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[無いものの存在]_27:義足の相棒感

リハビリ施設を退所して丸6ヶ月が過ぎた。
最近、義足がすっかり体に馴染んだ気がしている。今までも問題は無かったが、義足と体がもっと細かな神経で繋がったような感覚というのだろうか。義足が”あたりまえ”に体になった。
実際に「最近歩くのがスムーズになった」と言われたので、客観的にも変化があるんだろう。

幻肢が現れるとき
今、“幻肢”はまったく無くなったわけではないが、以前にも増して日常的なものになり、気に留める機会は減っている。
最近どんな時に幻肢に気がつくかというとこんな3パターンだ。

①存在を意識したとき▶︎漠然とした形状で感じる
②たまに起こる幻肢痛を感じたとき
▶︎局所発火型だと足の形がわかる
③義足を履いているとき
▶︎義足と幻肢がパイルダーオンする

①は物は言いように聞こえるかもしれないが、正座をして足が痺れた時に近い。気にしないでいようと思えば特に大きな負荷ではないけど、立ち上がるとじわ〜と足が痺れたことを感じるように、幻肢も意識をもっていかなければ負荷は感じない。
よく「今、幻肢どうなってるの?」と聞かれるのだけど、「ん?今?、え〜とね、あ、この壁にめり込んでるよ」とか、そういう感じである。切断直後は幻肢と実際の視覚情報のチューニングがスムーズにいっていないので、電車の中で目の前に人が立つと幻肢がぶつかってしまうことにびっくりしていたのだろう。今は幻肢を考慮して視覚情報の処理がされているようなので、壁の中に幻肢があろうと驚かないし、気に留めなければ意識化されない。本当にあるかどうか不確かな足になっている。
②はわかりやすくて、幻肢痛によって幻肢の存在が顕在化するときだ。だいたい漠然型の幻肢痛は週に1回あるかどうか、局所発火型は月に1回くらいの頻度で発生している(幻肢痛の型はこちらの記事)。この前もはっきり右足の小指がズキズキすることがあったが、現在知覚する幻肢痛は足をつった程度の違和感なので大したことはない。

③はこれまでも書いてきたように、義足に幻肢のイメージが重なり、血が通うような状態のときだ。
たぶん「義足と体がもっと細かな神経で繋がったような感覚」というのは、この関係がねっとりし出したんじゃないだろうか。

青木と幻肢と義足
このねっとりが本題である。
先日、伊藤亜紗さんの「異なる対談シリーズ」で全盲の西島さんと対談したことをきっかけに義足の相棒感について思考を巡らせることになったのだけど、義足の相棒感について考えることは、自分の障害を自身の支配下に置かないことで得られる信頼関係のことだったと気がついた。
どういうことか。例えばリハビリというものが標準化された体や社会性の獲得を目指すものだとすれば、そこにある義足とは医師・理学療法士・義肢装具士、さらには障害者本人にとってすら”使いこなす”というコントロールの対象となってしまう。
しかし、僕にとって義足はこちらの都合で振り回す単なる道具ではなく、コミュニケーションを取りながら一緒にアクセルを踏むような存在であった。僕は健常者の右足を目指してリハビリしているのではない。極端な言い方をすれば、リハビリなんて僕と義足と幻肢と対話を始める儀式みたいなものだ。
だからそこには義足が“ギソク”という存在をちょっぴりはみ出させるテクニックとして、“ゲンシ”と組み合わせる試みがあった。義足に乗ることも、踊るような義足を想起するのも、義足という存在の背景に近くことも。
被支配下でなくなった義足と付き合うには、お互いに信頼できる関係にならなくてはいけない。そう、お互いに、ということが大切だ。
義足を着けたことが無い僕の体と、僕を着けたことが無い義足にとって、幻肢はお互いの翻訳者になったんだと思う。

今は義足を履いて出かける時は、「行くぜ!ユージ!」「OK、タカ!」みたいなノリで歩き出すのである。(あぶない刑事はほぼ見てないけど)
いや、ここはHIPHOPに寄せて、幻肢と義足と僕で1DJ2MCの3人組って設定でもいいな。そしたら「What's up!」ってノリだろうか。

自分の障害を支配下に置かないことで、「無いものの存在」からのリフレインに耳を傾けるという技術は、もしかするとアートへ転用できるアプローチに発展するかもしれない。

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