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首「都」はどこにあるのか?~「大阪都構想」をめぐるどうでもいい議論

 立憲民主党の反都構想の論陣を見ていると、時計の針が何年も左回りになった気分になる。おそらく大阪市の市民が2015年の住民投票でとっくに乗り越えたようなことを、今になって繰り返しているような気になる。大阪府市の議会には立憲民主党の議員がほとんどいない。議論に追い付いていないのだと思う。

 そして、原口一博衆院議員のこの問題提起。大阪「府」なのか、大阪「都」なのか、そんなのどうでもいい。だが、いまだにこんな言葉遊びのレベルで議論しているところが切ない。国で都構想実現への道を開いた「大都市地域における特別区の設置に関する法律」は2012年、民主党政権下で成立した法律なのだが、原口代議士はその頃、なにをしておられたのだろうか。

 これに対して、吉村洋文大阪府知事の回答がこれである。

 本当にどうでもいい議論である。「都」がどうとか、「京」がどうだとか、言葉遊びの世界でしかない。大阪府であろうが、大阪都であろうが、住民の生活にはほとんど影響しない。まだ、こんな議論をしているのかと呆れてしまうが、しかし、この議論は都構想の是非以前にマニアックな立場から考えると、なかなかヲタク心を刺激するのである。

首都の定義を定めた法律は存在しない

 日本の首都はいったい、どこにあるのか?

 だれもが「東京」と答えると思う。ところが、日本には首都を東京と定めた法律はないのだ。東京には首都機能(国会、中央省庁等)があり、首都としての実態はあるが、国は法律で東京を首都として定義していない。

 1999年9月27日の衆議院「国会等の移転に関する特別委員会」に参考人として出席した石原慎太郎東京都知事(当時)は、以下のように述べている。

意見の陳述の前に、実は先般、東京都から公式に文書で、当委員会が扱っている問題の中の非常に重要な首都というものの概念規定について承りたいというお願いをしましたが、何か事前にそれを通告すると誤解を生ずるおそれがあるというわけのわからぬ返事をいただきまして、いまだに承知しておりませんが、これは無理なんですかね。

 意見陳述の冒頭、石原知事がいきなり喧嘩を売る(笑)だが、委員長からはとりあえず意見陳述をと言われ、仕方なく意見を述べ始めるのだ。

日本の信用できる、例えば辞書、広辞苑には「その国の中央政府のある都市」、講談社の日本語大辞典には「その国の中央政府が置かれている都市」、平凡社大百科事典では「一国の統治機関が置かれている都市」、近代国家では政治行政の中央機能が集中しているとあります。多分これに異存はないと思いますが、加えて、この法律にうたわれている「国会等の移転」の云々とありますその「等」というのは何と何か、これもできるだけ早くつまびらかにさせていただきたいと思います。
東京への過剰な集中、集積を排除すべきというのは、これは文明工学的にナンセンスな話でありまして、現代の文明は、とにかくコンピューターエージと人は言いますけれども、この集積、集中こそがコンピューターの特性でありまして、現代文明の機能のキーワードはまさに集積と伝達の速度だと私は思います。それを分散、削減するというのは、まことに退嬰的な試みでしかないと言わざるを得ない。そしてまた、社会工学的に政経はまさに不可分でありまして、だからこそ、東京というもののダイナミズムに国家的な意味があるわけであります。例えば、この国会を中心に永田町、霞が関、それからすぐ横の丸の内という非常に狭い地域に日本のような大国の三権とそれから経済というものが肩を接してあるということは、これは非常に機能的でありまして、世界に例のない一つの私たちの財産であると思います。
今の日本の首都というものは東京都だけじゃないんです。近県から三百万、四百万の人たちが日中東京に出てきて、昼間人口がふえている。この国家の中枢的な頭脳的な心臓的機能を運行しているんですよ。
首都というのはどういう概念規定なのか

 まだバブル経済が崩壊して間もない時期、国会では首都機能移転の議論が進んでいた。東京の一極集中を是正し、首都直下地震発生時のバックアップ機能を地方に持ち、これをきっかけに大胆な行政改革を行うという狙いだ。ちょっと大阪都構想に似ているとは思わないか。私は、「都構想」「副首都」という議論は、あの首都機能移転論議の亡霊だと思っている。当時は、首都機能の移転先の候補地がいくつかあがったが、大阪はそれを地方分権の名の下に独り占めしようとしている。

 石原知事の最後の問い掛け。「首都というのはどういう概念規定なのか」。特別委員会の委員長は、法制局へ照会するよう指示し、都は後日、衆参両院と内閣府の各法制局に正式に文書質問した。同年11月4日のことである。

