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逃げることは恥なのか?

逃げる、という言葉に対して、あなたはどんなイメージや思いを抱くだろうか? 少女の頃の私は、逃げるという言葉を聞くたびに、逃げた経験が蘇り、惨めな気持ちになっていた。

『逃げるは恥だが役に立つ』というタイトルのドラマが流行った時、私は高校生だった。ろくにドラマの内容も知らないまま、ただタイトルを聞いただけで、「ああ、やっぱり逃げることは恥として世間では認識されているんだ」と思ったことをよく覚えている。

卑怯、軟弱、ダサい。私は逃げるという言葉に対して、果てしなくマイナスなイメージしか持っていなかった。

私の逃げた経験とは、中学一年生の時の部活を数か月でリタイアしたことである。4月に入った体操部を8月に休部して、そのまま一度も復帰することなく年度末に退部した。

あまりにも独特過ぎる上下関係の厳しさに耐えられなかったのだ。私の通っていた中高一貫校は、部活まで中高合同だった。つい半年前まで小学生だった私たちは、高校生のお姉さま方に時に怒られ、時に冷たい言葉をぶつけられながら雑用と練習に励まなければならなかった。

平日は毎日登校して長時間練習する夏休みは、地獄のような日々だった。心身共に困憊して帰宅した後も、次の日が憂鬱で部活のことが頭から離れなかった。休日もまったく心が休まらず、日曜日の昼間から月曜日の部活を憂えていたものだった。親には「サラリーマンのサザエさん症候群よりひどい」と呆れられたのを覚えている。

8月のある日、ついに限界だと思った私は、担任に部活について相談したことをきっかけに休部することになった。

あの時の挫折感は相当なものだった。なぜ私には他の人ができていることができないのだろう? 夏休み明けの放課後、各々の部活に向かうために練習着に着替えるクラスメイトを尻目に、私は何度も何度も自分を責めながら帰路に就いた。

そうやって後ろめたさや罪悪感に苛まれながら、3月に正式に辞めるまで休部している間が本当に辛かった。私の通っていた学校には、一度入部したら年度末まで部活を続けること、という謎の校則があった。だから辞めたくてもすぐ辞められず、休部という手段を使わざるを得なかったのである。体操部に限らず、辛い部活に耐えている同級生は多くいるのに私は逃げたんだ、と思うとすごく惨めだった。

体操部を正式に辞めた後も、辛い時に逃げることを選んだ、という事実にずっと罪悪感を抱き続けた。私は辛い時に逃げる卑怯な人間、人並みの忍耐力すらない軟弱な人間……その思い込みはまるで呪いのように私の心にへばりついて後々まで尾を引いた。私がこの呪いをようやく払拭できたのは、大学受験を乗り越えて志望大学に合格した時だったように思う。

けれど、大学を卒業して社会人となった私は、現実社会では逃げることが勇気ある賢い選択となる場合がたくさん存在することを知った。パワハラでメンタルをやられて休職からの部署異動を希望したり、長時間労働に病んで退職からの転職を選んだり……大人たちも様々な形で辛い環境から逃げることを選んでいる。そして逃げた先で能力を発揮して幸せに生きている人もいるのだ。合わない環境に無理して留まり続けて心をボロボロにするよりも、自分に合った環境を探せばいい。立ち向かって戦うことだけが正しいんじゃない。逃げることだって立派な一つの選択肢だと、今は心からそう思う。

ところで、『逃げるは恥だが役に立つ』というタイトルの意味が今更ながら気になり、調べてみると、ハンガリーのことわざが由来となっていることがわかった。時には逃げることが最善の策となることがある、己の戦う場所を選びなさい、という意味だという。なんだかほっとした気持ちになって、私はGoogleを閉じた。


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