見出し画像

石原慎太郎を偲ぶ~都知事としての功罪を淡々と振り返る

 石原慎太郎元東京都知事が1日に亡くなった。89歳だった。すぐにnoteに一筆書こうかと思ったが、思いとどまった。そして、今日までネットの言論空間を静かに眺めていた。相変わらず右翼は称賛し、左翼は批判するといったイデオロギーに立脚した脊髄反射ばかりだ。私はすぐに言葉が出てこない。四半世紀に及ぶ記者生活の大半は石原都政だった。石原知事なくしては、今の自分はない。心からご冥福をお祈りしたい。そして、向こうに行ったら、美濃部亮吉や鈴木俊一、青島幸男といった歴代知事と思う存分、都政の行く末を語り合っていただきたい。いや、シャイな人だったから、きっと目をバチバチさせながら美濃部さんや鈴木さんをにらみ、青島さんが苦笑いしながら「まあまあ」と穏やかに仲立ちするのだろう。

巧妙で用心深い皇帝

緊張した知事インタビュー

 石原知事というと、記者会見でのマスコミとのやり取りで怖い人だと思うかもしれない。確かに瞬間湯沸かし器で、すぐに怒る。だから、記者時代に石原知事のインタビューに立ち会うときには緊張した。過去にはゴシップ雑誌の記者の無知な質問に怒り、インタビューの途中で席を立ったというエピソードを、秘書担当の職員から聞いたことがある。一方で、いったん相手が〝安全〟だと確認できれば、安心してインタビューに応じる。だから、最初に記者を試すような質問を知事の側から投げてくるのだ。
 例えば、確か3期目だったが、インタビューで石原知事は「私の都知事としての最大の功績はなんだと思う?」と質問してきた。インタビュワーだった編集部長はすかさず「財政再建です」と答えた(このとっさの反応は自分にはできなかっただろう)。石原知事の表情がパッと明るくなって、うんと頷いた。堰を切ったように自らの功績を語り始めた。インタビュー時間はたった15分しかない。ファーストコンタクトがとても重要だ。短いインタビューを終えて、私たち記者が席を立つと、石原知事は次のマスメディアを迎えるために応接室に残っていた。この後も何社も立て続けに取材が入っている。「俺も大変だが、君たちも大変だな。仕事だからしょうがないよな」とにこやかに笑っていた。
 インタビューの原稿を事前にチェックしてもらった。作家・石原慎太郎の手書きの赤字は、ミミズがうねっているようで読みにくかった。職員に「分かりますか?」と心配されたが、不思議に私には活字が浮かんで見えた。

記者会見をフリーに開放


 思えば、石原知事が記者の質問を拒否したことはほとんどない。記者会見は、質問の手が上がっているうちは終わらない。時間が来るとさっさと会見を打ち切る小池百合子現知事とは大違いである。前述したように、怒るときは烈火のごとく怒る。怒鳴る。しかし、答えないことはない。都庁記者クラブの記者会見にフリーランスの記者を入れたのは石原都政時代だった。それまで、フリーランスはもちろん、記者クラブには所属していない業界紙の記者は「オブザーバー」として参加しても質問すらできなかった。石原都政1期目、オブザーバー申請さえすれば、質問を許されるようになった。どこの馬の骨かも分からない小さな業界紙の記者が失笑を買うような質問をしても、石原知事は嘲笑しながらも答えを拒まなかった。
 もちろん、これには副作用があって、記者がネタ探しに難航すると安易に会見に頼るようになった。いつの間にか紙面が石原知事の語録で埋まるようになる。これはマズい。石原知事はマスコミと対峙しているようで、実はうまく彼らを懐に引っ張りこんでいた。それには功罪あったが、私が四半世紀の間、記者として最前線から都政を見つめることができたのは、石原都政のそういう〝巧妙さ〟にうまくのせられていたからだと思う。たかが弱小業界紙の一記者があたかも天下の石原慎太郎と対峙しているかのような高揚感を得ていたのは、所詮は石原知事の手のひらで踊らされていただけなのかもしれない。

