というわけです。鏡像にしろ写真にしろ人間にこうした器官があるからこそ見れるわけです。

デジタルカメラで撮った画像をインクジェットプリンターで用紙に印刷しようとすれば早くても数分はかかります。完成品を見ると、色素が紙の表面に定着し可視光線を吸収・放出し、反射します。その光が目に入りわれわれは色を感じます。そのため写真に写るのは撮影したときの、つまり被写体の過去の姿ということになります。他方、鏡は物体からの可視光線を反射しそれが目に入ることで色を感じる。光は極めて速いから鏡に映る私の姿はいまこの瞬間の私の姿である、といえます。これが鏡と写真との違いです。

光学の観点をとってきましたが、「使える現象学」で紹介されている反省分析という手法を用いるとどんな発見があるでしょうか?

まず気づくのは鏡にせよ写真にせよ見ることには視覚的な感覚が含まれるということです。手鏡に自分の顔を映せな鏡の枠内に肌色の顔が見えます。しかし感覚のほかに欠かせないのが絵画的な体験です。
当然ながら鏡像は私の顔そのものではなく像に過ぎません。鏡面のこの肌色と黒から成る形状は私の顔に似ているのです。鏡像は私の顔を描写します。鏡像は表象であり、私の顔は表象される対象であると言えます。
したがって、鏡との出会いのなかには感覚のみならず絵画的な体験が含まれます。
写真のケースでもやはり、物体としての写真についての視覚的感覚のみならず写真によって描写された対象についての絵画的な体験が見いだせます。この点で鏡の体験と写真の体験は似ているのです。

ではなにが異なるのでしょうか?まず写真によって表象される対象は過去の姿ですが、鏡によって表象される対象は今現在の姿です。写真によって描写されるのは過去にある場所にいたある年齢の人物、動物、そして物です。もっと一般的に言ってしまえば過去の、色と形を備えた存在です。被写体そのものは時間の経過とともに様々な場所に移動し、年をとり、外見が変化しますが、写真が描写する対象はそのような変化を蒙りません。勿論、写真自体が色褪せたり、焼失することはあり得ますが。
あと、写真は動きませんが、鏡像は表象される対象(たとえば自分の体)と連動するということも相違点です。

忘れてはならないのは、鏡であれ写真であれ描写される対象が人物の場合、われわれは相手の外見のみならず心も体験する、という点です。悲しげな表情をした人物が映る写真を見るとき、相手の感情をも体験するわけですから。

さて、今度は用途の点から比較してみます。日常生活に限れば鏡は自分の姿をチェックするために使用されることが多いでしょう。人と会う前に、鏡の前に立つ、すると口元がケチャップで汚れていることに気づいて急いで洗い落とすとしましょう。もし鏡がなければ自分の顔の汚れに気づかず、他人から指摘されるのを待たねばならないでしょう。鏡があれば一人で誰にも見られず身だしなみを整えられるわけです。鏡が身だしなみを整えるのに便利なのは、先述したように鏡が鏡面の前にある物のまさに今の姿をそのまま写すからです。
写真も被写体を正確に写してくれますが、身だしなみを整えるためにわざわざ写真を撮る人はいないでしょう。鏡が手元になければ別ですが圧倒的に面倒です。写真を見るには(1)被写体を撮影する、(2)写真を見るという二段階の作業が必要ですが、鏡ならば自分の姿を映せばいいだけですから。もちろん過去を描写する写真ならではの用途もありますが、この点については後でふれることにします。

別の視点から比較してみます。鏡の前から離れれば像は鏡面から消えます。一方、写真の像は一旦出来てしまえば被写体が写真からどれだけ離れようが消滅しようが、像は残り続けます。写真像は被写体の状態や位置・距離関係の変化に関わらず、類似した像であり続けるために、写真は伝達手段として極めて便利なわけで、雑誌、新聞、ネットの記事は写真で溢れているのはこのためです。

さらに想起される過去の明瞭さの変化からも写真は影響を受けません。今、見えているものを目に焼き付けたとしても、時の経過とともに記憶は曖昧になり、輪郭がぼやけていき、やがては全く想起できなくなるかもしれません。しかし、記憶がいくら薄れようが写真の明瞭さは変わりません。したがって、写真は被写体とわれわれの記憶から独立して被写体に類似する像でありつづける物だと言えます。こうしたわけで、われわれは写真を保管し後から見返して過去の出来事を確認することが可能なのです。

鏡にしろ写真にしろ見るには身体を動かさなければなりません。はじめに眼球の機能を説明しましたが他の身体部分の動作も必要です。自分の顔を鏡に映すためにはその前まで歩いて行き立ったまま鏡面を見据えながら腰をやや前に倒して顔を映します。写真であればそれをつまみ上げて顔の前に近づけ、見る。どちらも簡単な動作です。

