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【御用新聞】都庁の記者会見で質問したことがない【自己排除の法則】

 何年か前に都庁の幹部に「毎回記者会見に出ているけど、質問したところ見たことないね。なんで質問しないの?」と聞かれたことがある。最初に都庁担当に配属されたのは、石原都政下の1999年だったから20年以上、都知事の記者会見に出席しても、質問したことがない。

 「なぜ質問しないの?」と聞かれて、答えに窮してしまった。そんなこと、考えたことがなかったからだ。振り返ってみれば、うちの記者が知事会見で質問していたところを見たことがない。調べてみると、猪瀬時代、舛添時代に何度かあったようだ。社の方針として質問しないわけではないようだ。とはいえ、数少ない機会が意味のある質問だったとも思わない。私は一度も質問したことがないし、そもそも手を挙げたこともない。なぜかと聞かれれば、答えは一つしかない。

 それは、うちの仕事ではないから。

 昔はネット中継などなかった。知事が記者会見で何を話したのかは、その場にいないと分からない。音は現地でないと録音できない。1999年当時はICレコーダーではなく、古くさいテープレコーダーだった。記者会見場に入ると、知事の立つ机の前にレコーダーを置く。終わると、部屋に持ち帰って音を聞きながら原稿を書く。当時、知事会見は毎週金曜日の午後3時から。金曜日は、火曜日号の原稿締切の日だが、会見で発表されたネタ次第で、次号のトップを差し替える。

 会見が終わると、そのまま社へ戻ることもあるが、重要な発表があったときは所管課のレクが続くこともあるし、都庁の幹部に会いに行くこともある。「あれって、どういうことです?」と都庁マンの反応を見る。都議会棟に寄り道して、喫煙室を覗くこともある。案の定、都議がいて、世間話が始まる。会見は終わってからが勝負だと思っている。知事が会見で何を話したかより、知事の発言の背景になにがあったのかが重要だ。うちは業界紙だから、知事の表面上の言葉をなぞっても意味がない。

 そんなわけで、25年間の記者生活でついに一度も知事会見で質問しないままという記者としてあるまじき状態となっている。

石原知事は〝排除〟しなかった

 都知事の会見は、都庁の記者クラブが仕切っている。都庁はどちらかというと開かれた会見で、フリーランスでも一定の条件を満たせば出席が許されるし、ルールに則って質問してもいい。昔はオブザーバー扱いで質問はまかりならぬという時代もあった。記者会見の開放が進んだのは、石原都政である。記者クラブの会見のほかに、フリーランスの会見も行われたが、それが後に一本の記者会見に統合された。

 石原知事というと、強面のイメージがあり、変な質問をしようものなら怒鳴り散らされるかもしれないと思うかもしれないが、実は聞かれた質問には答える政治家だった。当時の会見には時間制限などなかった。小池知事の会見を観ていると、まず小池知事がいくつかの発表を行い、幹事社がいくつか質問し、残り時間で他の質問を受け付ける。時間が来れば、知事は手が挙がっていても撤収してしまう。

 ところが、石原知事はそれがほとんどなかった。石原都政の後半は毎週金曜日の会見を開いても、知事の発表するネタがないことが多かった。会見冒頭、石原知事が「私から申し上げることは特にございません。なにか質問があればどうぞ」と記者たちに振る。すると、ポツポツと記者が手を挙げる。誰も手を挙げなくなると、「もうないか?」と確認までした。記者がお互い遠慮して手を挙げないでいると、「じゃ」と帰ろうとして、記者が慌てて手を挙げることもあった。すると、石原知事は苦笑しながら席に戻って、質問に答えた。

 いつだったか忘れたが、石原知事が例によって「私から申し上げることは特にございません。なにか質問があればどうぞ」と言ったものの、誰も手を挙げず、「じゃ」と一つも質問に答えないまま帰ってしまったことがある。質問がなかったわけではなく、記者がお互いけん制していたから手を挙げ損ねただけだったが、帰り際に知事は「お互い、幸せでいいんじゃないか」と笑っていた。

