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三池炭鉱三川坑と炭塵爆発事故

あけましておめでとうございます。
昨年はあまり更新できませんでしたが、今年は・・・いや、今年もまったりやっていきますので宜しくお願い致します←


三川坑は昭和12(1937)年に開削着手し、昭和14(1939)年に出炭開始。
第一竪坑・第二竪坑ともに幅約6m、高さ4.3m、長さ2km以上の規模の為、大斜坑と呼ばれていました。
平成元(1989)年に有明坑と併合後、平成9(1997)年の閉山まで揚炭していました。

昭和24(1949)年5月29日に昭和天皇が御巡幸された際、記念に造られた日本庭園跡。

炭鉱電車も展示されています。

入昇坑口。
入口の看板などは復元されたもの。

ここ階段下りた記憶も写真も無いんだけど、下りれなかったんかな?(我ながら2年前の記憶無さ過ぎだろ)

入口の階段を下り、地下通路を抜けると辿り着く第二斜坑。

閉山時に塞がれた坑口。
レールも撤去され、舗装されている部分もあります。

坑口から渡り廊下を通ると繰込場へ・・・大きな木造建築ですが、かなり傷んでますね。

第二斜坑から第二巻揚機室へと続く軌道には、錆びた人車が残されていました。

繰込場の奥にはこれまた木造建築・・・こちらは風呂場ですね。

略字の職組にちょっとテンション上がる。

一番奥に浴槽がある事は確認出来ましたが、手前の部屋は暗過ぎて見えず。

コンプレッサー室は損傷が激しい為、内部には入れず。

コンプレッサー室の横に並ぶ壁には無数の穴が・・・
ガイドさんのお話によると、この穴は新人の機械練習で開けられたものとの事。

巨大なエアータンクも。

第一巻揚機室。
当初の建物は昭和38(1963)年11月9日に発生した炭塵爆発事故の爆風により倒壊した為、現在の鉄骨造りのものに建て替えられています。

第一巻揚機室は割と状態が良く、巻揚機操縦室にも上る事が出来ました。
(他の見学者も居た為、あまりゆっくりは見れなかったけど)

そして、一番奥にある第二巻揚機室。

昭和15(1940)年に建設された建物は屋根と壁が半壊しており、内部に入ってみるとこの通り。

ブルーシートで守られている機械もありますが、殆どは雨ざらし状態。
今後どのように保存されていくのか、はたまた倒壊する危険性のある建物は解体されてしまうのか・・・
昭和期の炭鉱なので世界遺産には含まれていない為、今後どうなっていくのかが気掛かりでならない。

最後は第二巻揚機室から見た、コンプレッサー室と第一巻揚機室。
航空写真で見るとコンプレッサー室の損傷ぶりがよく分かるのだけど、悪天候の日が続くと被害が出ないか心配している。


そして、ここからは第一巻揚機室の所で触れた三川坑炭塵爆発事故について書いていきます。
以下は文章のみとなりますが、お時間のある時に読んで下さると幸いです。


戦後最悪の炭鉱事故と言われている炭塵爆発が発生した三川坑。
事故当時、三川坑の第一斜坑は入気・揚炭・資材運搬など多目的な用途で使われており、第二斜坑は人車の入昇坑として使われていました。
炭塵爆発が発生したのは現在は埋められてしまった第一斜坑で、石炭を満載した十両編成の炭車を坑底から引き揚げる際、坑口から1,186mの地点で2両目と3両目の炭車を繋ぐ連結リンクが破断した為、3両目以降の炭車8両が坑底に向けて逸走。
約340mを下った所で脱線した後も約100m暴走して鉄製のアーチ枠などを引き倒した後に高圧ケーブルに衝突して漸く停止したが、坑内に蔓延した炭塵に引火して爆発し、凄まじい爆発音と共に第一斜坑から地上100m以上もの黒煙が吹き上がった。
※火種は炭車逸走時に発生した摩擦火花、または衝突時に高圧ケーブルが損傷(現場から回収した高圧ケーブルには破損して出来たであろう直径7mmの穴が確認されている)して発生した溶損火花、あるいはその両方と推測されている。

