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映画考 『月光の囁き』


 お客様との談笑中、「月光の囁き」という映画の名前が出てきて、昔「SMとフェチ」の比較について考えた事があったのを思い出しました。

 それはフェチの本質は「ひとり」でありそれに対し、SMは「ふたり」という関係性の上に成立するものだという仮説です。
  フェチを中心に考えればこの比較の論旨は我ながら、ある部分で正鵠を得ていると思います。
 ただ、SMが本当に恋愛関係上の「ふたり」であるかは微妙な所だと思いますが、、、。
  その辺りの微妙な所を、映画「月光の囁き」は実に見事に描いていて、SMとフェチに両足を突っ込まれている方は、是非ごらんになると良いだろうと思ったりします。


『月光の囁き』
  監督:塩田明彦

  フェチという「変態」がテーマなのに、良いお酒の如く楽しんだ後、快い余韻がある映画。変な言い方なんだけど淡々と展開する「透明な変態映画」なのです。
 「変態」さんには、ある種の免罪符的な酔いをもたらす映画でもあります。
     この世界に余り関係のない人(そんな人いるのかなぁ~)には、ちょっとカーブのかかった青春純愛映画に見える筈。
     大林宣彦監督の映画かツルゲーネフの「初恋」を思わせるような、北原紗月(つぐみ)と日高拓也(水橋研二)の恋が始まって、やがて拓也が犯した「変態」への咎として、ほろ苦い破局が待っている映画なのかと思いきや、意外なことにこの二人、微妙なハッピーエンドを迎えるのです。


 夕暮れの誰もいない教室、冗談半分で差し込んだ日高の鍵が、あこがれの人である紗月のロッカーを偶然に開けた。そのロッカーの中から、紗月のブルマーを取り出し、顔に押しあて「紗月」を吸い込み恍惚に震える拓也、、、。
 そして時が経ち、今までは「あこがれ」に過ぎなかった紗月からの告白によって、自分とは相思相愛の関係だった事を知る拓也。
    風邪で休んだ拓也の家に、高校を休んで訪れる紗月。「風邪が移る。」「かまへん。」紗月自らが望んだSEX。
 その紗月と結ばれた拓也は「その夜、紗月の分身(フェテッシュ)達を燃やした。」。でもそれで収まらないのが「変態」の業です。

 後半、映画は拓也に「神様が僕をこう生んだ」と言わせるシーンがあるんですが、正にその通り「変態」は決して治りません。
 そんな拓也を知って「正常側」にいる紗月は、拓也に「変態」の一言を投げつけます。
    逆に「誰にも言えない俺の姿を知ってくれている紗月」あるいは紗月と言う名の「女」のフェテッシュを追い求める拓也。
 それに対して、拓也の「試せない愛」を試そうとする紗月は、やがて「普通の女子高校生」の性意識から逸脱し始めます。


 この逸脱を紗月のサディズムの発露と見るのか、その他のものとして受け取るのかはこの映画を見る者の自由なんですが。


 でも、この映画どうしてここまで透明でリリカルなんでしょう。水橋研二の眼が綺麗だからか?つぐみのキャラクターがそうさせるのか?
 足フェチの場面だって相当にエロだけど、AVのそれとは対局の位置にあるみたい(なにアップで撮るかどうかの違いだって?w)。

 で、ふと思ったのは、この二人の年齢設定が上ならどうなるのかしらという事、、。すべての事に、おずおずとそして純粋に余裕もなく手探りで生きていた時代。
 その青春時代の中では「恋」が際だっているだろうけれど、勿論、個人の思いでは変えられない「変態」という性だって含まれているんだと思います。

     だからこそこの映画は透明なのかも知れません。ラストに流れるスピッツの「運命の人」は、この物語が永遠のファンタジーである事を感じさせます。

 塩田明彦監督作品には、男たちの気を惹くためにギプスを装着する美女が登場する映画もあります。映画の題名はそのまんまの「ギプス」。
 話は、偽装ギプスの女・環と、なんとなくMっけが混じったレズぽい関係に陥ってしまった主人公・和子が、二人の関係を逆転させようと匿名で仕掛けた危険なゲームを中心に展開します。
 そのゲームとは、男を殺害してしまった環を和子が陰で強請ること。ところが、環は逆に脅迫状に書かれた要求額500万の手配を和子に手伝わせようとするんですね。それに対して和子は、強請っているのは「実は自分だ」とも言えず、環の誘惑に落ちて、金の工面の為にギプスをはめて男たちを誘う羽目に。
 この映画の面白さは、和子が最初、普通の女性として描かれていることですね。
 和子は、たまたま出会ったに過ぎない美しいけれど一風変わった雰囲気を持った環に、ほんの少しだけ興味を感じてつき合い始めるわけなんですが、環のギプスが偽装だということを知った(さらにそれを心の中で受け入れてしまった)時点で、二人の関係性が抜き差しならないものになってしまうという部分が『肝』なんです。

 人は、通常(普通)でないものや、出来事を「異常」だと認識して、それを自分の心の中から破棄する能力を持っているわけですが、時々(いや往々にして)、「異常」さそのものに魅入られてしまう時があるんですね。


 北原紗月と日高拓也の「フェチ」を挟んだ恋愛。環と和子の「フェチ」を挟んだ支配被支配的レズ関係。面白いですね。

    さて『フェチは「ひとり」、SMは「ふたり」』と言えますでしょうか?

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