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宮若市石炭記念館(旧大之浦小学校)

昭和49年に閉校となった大之浦小学校の校舎を利用した石炭記念館。
この地は貝島炭鉱発祥の地であり、大之浦小学校は貝島が炭鉱事業を拡大すると共に私財を投じて設立された私立小学校(貝島私学と呼ばれる)5校の内の1校で、貝島私学発祥の地でもあります。

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記念館駐車場の脇にはCサイドタンク式機関車(アルコ22号蒸気機関車)が展示されています。
現地の案内板によると、この機関車は大正8年にアメリカロコモチーフ製造所に発注購入したもので、石炭採掘に伴う充填用土砂を現在の庄司(飯塚市)より各鉱に運搬する事を主な任務としていたとの事。
また、平成21年2月19日~3月18日の28日間にわたり、トヨタ自動車九州株式会社による地域貢献活動として塗装作業が行われています。

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受付で名前などを記入し、スタッフさんのお話を聞きながら見学します。
踊り場に坑木が組まれているの面白い。

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貝島私学に関する一室には見た事無いYAMAHAアルガンがありました。
文字が読みづらいのだけど、明治35年3月4日と記されていると思われる中央部分・・・“大日本國”“第三回内國”“記念博覧會”などの文字が読み取れますが、何か受賞したオルガンなのかしら。

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貝島炭鉱で実際に使用していた炭鉱道具、坑内模型などの展示も。

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さて、最後に貝島炭鉱創業者である貝島太助氏のお話を少し・・・
(以下、読み難くなるので敬称は省きます)

貝島太助は弘化2年に筑前国鞍手郡直方町(現直方市)で行商も行う農家に長男として誕生。
父・栄四郎は4男3女を抱えて各地の炭鉱で働き、坑内に下りれない時は野菜などを売って生計を立てたが太助が生まれてまもなく仕事中に火事に遭って体を壊してしまい、長男の太助は8歳から父と共に野菜売りに、9歳から坑内に下りて父の後山として働き始めて11歳には一人前の殻焼き人夫となる。
同じ頃に母・タネの勧めで遠賀郡吉田村の鍛冶屋に奉公したが仕事を教えて貰えず子守ばかりさせられた為、1ヶ月程で実家に戻ったが、腸チフスを患って15歳まで病に伏していた。
完治後は母が信心していた雲心寺へ奉公して18歳まで寺男として働いたが、病気を患った父にいい治療を受けさせたいと、観音寺に寺男奉公していた弟の文兵衛と共に再び炭鉱で働き始めるが、願いは叶わず程なくして父は亡くなった。
父亡き後も家計を助ける為に炭鉱で働いていたが、常に死と隣り合わせである坑内で働く息子を心配した母の願いを受け入れ、20歳頃から直方で綿打ち職人として働き始める。
しかし家族に楽をさせたいという思いが強く、どうにか炭鉱業で一旗揚げたいと母を説得。
慶應3年、23歳の時に鞍手郡新入村で鉱区の株を買って山辺炭坑(後の三菱新入炭坑)を弟の文兵衛・六太郎・嘉蔵らと共に開業したが、直ぐに資金が底をついて1度目の独立は失敗に終わった。

明治2年には鉱山解放令が発布され、一般人も炭鉱主となる事が許された。
太助は幼い頃から坑内に下りていたので採炭の技術や知識はあれど炭坑事業を始める資金が無かった為、採炭技術は無いが資金のある者の下、坑夫頭や小炭坑の頭領など炭鉱経営に必要な経験を積んでいく。
後に父の知人である渡邊弥右衛門と共に田川へ渡り、副頭領として豊国炭坑で従事。
呼び寄せた妻・イネは坑夫らの賄いを始め、漸く出来た150円ばかりの貯金を母に渡し、実家を新築して母と妻は宿屋を開業。
その後の16年間は資金を貯め、妻の親類・江田助次郎から300円の援助もあり、明治8年に再度山辺炭鉱で2度目の採炭を計ったが想像以上に坑内の水量が多く、汲み上げに膨大な費用がかかってしまった為、採炭する前に資金が無くなり、またもや失敗に終わる。
その後は筑豊炭田に初めて蒸気機械を持ち込んだ片山逸太と共に蒸気機関を使った排水ポンプの実験を行い、暫く糸田炭鉱で働いていたが、明治9年に江田氏から譲り受けた約500坪の鉱区(切貫坑)で採炭を始め、これが坑内の水も少なく良質の石炭が採れた。
その翌年には西南戦争の影響で石炭の需要が増えて炭価が高騰し、3度目で漸く太助の独立が成功したのである。