発生したのは15時12分。
当時入坑していたのは三川坑だけで1,430名と、二番方の入坑と一番方の昇坑が重なる坑内作業員が最も多い時間帯での事故でした。
炭塵爆発で発生した一酸化炭素(CO)ガスは入気の風に乗り、爆発後30分程で坑内全域にガスが充満していたとも言われています。
また爆発直後に坑内は停電したが電話も不通となった為、坑内作業員の多くは状況が分からず、電力の復旧を待っている間にCOガスに襲われ、そのままの体勢で多くの方が亡くなられました。
昭和36(1961)年7月1日の保安規則の改正により昭和37(1962)年1月以降は防毒マスクの配備が義務付けられていたものの製造が間に合っておらず、暫定処置として昭和39(1964)年12月末まで配備の延長が認められていた為に三井も延長申請していましたが、事故発生まで作業員に防毒マスクが配布される事も坑内に配備される事も無く、坑内作業員は対処する術を一切持っていない状態だったのです。
この事故で亡くなられた方は458名ですが、その内爆発を受けて亡くなられた方は20名、残りの方は全てCO中毒で亡くなられており、生存者の内839名もの方がCOガスにより罹災。
罹災した生存者でもまだ体の異常に気付けていない方はそのまま救助活動に従事したり、まともな治療を受けれず安静に休める環境も与えられなかった事が中毒症状を悪化させる要因となりました。

当時の三池炭鉱には鉱山保安法に基づいた救護隊20班130名の隊員が配置され、三川坑には9班45名の隊員がいました。
三川坑救護隊に召集指令がかかったのは15時50分。
救護隊が坑口に到着したのは16時50分頃で、隊員は26名。
入坑したのは17時28分で、坑底に達して第一基地を設けた時には18時を過ぎており、既に事故発生から3時間を要していました。
四山坑と宮浦坑の救護隊にも召集指令されていましたが、両隊が入坑したのは更に遅れ、9日の深夜に差し掛かる頃に漸く救護活動が開始されました。
また宮浦坑と四山坑の一部の作業員には事故を知らされておらず、そのまま仕事を続けていたというから驚きである。

救護活動が大幅に遅れた事も被害が大きくなった原因ではありますが、そもそも破断した連結リンクは5年ごとに交換するよう規則で定められていたのに対して、実際はコスト削減により事故発生の12年前に交換したものが使用されており、老朽化に因る破断でした。
また炭塵の清掃、散水、岩紛の散布などを行っていれば大規模の炭塵爆発は防げるのだが、坑内清掃は昭和36(1961)年4月を最後に実施されておらず床や枠に炭塵が放置されたままで、事故が発生した同年4月には福岡鉱山保安監督局長が現場点検後に第一斜坑の堆積炭塵について危険性を指摘されていたにも関わらず対処していなかったと報告されています。
杜撰な管理体制の背景には、エネルギー革命からスクラップ・アンド・ビルド政策、大量指名解雇による三池争議で労働者は会社に強い不信感を抱いたままであった事、争議後に保安保守作業を担う人員が削減された事などが要因として考えられる。

このように会社側の過失は明らかですが、事故翌日に出勤した作業員に坑内に堆積した炭塵の清掃・散水の指示、三井が雇った調査団が風化砂岩説を捏造するなど、刑事責任を逃れようと企てていた事も明るみに出ています。
昭和39(1964)年9月8日には遺族と弁護団が三井を殺人罪と鉱山保安法違反の罪で告訴し、同年12月18日に福岡鉱山保安監督局も三池鉱業所長ら保安関係責任者11名と鉱業利権者である三井を鉱山保安法違反で福岡地検に書類送検していますが、判決が出る直前に事故捜査専従の検事4名が転勤・退職となって新人検事と総入れ替えされるという不可解な事態に・・・
そして昭和41(1966)年8月13日。福岡地検は事故原因は科学的立証が出来ないとして三井幹部らは証拠不十分で不起訴となった。

事故当時、CO中毒の症状は予後良好説(時間の経過とともに回復する、後遺症は残らない)という誤った認識が定説だった為、実際は日に日に悪化していくCO中毒患者に対して詐病と蔑む者もおり、被害者とご家族は周囲から耐え難い差別を受けた方も多かった。
労災補償は3年で打ち切られた為、CO中毒患者の完全救済を求めてCO特別立法の制定に望みを託して三池労組主導の下、CO中毒患者家族の会は昭和42(1967)年7月14日から144時間にわたる坑底座り込みなどの奮闘もあって、翌年には成立・施行されたものの、家族の会が求めていた処置は含まれず、被害者及び家族に対する不当な扱いが改善される事はなかったとも語られています。