 石原知事は会見でぼやくこともあったし、怒鳴ったこともあったが、記者が質問しているのに会見を切り上げることはほとんどなかった。

 記者の手が挙がっているのに記者会見を切り上げるようになったのは、舛添知事の時代だ。就任当初、発信力を誇示したい舛添知事は会見を週2回に増やした。会見の冒頭には必ず知事から発表ものがある。正直、何度も繰り返すうちにネタ切れになり、くだらないネタも多かったが、冒頭にかなり時間を消費してしまう。舛添知事は「週2回あるから、また今度」と、記者の手が挙がっていても会見を切り上げるようになった。

 最初、舛添知事は石原知事と違って、毎日都庁に通っている人だから、忙しく仕事をしているのだと思い込んでいた。ところが、会見をさっさと切り上げて、庁有車で湯河原の別荘に急いでいたというのは、後にセンテンススプリングで知った話である。

 会見が週1度に減ってからも、舛添知事の姿勢は変わらなかった。帰りたくなると、さっさと撤収する。

 小池知事の会見は、舛添流をさらに凌駕した自己満ショーと化した。嫌いな記者は露骨に当てない。これを良しとした記者クラブに責任があるが、もう一方でこういう会見に道を開いてしまった舛添氏にも一定の責任がある。この会見を変えていかないと、都庁担当の記者はどの知事の下においても、知事の「広報担当」にしかなれない。誰かがおかしいと言うべきではないか。

辞任会見を開いた知事がまた定例会見に現れる

 知事会見では2度、辞任会見を経験した。1度目は石原知事、2度目は猪瀬知事である。どちらも、前夜に突然、会見の知らせが入った。知事が辞任するときには、必ず知事が都議会議長に辞職願を提出する。そのためには議長のスケジュールを空けなければならない。当然、知事サイドから議長秘書担当に「明日、議長は空いてるか?」と確認の連絡が入る。これがきっかけで、都庁内を噂が駆けめぐる。だから、前夜なのだ。

 普通の政治家は、知事や市長、総理、閣僚などもそうだと思うが、辞任を表明した会見が最後の会見になるものだが、石原知事は辞任会見の後にも定例の記者会見を開いてしまったつわものである。確かに辞職する日までに一度金曜日が訪れるが、都庁の幹部と話していて、「まさか、やらないでしょう」とお互い笑っていた。

 ところが、石原知事はいつものように会見場に現れた。

昨日からまた今日まで、いろいろなことがありましてね。あの後、新党の母体にもなるだろう、たちあがれ日本の議員諸君と会ったんだけども。やっぱり永田町にいる人間って、頭が狭いというか、視野が狭いというかね。

 特に発表するネタなどなかった。石原知事は政治談義をやりに会見場にやってきたのだ。知事の仕事から解放されるからだろうか、やけにうれしそうに日本の政治情勢を饒舌に語った。もちろん、記者から質問することなどない。もう辞任会見で散々聞いたし、もう辞める人に聞くこともない。

 ベテラン記者が気を利かせて、知事のよもや話に付き合った。

 そして、石原知事にしては珍しく途中で会見を切り上げた。

僕ね、ちょっとね、約束があるんで、これで失敬します。

 これが14年にわたる石原都政最後の会見の〆の言葉である。「ありがとう」でも、「さよなら」でもない。まるで来週もまた会見に現れるような後ろ姿であった。いかにも石原知事らしい最後ではないだろうか。

 これで当分、知事会見には出なくていいと思っていた。ところが、知事不在にもかかわらず、毎週金曜日の定例会見は開かれたのである。

 誰が会見を行ったのか。当時の筆頭副知事・猪瀬直樹である。猪瀬副知事は「知事代行」なる奇妙な肩書きで記者会見を開いた。石原知事は既に猪瀬氏を後継指名しており、次の都知事選に立候補するのは確実。そんな会見を開かれても、記者たちは記事など書きようがない。書いたら、特定候補を応援していることになってしまう。小池知事が「公務」と称して街頭に出なかったのと同様、猪瀬氏も「公務」を利用して都民にアピールしたかったのだ。当然、どの新聞も扱いは小さく、猪瀬知事代行はお怒りであった。