首都機能移転を阻止した男

石原知事の最大の功績

 石原知事の最大の功績は、首都機能移転の阻止である。

 地方に行くといまだに推進派の看板がかかっていることがある。「首都機能移転」とは、平成の初期、全国にゼネコン政治を広げた金丸信が生きている頃、当時の自民党と社会党が結託して企てた国家的大規模プロジェクトのことである。「遷都」「首都移転」ではないのは、自民党の保守派が「天皇を移転することは許されない」と反発したからで、その名の通り、首都は東京のままだが、政府や国会などの「機能」だけ第二の都市に移転するというものだった。規模は総額14兆円というから腰が抜ける。だが、その実態はお粗末なもので、移転候補地の選定をしている最中、政府は新しい首相官邸を建設したり、霞が関の中央省庁の合同庁舎を建て替えるなど、現存する施設を着々と更新していた。
 1990年に国会等の移転促進についての決議が衆参両院で採択。この計画を推進するための法律が1992年と1996年に成立した。当時の国会は共産党を除く〝オール与党〟状態で、両法案を審議する両院本会議では質疑も討論もなかったという。首都機能移転の理由は、東京一極集中の是正と首都直下地震への対応だった。皮肉なことに、移転法が成立した当時、東京都心の人口はバブル経済の弊害で減っていた。首都直下地震は確かに切迫しているが、いつ発生するかも分からない災害のために1千万人を超す都民を置き去りにして、政府・国会と中央省庁だけ前もって地方に避難するなど、正気の沙汰ではなかった。
 それでも、オール与党で首都機能移転は着々と進められるはずだった。流れを変えたのは、バブル経済の崩壊と石原都政の誕生である。

石原と不破の共闘

 石原知事は1999年都知事選で、首都機能移転反対を掲げて圧勝した。もちろん、彼自身は自民党所属の国会議員として決議や法案の成立にかかわっているのだから、ある意味、戦犯の一人でもある。しかし、都知事として高らかに公約を掲げ、当選後もその意思を貫いた点は評価できる(そうでない政治家が多すぎる…)。1999年12月17日、都内で「首都移転に断固反対する国民大集会」が開かれた。集会には、もちろん石原知事も参加したが、自民党、民主党、公明党、自由党、社民党、共産党から東京選出の国会議員が参加して、あいさつに立った。かつて共産党を除く主要政党が首都機能移転に賛成していた光景とは対照的だった。
 この集会に唯一、政党代表として参加したのは、共産党の不破哲三幹部会委員長だった。若き頃は〝共産党のプリンス〟と呼ばれ、泣く子も黙る、志位和夫も黙る〝フワテツ〟である。そんな存在そのものが共産党の歴史みたいな左翼政治家と、バリバリの右翼政治家である石原知事が集会で同じステージに立つなど、長い戦後政治ではあり得ない光景だった。そのインパクトたるや絶大だった。
 都知事は日本の空気を変える。都民・国民に絶大な人気を誇る都知事が首都機能移転反対の旗を高らかに掲げたことで、東京選出の国会議員の大半が同じように反対の立場を明確にせざるを得なくなった。石原旋風なしにはあそこまで抵抗できたのか分からない。国民の間でも自社の談合による55年体制やオール与党政治に対する不信感が根強くなっていて、それが1995年の青島都政、1999年の石原都政を誕生させる原動力となっていた。
 2001年に「自民党をぶっ壊す」と豪語した小泉純一郎が首相に就任。石原都政と同様、国民的な高支持率の中、首都機能移転は事実上凍結された。今に至る東京都心の再生はここから始まっている。

後半は自公政権に妥協

 だらしない国政に対して歯に衣着せぬ発言で人気を博した石原都知事だったが、首都機能移転と同様に突っぱねることができなかった国の愚策がある。それが「地方法人課税の偏在是正」だ。
 バブル経済の崩壊と小泉内閣下での「三位一体の改革」により地方財政が疲弊。政府は小渕政権下の2008年度税制改正において、偏在性の小さい地方税体系の構築が行われるまでの間の暫定措置として、法人事業税の一部を分離して地方法人特別税(国税)とし、その全額を譲与税として地方に譲与する仕組みを創設した。石原知事は「親が子どもの懐に手を突っ込むようなもの」と猛反発したが、最後の最後であっさりこの暫定措置を受け入れた。
 地方の財源が足りないのであれば、国が責任を持って補てんすべきだ。東京都の財源に手を突っ込んで、一部を地方に回すなど、東京の税金の収奪に他ならない。地方分権とは相通じない愚策だが、それを官邸に乗り込んで、まんまと了承してきたのは、石原知事に他ならない。
 首都機能移転の反対運動のときと何が違っていたのか。

 答えはシンプルで、都政における権力の座標軸が変わってしまっていたのだ。

 石原都政は2期目途中までは絶大な石原人気を背景に破竹の快進撃で、都議会は実質的に知事案件の追認機関でしかなかった。ところが、2005年に都議会で東京都社会福祉総合学院を巡る〝やらせ質問〟をきっかけに百条委員会が設置され、知事の側近である副知事の更迭に至ると、権力の中心は都議会へと移行してしまった。石原知事自身の都政に対するモチベーションも下がった。つまり、国政と戦っているパフォーマンスをマスメディアには示しながら、実質的に自公政権の意向に汲み入るしかなかったのである。