爆発事故から約9年が経過した昭和47(1972)年11月に2家族4名が三井に対して損害賠償請求訴訟を起こし、翌年4月には更に2家族4名が合流して4家族8名での訴訟、その1ヶ月後には三池労組・遺族・CO中毒患者の計365名によるマンモス訴訟が始まった。
前者は三池労組の煮え切らない対応に痺れを切らした上での家族訴訟であり、マンモス訴訟を起こした三池労組と他の組合員の間には軋轢が生じてしまい、同じ被害者でありながらも家族の会除名処分など迫害を受けた過去もあります。
三井という大企業を相手に家族訴訟を起こした背景には同じく大企業を相手に訴訟を起こした水俣病裁判が影響しており、水俣病の研究で知られる医師・原田正純先生(当時熊本大学体質医学研究所助教授)は家族訴訟に必要な診断書を作成し、証人として立たれています。
また裁判で争う点で重要視されたのは爆発原因で、前述した風化砂岩説を崩す事が鍵となり、ここで証人となったのは事故直後に福岡県警が委嘱した鑑定人及び政府調査団の一員だった荒木忍先生(当時九州工業大学教授)でした。
荒木先生はそれまで恩師として慕っていた風化砂岩説を唱えた教授から、作成した鑑定書に対して事故原因を明記しないよう書き直しを命じられたり、風化砂岩説を唱えた論文への押印を要求されるなど圧力をかけられていましたが一切指示に従わず、事故原因の究明に尽力した人物でした。

提訴から約11年が経過した昭和60(1985)年1月に福岡地裁から原告・被告双方に和解が打診され、和解を受け入れた原告には死亡者とCO1級認定障害患者に400万円・その他の患者には等級に応じて330万円~65万円の損害賠償額で妥結され、三池労組に裁判費用1億5,000万円を支払う事で和解が成立。
会社の責任が問われない和解を拒否した原告32名は新たに原告団を結成して裁判を続け、家族訴訟を提訴した原告団とともに平成5(1993)年3月に判決が下され、三井の過失責任を認めるとともに原告全員をCO中毒患者として認定されたが家族への損害賠償は認められず、家族訴訟の原告は控訴して最高裁まで争ったが、平成10(1998)年1月22日に上告棄却されて敗訴した。

爆発事故から34年の歳月が経った所で表立った戦いは幕を下ろした訳だが、一生付き合っていかなければならない後遺症を抱えた患者にとって十分とは言えない損害賠償額である。
2018年11月9日の西日本新聞の記事によると、大牟田市・荒尾市の病院だけで少なくとも15名の方が入院、35名の方が通院されていると書かれており、現在も多くの方がCO中毒の後遺症に苦しんでいます。
身体的には健康に見える患者の多くは記憶障害など表面上理解し難い障害を患っており、中でも人格変化した患者の様子を記した記録は大変心苦しく辛いもので、最終的に患者の家族に対する損害賠償が認められなかった為、看病する家族にも辛い日々が待ち受けていました。
身を粉にして働き献身的に看病する家族もいれば、耐え切れず逃げ出す家族もいました。

コスト削減・人員削減からの杜撰な管理体制が招いた、防ぐ事の出来た炭塵爆発事故は多くの人々の人生を狂わせました。
熊本に住んでいる私ですら水俣病に関しては小学校の授業で学んだ記憶は強く残っているものの、炭塵爆発事故を知ったのは大人になり自ら炭鉱の歴史を調べたからで、九州外の方や炭鉱に無関心の方には知る由も無いのかもしれない。
2020年11月9日にはクラウドファンディングの支援により三川坑第一斜坑跡に建てられた慰霊碑は三池争議で分裂した三池労組と新労組が協力して実現したもので、事故で犠牲となった458名の氏名と年齢が刻まれています。
(それまで三池労組は有明成田山大勝寺、新労組は大牟田市の延命公園にそれぞれ慰霊碑を建立して、別々に追悼式を催していた)
来年2023年には爆発事故から60年が経過します。
明治期の三池炭鉱の一部が世界遺産に登録された事で周辺の遺構にも関心が向けられ、悲惨な爆発事故を風化させないように当時を知る方のお話を記録し、炭鉱関係者のみならず歴史を勉強している私達も後世に伝えられるよう努めていかなければなりません。

・・・と、ここまで書いて5,000文字を超えてしまったので、この辺で締め括らせて頂きます。


最後まで読んで頂き、有難うございます。


【撮影機材】
Canon EOS 6D
Canon EF17-40mm F4L USM
TAMRON 28-300mm F/3.5-6.3 Di VC PZD (Model A010)

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