話が若干逸れますが、よく観察すると鏡でしかできない自分の体をめぐる体験というものがあります。まず自分の顔面を直接、視覚的に感覚することはできません。眼球をいくら動かしても鼻の先端がぼんやりと見えますが、自分の顔面のほとんどの部分は見えません。鏡の前に立つことで自分の顔面全体を視覚に基づいた表象的体験が可能となるのです。

他にも、鏡を使うことで自分の手の甲と手の平を同時に視界に収められます(一方は鏡像になってしまいますが)。ここまでは鏡が一枚あればできます。ですが自分の後頭部を鏡に映して見るのはいくら首や腰を捻じってもできそうにありません。後頭部の鏡像を見るという行為は人体の骨格の仕組みからみて出来そうにありません。しかし合わせ鏡をすれば可能です。正面の鏡面に後方の鏡面が映り込んで自分の後頭部の像が見えるようになるのです。こうしてあらためて身体動作をみてみると、鏡を扱うにも様々な動作ができなくてはならないのです。

ここまで視覚や表象や身体動作に着目し記述してきましたが、鏡と写真の経験には他にも大事な要素があります。たとえば感情です。鏡に自分の顔を映した時に口元のケチャップに付づけば「嫌だなぁ」とか、他人の目線を意識すれば「みっともないなぁ」と感じることでしょう。青く透き通った空の写真を見れば「ああ綺麗だなぁ」と感じるでしょう。若者言葉に「エモい」というものがあるようで、なんとも言い表しづらい気持ちになった時に使われるスラングだそうです。対象によってニュアンスが変化するらしく、「懐かしい」とか「切ない」といった意味をもつといいます。グーグルで「エモい写真」というキーワードで画像検索すると、確かにそういった気持ちにさせられるものがヒットします。

感情以外にも信念と呼べる要素があります。ケチャップに気づくときわれわれは鏡像が今の自分の外見に類似していると信じるのみならず、自分の口元にケチャップの汚れがあるとも信じています。鏡を見るときも写真を見るときも、われわれはそれが被写体に類似すると信じています。両者の違いは鏡の場合「像と類似する対象が今いる」という信念である一方、写真だと「像と類似する対象があった」という信念だということです。

写真にありがちなことですが、見返すときに撮影したときには気づかなかった対象に気づくことがあります。都会の建物を写した写真を注意深く見ていると、はじに美しい白いドレスを着た女性がいたことに気づいたとしましょう。撮影時には意識しなかった対象にはじめて気づいたわけです。この写真がなければ、当時その場にいた女性の存在を知ることができなかったでしょう。写真は過去の人物との予期しない出会いを可能にしてくれるのです。

また写真は過去への扉とも言えます。子供時代の自分と家族がうつる写真を見て当時の思い出に浸ることがあります。映画やテレビゲームは架空の世界に浸れますが、写真はリアルな過去に浸れるのです。

写真、とりわけデジタル写真と信念との関わりで問題になるのがフェイク画像でしょう。現代のテクノロジーを使えば誰でも簡単に写真を加工できます。他者を容易く欺けるわけです。この手の画像はネット上にいくらでもあります。昔ほど素朴に写真を信頼できなくなってしまったのです。鏡でならばこのような心配はありません。目の前の鏡像が自分の姿である、という信念は揺らぎようがありません。ですが鏡像をリアルタイムに加工する技術も実現可能かもしれません。鏡の前に立つと『13日の金曜日』に登場するジェイソンが現れるといった悪戯の用途しか思い浮かびませんが・・・。

さらに感情と信念から区別できる要素が意図です。人と会う前に鏡で口元の汚れに気づけば普通は拭き取って綺麗にするでしょう。この「拭き取る」が意図もしくは行為と呼べることがらです。日常生活では鏡のみならず写真ももっぱら道具として用いられます。写真の用途として真っ先に思い浮かぶのはすでにふれたように、伝達です。視覚情報を正確に素早く大勢の人間に伝えるのに極めて有用です。インクや画像データはそう簡単に欠損しないため建物や人を探すさいにも役立ちます。

最期に、改めて、描写するもの(鏡や写真)と描写されるもの(被写体)との区別を強調しておきます。鏡面のヒビと顔の汚れ、それぞれの価値(この場合どちらも悪いと評価されます)は別物です。前者は描写するものの価値であり後者は描写されるものの価値に他なりません。写真の表面についた汚れと写りこんでいる被写体の汚れは別なのも同じことでしょう。昔撮影した壮麗な建物の写真を発見したとして、もし色が薄くなっていればひどくガッカリするでしょう。この落胆は描写されるものが極めて美しいにもかかわらず、描写するものが醜くなってしまったことから生まれるのです。

鏡にしろ写真にしろこれらとの出会いはさまざまな要素から成り立ちます。
視覚的に感覚し、被写体を表象し、感情が生じ、行為が生まれる。一見単純なことがらでもよくみていくと実に複雑です。

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