石原都政を生んだ背景

前半と後半、功罪を検証すべき

 石原都政を評価する際に、前半と後半の違いは意識せざるを得ない。とりわけ4期目の迷走は見ていて可哀そうだった。
 自民党が担いだ候補者を破り、圧勝した1期目と、対立候補を寄せ付けない300万票超の圧勝を果たした2期目は、石原都政の絶頂期だった。首都機能移転を跳ね返したのも、この時期である。一方、都議会の「やらせ質問」問題で百条委員会が設置され、側近である副知事を更迭せざるを得なくなり、都政における求心力を失った後半は、知事自身の老いもあって見ていられなかった。新銀行東京で莫大な負債をもたらしたのも、都政後半である。4期目は尖閣諸島を買うと言い出して、〝なんちゃって領土紛争〟にうつつを抜かしていた。
 石原都政を評価する際、この対照的な功罪を避けて通らず検証していくべきだ。そして、もう10年弱前に終焉した石原都政を批判して気持ちよくなるより、なぜ石原都政が生まれたのかという背景をしっかり見ていくべきではないか。国民はなぜ石原慎太郎を支持したのか。多くの野党がそれをまるで他人事のように見ていないだろうか。

55年体制とオール与党政治

 首都機能移転は、自民党と社会党の談合政治、つまり55年体制がもたらした最悪の大規模プロジェクトである。それはまさにゼネコン政治そのものだった。そこには哲学がない。首都論もなく、都市論もない。国会や首相官邸、中央省庁が地方に移転すれば、東京の一極集中が是正され、首都直下地震でも首都機能が維持できるという妄想に支えられたプロジェクトであった。それが共産党を除くオール与党で促進されていた。
 石原慎太郎は、そういう不穏な空気の中で都知事選に参戦し、オール与党による談合政治に不満を持つ都民の絶大な支持を得て当選を果たした。
 思い返してみれば、多くのセクターが血を流した臨海副都心開発は、鈴木都政4期目にオール与党によって支えられた大規模プロジェクトだった。首都機能移転と同様、バブル経済のうま味が忘れられず、ゼネコン政治を抜け出せなかったのだ。
 石原慎太郎を批判する左翼政治家・知識人はたくさんいる。では、あなた方は石原都政前夜に何をしていたのか。自分の頭でしっかり思い出していただきたい。例えば、社民党(旧社会党)は鈴木都政を支え、臨海副都心開発を支える立場だったではないか。地方の社会党(社民党)の国会議員・地方議員は、首都機能移転の推進派だったではないか。
 権力と談合し、ゼネコン政治を押し進める主体だったのは、いったいだれだったのか。

麗麗と死者に鞭打つ人へ

 談合政治が行きつく先には、必ずポピュリズム政治家が台頭する。大阪が良い例だ。大阪府も大阪市も、オール与党で支えられた談合政治に対する反省の声は、当事者たちからあまり聞こえてこない。そこが大阪維新の付け入る隙をつくっている。菅直人に至っては、自分たちの政権下で成立した法律に従って都構想の住民投票が行われていることなど、もう忘れてしまっているようだ。自分が都構想の道筋をつけたという当事者意識が決定的に欠如している。
 都知事選の歴史も談合政治に対する不満が選挙結果に反映されてきた。青島幸男、石原慎太郎、小池百合子、それぞれが都民の政治不信がもたらした結果として誕生した知事だったと思う。
 石原慎太郎を批判するのは簡単だ。だが、なぜ石原慎太郎は都知事になれたのか、冷静に振り返っていただきたい。今、SNSで気持ち良さそうに死者に鞭を打っている人は、あのとき何をしていたのか。石原都政の盛衰が意味する警鐘を、分析できているのか。
 少なくとも、今の野党の体たらくでは、第二の石原慎太郎、第三の石原慎太郎は必ず現れる(いや、既に現れていて、第四や第五くらいになるかもしれないが)。

※石原慎太郎のTwitterでの最後のつぶやきは、失言に対する謝罪でした。数限りない失言を繰り返した政治家が残した言葉としては、意外すぎる最後だとは思いませんか。石原都政には功罪ありましたが、今は心からご冥福をお祈りしたいと思います。合掌。


ほとんどの記事は無料で提供しております。ささやかなサポートをご希望の方はこちらからどうぞ。