 そもそも、「知事代行」などという肩書きは法的には存在しない。副知事は副知事にしかなれず、知事の代行などできない。できるのは、知事の職務代理だけだ。職務代理に政治的権能などない。選挙で選ばれてもいない人間が知事の全権を握ることなどできるはずもない。

 都庁というのは真面目な組織で、一度こういう悪しき前例を作られてしまうと、同じ事態が起きたときに慣習として繰り返そうとする。選挙資金問題で猪瀬知事が辞任した後、知事不在の期間に定例記者会見はないものと思いきや、新知事の初登庁まで、知事本局報道担当理事による「レク」が毎週行われることになった。このとき、知事の職務代理だった副知事が定例記者会見を開かなかった理由は分からないが、元々、副知事は政治的な存在ではなく、知事の黒子であるべきで、自分を副知事に指名した主もいないのにヒョコヒョコと出てきて、天下国家を論じたら、それこそ末代まで笑われる。

 事実、未だに「知事代行」の悪行は笑われているのだから。

炎上に群がる〝外人部隊〟

 猪瀬知事のときも、舛添知事のときも、不祥事になると記者会見場は入りきれないほどの報道陣で満杯になる。こういうときに有利なのはやはり、記者クラブ加盟の大手メディアだ。会見場の開場時間に訪れても、多くの席が既に名刺で席取りされている。同じ社が何枚も名刺を置いている。会見が始まっても、名刺だけが出席していることもある。腹は立つが、こちらが主催しているわけでもない。ただのオブザーバーである。記者会見で席が用意されるという意味を、彼らは軽く見ていると感じる瞬間だ。

 猪瀬知事が選挙資金問題で炎上していたとき、会見で猪瀬知事が何をしゃべっても次から次へと質問が出て、収拾が付かないことが続いた。会見のたびに〝外人部隊〟が集結する。多くがワイドショーや情報番組のスタッフである。同じテレビ局なのに、取材班は別だったりする。ワイドショーのリポーターは特にそうだが、彼らは自分の映像を撮りたいだけだ。だから、記者会見の文脈は関係ない。記者クラブの都庁担当が会見のたびに積み上げてきた知事の言質があるが、外人部隊はそれは横に置いて質問しようとする。会見のたびに、ゼロから質問が始まるのだ。だから、知事は前回の会見と同じことを繰り返す。結果、何度会見を繰り返しても、認識が深まらない。ひたすら、知事が炎上するだけだ。

 外人部隊は自分たちの映像が撮れたらいいのであって、文脈より撮れ高が重要である。リポーターも、自分がかっこよく知事を追い詰めているシーンを映せば、それで十分満足なのだ。だから、自分を映すカメラを連れてきて、知事ではなく、リポーターにレンズを向けさせる。

 会見のたびに大量の質問の嵐に知事が右往左往し、どいつもこいつも文脈は関係なく質問する。いくら会見を見ても、同じことの繰り返しにしか見えない。だから、マスコミから「疑惑深まる」と言われる。外人部隊は、事件が終わると、潮が引くように消えて、また別の場所の炎上に群がる。毎回、会見に出ている側からすると、ただひたすら徒労感だけが残る。

 そんな会見を何度も何度も観ていると、疑惑が出たから会見を開くという正論がむなしく感じる。どうせ袋叩きにして、気持ち良くなりたいだけなんじゃないか。落ちた鳥をたたきのめして、何が面白いのかと。しかし、記者会見はなければならない。国民の知る権利を保障しなければならないからだ。だが、今のままでいいのか。疑問に感じながらも、あくまでオブザーバーでしかない自分にはなすすべもない。

 特に舛添知事の公私混同問題は、虚しさしかなかった。あれはワイドショー都政の極致だ。そのことはまた、後の機会に譲る。

お昼をゴチになる記者会見

 こうした定例記者会見は都庁だけでなく、23区の区役所や多摩地域の市役所でも行われている。25年前、私が入社したのは1月で、最初に配属されたのは23区担当だったので、初めて出席した記者会見は23区主催の会見だった。