「首都とは何か。首都の定義を示されたい」

 その回答には拍子抜けしてしまう。

衆議院法制局「法律の規定の解釈に関するものではないので、回答する立場にない」
参議院法制局「首都については我が国の法律で定義したものはなく、また首都をどこで定めるかについても法令の規定がない」
内閣法制局「首都の定義について、各省に見解を示したり、国会で答弁したことはない」

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 笑ってしまうが、日本人の誰もが日本の首都を東京だと思っているだけで、それを定義する法律はどこにもないのだ。

天皇位を象徴する玉座である高御座は京都にある

 一般的に天皇陛下が居住している場所が「首都」と考えている日本人は多いだろう。

 明治天皇は1868年に初めて江戸に行幸し、江戸を東京と改め、いったん京都に戻った後、翌年に東京に移り、以降は東京に居住した。だが、「遷都の詔」が出されることはなかった。天皇位を象徴する玉座である高御座は、今も京都御所に常設されている。

 では、京都が首都なのか。確かに京都は政令市だが、いくらなんでも首都の荷は重すぎるだろう。

東京23区の区域が「日本の中心」

 東京に都制が導入する前、首都の概念は存在したのだろうか。

 1943年2月に帝国議会で都制案の審議が行われている。その際の国務大臣の答弁が以下の通りである。

三十五区の区域になって居りまする七百何十万の市民の区域が、是が最も中核と致しまして大事な区域である、之を中心として帝都を考えることが一番具体的であります、又自然である…(注記:旧字体の感じを新字体に改め、カタカナをひらがなに直しています)

 当時の35区(現在の23区)の区域が日本の中心であると言っている。当時は東京府の下に東京市が設置されていたが、東京府の人口の9割が東京市に集まっていた。これが「二重行政」と言われたゆえんである。

 本来なら、日本の中心である東京市の区域に都制を導入するはずだったが、多摩地域や小笠原諸島の扱いが難しくなることから、東京府の区域に都制を導入した。

 元々、都制とは首都と考えられる区域を前提とした制度だったのだ。

 政府が設置した臨時大都市制度調査会の答申(1923年4月)は、「都市計画の区域を以て都の区域」としていた。千歳村と砧村(現世田谷区)を編入後(1936年)の東京市の市域は、都市計画法(1919年4月5日公布東京市区改正条例の全面改正)第2条により内閣総理大臣が認可公告(1922年4月24日)した「都市計画区域」に一致する。現在の「特別区の存する区域」(東京23区)は1936年10月1日以降、今日まで変わっていない。

 そう考えると、首都は、現在の東京23区の区域と考えるのが妥当かもしれない。

 しかし、先ほどの石原知事の主張を思い出してもらいたい。

今の日本の首都というものは東京都だけじゃないんです。近県から三百万、四百万の人たちが日中東京に出てきて、昼間人口がふえている。この国家の中枢的な頭脳的な心臓的機能を運行しているんですよ。

 石原知事はたまに、正しいことを言う。戦前は多摩地域の開発がまだ進んでいなかった。都会らしい都会は東京市の区域でとどまっていたのだ。ところが、現在では23区の区域を越えて街が連担している。私のように神奈川県から東京23区域に通っている人もたくさんいる。そういう意味では、首都を23区域内と捉えることには無理があるのだ。

 では、首都とはいったいどこにあるのだろうか。

 私が住んでいる湘南の田舎町は首都に含まれているのだろうか。

大阪都構想の住民投票は「都」の名称を問わない

 大都市法の制定に至る経緯や、「大阪都」という名称を巡る議論については、先日も紹介した松浪ケンタ著『大阪都構想2.0』に詳しい。要するに、大阪は「都」という名称にはこだわらなかったのだ。だから、「都構想」の「都」とは都区制度のことを表しているに過ぎないし、ここで言う「都」は首都のことではなく、行政機関としての「都」でしかない。

 したがって、11月1日の住民投票では、「大阪都」という名称については問われない。問われるのは、大阪市を廃止して、四つの特別区を設置することに対する是非だ。冒頭に挙げた原口衆院議員の指摘は、半周遅れの議論なのだ。

 ただ、蜜月関係にある菅首相だから、維新としては期待はあるようだ(苦笑)

 最初にも述べたが、名前なんてどうでもいいと思う。

 それによりも、首都の定義があいまいなままなのに、大阪が副首都を目指すというから、ますます分からなくなるのである。吉村知事や松井市長にお聞きしたい。

 副首都というのはどういう概念規定なのか。



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