この成功で手に入れた資金を基に直方の炭鉱経営者・瓜生幾治ら6人と共同で蒸気機関を備えた水揚機を長崎県の貿易商から購入して操業を始めたが、期待していた効果は得られず、同時に西南戦争が終わりを迎えると共に石炭の需要が減り、炭価も急落。
太助と出資者らは明治12年に倒産に追い込まれ、遂に再起不能かという事態にまで陥ったが、太助の倒産を聞きつけた当時陸軍指揮官で小倉鎮台に勤務していた帆足義方は利益の2割を渡すので自身の所有する炭鉱で働いて欲しいと持ち掛け、太助は帆足の下で働く事となり、遠賀郡馬場山村の馬場山炭坑から遠賀郡香月村の斯波炭坑などと鉱区を広げていった。
帆足の下で働いている間はギリギリまで生活を切り詰め、6年間で8000円もの額を貯えるまでになった。

そして明治17年。
この頃は炭価が暴落しており採掘権は投げ売り状態だった為、以前から目を付けていた鞍手部宮田村大之浦に2000坪の採掘権を買い入れ、更に43000坪を買い増した。
大之浦炭鉱を開墾するにあたり弟3人を呼び寄せ、また太助と共に香月炭鉱を支えてきた原田勝太郎・岡藤美之助・園田角助・桑野嘉三郎も集まり、明治18年11月に最初の竪坑に着手。
貝島炭鉱の始まりである。

明治20年には漸く利益が出るようになったが、資金繰りで忙しく駆け回る太助から採炭を任されていた文兵衛は出炭量を上げようと坑道に寝泊まりする事が多く、過労に因り倒れ、39歳という若さで亡くなってしまう。
更には嘉蔵も25歳で病気を患って両目を失明するという不幸に見舞われたが、頭脳明晰でもあった嘉蔵はその後も炭鉱業に従事した。

明治21年に筑豊炭田の濫掘を抑えようと政府は選定鉱区制度を施行して21の大鉱区に再分割した為、大きな資本が無ければ経営できなくなった。
同時に三井・三菱など大資本が筑豊炭田に進出した事でより激しい鉱区争奪戦が始まり、貝島炭鉱も規模を広げていったが数人から借金を重ねる程、経営は苦しくなっていた。
そんな折、明治24年に農商務大臣を辞任した井上馨が九州の金田炭鉱を訪れた際に柏木勘八郎の引き立てで太助と出会い、正直な太助の人柄に好意を持った井上は家憲制定の件で後見人同然の立場にあった毛利氏の財産を投資して貝島炭鉱の窮地を救う。
ただこの投資には井上と共に毛利家の財産を管理していた三井物産の益田孝も関わっていた為、貝島炭鉱が所有する鉱区の名義を全て三井物産副社長の木村正幹に変更、太助は木村の使用人と位置付けられ、三井物産下関支店と金田炭鉱技師の指導に従う事などを条件に資金援助がなされたのである。
ただ明治30年5月末までに元利を返済すれば鉱区の名義などが全て元に戻される約束だった為、炭価が下落する一方で懸命に働き続けた。
そして明治27年に日清戦争が勃発した事で炭価が高騰。
その利益で借金を全額返済、鉱区の権利は太助に戻り、その後は更に宮田村、笠松村、遠賀郡香月村、佐賀県厳木村まで鉱区を広げ、明治35年には出炭量90万トンまで到達。
幾度の困難を乗り越え、この頃になって漸く貝島家は日の目を見たのであった。

・・・と、ちょっと長文になってしまったので、貝島炭鉱が軌道に乗った所で〆ようと思います←


最後まで読んで頂き、有難うございます。


【撮影機材】
Canon EOS 6D
Canon EF17-40mm F4L USM

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