 都庁記者クラブが主催する会見では、うちのような業界紙はオブザーバー扱いでしかないが、23区にはそういう記者クラブはないので、区役所の側がメディアを指名することになる。幸いにもうちは23区の記者会見に入れてもらえていた。入社して1カ月も経っていない新人記者が記者会見に出席できるのだから、名刺の持つ威厳は強い。

 23区が1月後半から2月にかけて開く会見は、新年度当初予算案の発表だ。23区で定例の会見を行っている区は一部に限られるが、年に一度、このときだけは全区で会見が行われ、区長が出席して予算案を説明する。もう時効成立だと思って言うが、25年前は一部の区では記者会見で食事が出た。昼飯付きの記者会見という異常事態が昔は当たり前だったのだ。もちろん秘密ではなく、公然とした事実である。

 お弁当は財政力によって差がある。豪華な弁当を出す区もあれば、貧弱な弁当しか出さない区もある。区によってはうな重だったり、区役所近くのホテルの高級レストランで豪華フルコースだったり(ハーフワインが出てきたときにはびっくりした)。私はジャーナリズム精神あふれる有能な記者ではなかったが、さすがにあきれてしまった。昼飯をゴチになっておいて、予算案の記事を書けば、筆が鈍るのは当たり前だ。とはいえ、入社1カ月にも満たない新米記者がそれに反発することなどできない。試用期間が終わるまでは、グッと我慢するしかない。

 ところが、1995年に大きな出来事がある。青島都政の誕生だ。青島都政では、都庁の食料費問題がマスコミから批判を浴びた。私が入社する前のことはよく知らないが、先輩から聞いたところによると、昔、例えば都庁で開かれる審議会ではケーキとコーヒーが出ていたそうだ(報道陣ももらえるらしい)。こうした公費で飯を食う習慣は他にもあって、新聞やテレビが連日のように報じて、都民の批判が高まった。結局、青島知事は都庁の食料費を大幅に削減した。当然、都庁だけの話にはならない。

 世間の食料費に対する目が厳しくなって、マスコミが区役所にゴチになる記者会見は、翌年からどんどん減っていった。もちろん、今ではそんな区は一つもない。

記者会見生中継をジャックする

 石原都政に入ると、基礎的自治体の首長も積極的に情報を発信するスタイルを好むようになった。行政とマスメディアの馴れ合いは以前より薄まったが、首長側のスタンドプレーが目立つことも多くなった。

 冒頭に、都庁の記者会見では質問しないと書いたが、私は区市の会見では遠慮しないで質問している。25年も記者をやっても、私の顔を覚えている知事などほとんどいないと思うが、区長や市長の中には私を認知している人は何人かいるはずだ。

 今では衆院議員となった方がある区の区長だった時代、ちょうど都区財調の「主要5課題」(意味分からないと思うが、ここではとりあえずスルーする)で都区協議が紛糾していた。その頃からスタンドプレーが大好きな区長は、新年度予算案の発表会見で都知事のようにかっこよく予算を発表するスタイルを好んでいた。それを地元のケーブルテレビで生中継させて、区民にアピールしていたのだ。

 生中継は15分程度で、区長が10分くらい新年度予算案の説明をすると、質疑応答に移る形式だ。ちょうど最初の記者が質問し、区長が答えている最中にフェイドアウトしながら生中継が終わる。私は3年くらい、その区を担当していたが、区長の説明が終わると、いの一番に手を挙げた。私はまだ若かったから、多少いじわるだったのだろう。新年度予算案の中身の質問などしなかった。

 「都区財調の主要5改題が積み残しになっています。今年の都区協議について区長の見解を」

 区民には全く意味不明な質問である。というか、これを読んでいる読者にも分からないだろう。あまりにもマニアックすぎて、他の記者たちはキョトンとしている。

 だが、さすが区長である。ここぞとばかりに都区財調について持論を展開してくれた。そして、区長のマニアックな持論を展開している最中に生中継は終わる。区民には本当に申し訳ないが、そういう年が何年か続いた。私は毎年、質疑応答の一番目に手を挙げ、都区財調や都区制度に関する質問をぶつけていた。もちろん、その受け答えを記事にしていたのは、うちくらいしかない。

記者会見に出席できるのは当たり前ではない

 私は入社して3年目から多摩・島しょ地域の担当に異動した。多摩地域の市役所は大手メディアの記者クラブがしっかりしていて、多くの市で定例の記者会見が行われていた。だが、当時、ほとんどの市ではうちは記者会見に入れてはもらえなかった。うちが多摩地域に取材網を広げて、まだ日が浅かったからだ。要するに、どこの馬の骨か分からない三文新聞でしかなかったのだ。

 これは記者会見に入れないというだけではない。市役所から「報道機関」として認めてもらえないということでもある。記者会見の資料ひとつもらうにも、コピー代を請求される。当初予算案の資料は「後で返してください」と言われる。つまり、フリーランスのジャーナリスト同然。いや、普通の市民と同じ扱いをされるのである。だからこそ、自由に動き回ることができたが、週2回の紙面を埋めるのは非常に大変だった。先輩たちはそうやって多摩地域を開拓してきたし、私の後輩たちも苦労して道を切り開いてきたのだと思う。

 今でこそ、多くの市の記者会見に仲間入りさせていただいているが、歴史の長い報道機関とはいえ、そういう権利を獲得するまでには大変な苦労が必要なのだ。記者会見への出席が報道機関だからといって、なんとなく認められているわけではない。今、省庁や首長の記者会見にフリーランスの人たちが入るのに苦労しているのと同様、私たちもまた多くの苦難を経験して認めてもらってきたのである。

 大手メディアの皆さんに知ってほしいのは、記者会見に出席するのは当たり前ではないということだ。我々、記者クラブに加盟していないメディアが記者会見場にたどり着くにはどれだけの労力が必要か。フリーランスの記者ならなおさらだろう。にもかかわらず、記者会見に出席するという特権を持っている人たちが記者会見を、政治家の自己アピールの場にしてしまっているのではないか。首長や官僚から情報を出していただくというお客様になってはいないだろうか。大本営発表の垂れ流しをやっていないだろうか。

 ちなみに、うちは霞が関の省庁の会見にも出ようと思えば出られるらしい。もちろん、全てではないが、省庁によって扱いが異なる。ただ、人材不足でそこまでフォローしきれていない。本当は国会記者証をもらえる技があるのだが、様々な大人の事情があって、それができていない。

 10年ほど前、猪瀬副知事(当時)が地下鉄の一元化を巡って国(国土交通省、財務省)と協議を行ったことがある。国土交通省で我々記者クラブ非加盟社がオープンに取材できる場は少ないので、ここぞとばかりに取材に向かった。会議の取材が終わると、たいてい猪瀬知事の囲み取材がある。普通はそこで取材は終わるのだが、記者クラブの旧知の記者が「行くんでしょ?」と聞くので、なんのことか分からずに「うん」と返事した。

 実は都の囲み取材が終了した後、国土交通省は独自に記者クラブ加盟メディア向けにレクを行っていたのだ。もちろん、我々は国土交通省の記者クラブなど入れるわけもない。大勢の記者に紛れて、記者クラブの会見室になだれこんでいった。そのときはなぜか、どさくさ紛れに何人かの非加盟メディアが紛れ込んでいた。国交省官僚のレクを聞いて、納得した。都と国が協議するたび、翌朝の新聞の論調がやけに国交省寄りなのだ。猪瀬知事の囲み取材だけでは、ああはならない。国交省は密かに記者クラブ加盟のメディアを相手に、猪瀬氏に対する反論を行っていたのだ。霞が関で働いている記者たちには、そういう恵まれた環境があるのだと、そのときに知った。

 逆に言えば、彼らが反霞が関の論調で記事を書くわけがない。霞が関では官僚もマスコミも運命共同体なのだ。

 最近、安倍首相の記者会見が批判されている。当然、首相官邸の記者会見にも出席はできない。というか、首相官邸に入ることすらできない。

 実は年に一度だけ首相官邸に潜入するチャンスがある。何度か取材で訪問した。

 日本の中枢部に入るのは、気持ちが違う。そこまでたどり着くのも当たり前ではないのだ。

 まあ、その話はまた次の機会に。

 

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