【短編小説】走れ、ルドヴィカ! 1809年(39歳)

 革命の気風と共に故郷の町からウィーンにやってきて、今年でもう何年だっただろうか。
「………何やってんのさ、このクソ師匠」
「おや、こんな物騒な日によく大手を振って外を歩いてきたものですね。さすがは天下のモンゴル大王。怖いもの知らずというか、何と言うか」
 フランス軍の大砲の音が再び響き渡る。近くに着弾したらしく、すさまじい音と共に窓ガラスに振動が走る。
「あんたこそとうとうボケがはじまったんじゃないの、この腹黒ジジイ。何で逃げてないんだよ。あんたがまだここにいるって聞いて、慌ててやって来てやったってのに、なに呑気にピアノなんか弾いてんのさ!!」
 ヨーゼフ・ハイドン。後世にまで名を残す事になるこの大音楽家が、知的な笑みを口元に浮かべ、微笑んだ。
「これも、ウィーン人代表のささやかな抵抗ですよ。ベートーヴェン君」
 ルドヴィカ・レジーナ・ヴァン・ベートーヴェン。父親の暴挙で『ルードヴィッヒ』としてデビューさせられてから、今年でもう何年だっただろうか。『モンゴル大王』などという有り難くない渾名の由来でもある浅黒い肌に低い団子鼻、ぼさぼさの頭を思わずかきむしり、彼女は、ウィーンきっての名士でもあり、世界的にも名を知られているこの師匠に向かって毒ついた。
「品のない大砲のおかげで、ロクに聞こえやしないよ。もっと大きな音で弾いて下さらないかしら?」
 22歳の時にウィーンにやって来て、真っ先に男として弟子入りしたというのに、なぜか女性であるということを速攻で見抜かれてしまった彼女が、腰に手をあててふんぞり返りながら鼻を鳴らす。部屋着姿でのんびりとピアノを弾いていたハイドンが、言った。
「大きな音で楽器をかき鳴らすのはあなたの領分でしょう。違いますか?」
「あんたなんか大砲に吹っ飛ばされちまえ。で、何弾いてたのさ」
「国歌ですよ。『神よ、皇帝フランツを守り給え』。昔、この私が作曲したやつですからね。いや実にこんな日にはぴったりな名曲ですよ。そうでしょう?」
 ナポレオン率いるフランス軍がここウィーン市に侵攻している真っ最中、怯えおののく家人達が全員、地下室へと逃げ込んだ後の閑散としたこの広い家の居間で、一人オーストリアの国歌をピアノでのんびりと弾いていた師匠を、ルドヴィカはまじまじと見やる。
「いい度胸してんのね」
「あなたに誉められたのは初めてですな」
「私はあんたに誉められた覚えなんて、一度たりともないけどね」
 再び砲弾の音が響く。思わず両方の耳を塞いで、ルドヴィカがうめく。
「ああもうこれでまた耳の調子がおかしくなったら、あのコルシカ生まれの成り上がりのチビ野郎に、呪いの葬送行進曲を百曲ばかり速達で送りつけてやるよ……」
 この弟子はなぜかいつも耳の様子を気にしている。男よりもよほど男らしい、世間では男として生き続けているこの女弟子を見やって、彼は言った。
「家人が地下に避難してしまいましてね。茶も出せませんが」
「あんたが淹れてくれた茶なんて飲みたかないよ。私は豆60粒きっかりで淹れたコーヒー以外は飲まないんだから」
 窓の外を、フランス兵が歩いていく。
「全く、殺されても知らないよ」
「全世界の楽団に交響曲を100曲以上も提供している高名な作曲家を殺せば、フランスに非難が集中すること請け合いです。まあ、それもまた一興でしょうな」
 平然とこの老作曲家が笑う。口元に浮かんだ笑みは、徳高いと評判の大作曲家にしては、あまりにも老獪極まりないそれが滲み出ている。
「ふん、いまいましい楽団員の連中はさぞ残念がるだろうね。100日分の食い扶持を提供してくれる作曲家が家ごと吹っ飛ばされた日には」
「おや、あなたもやっとのことで、当世ウィーン風のエスプリの効いた会話をこなせるようになったようですな、熊と名高いベートーヴェン氏。よもやこんな日にこんな素晴らしい弟子と心中する羽目になるとは」
「そう思うんならさっさと逃げりゃいいのよ」
「まあ、今となっては外に出るよりは、家の中の方がよほど安全でしょうな」
 鍵盤を人差し指で軽く叩いて、彼は外を眺めて呟いた。
「しかし、よもやあなたが来てくれるとは……」
「そういうもんさ」
 部屋に、奇妙な沈黙が訪れる。ウィーン楽壇で最も仲の悪い師弟、と評されるこの二人が、思わず揃って窓の外に視線を投げる。
「前に会ったのはいつだっけ」
「私の去年の誕生日ですよ」
「ああ、そうそう。『天地創造』をやったあれね。あんた、何歳だったっけ」
「今年で77ですよ。どうやら少々長生きしすぎてしまった。前のように憎まれ口を叩くのも少々億劫でして………あなたは何歳でしたっけね」
「そろそろ40さ」
「ということはかれこれ20年近い付き合いになるんですかね。あなたとは」
「ああ、そうだねえ」
「………この私の目をごまかせると思ったら大間違いでしたね。工事中のシェーンブルン宮殿の足場によじ登ってマリア・テレジア陛下御自らより直々に尻叩きの刑を頂戴したり、前の席の合唱団員の鬘を鋏で切り落として着の身着のまま市中に放り出されたのが昨日の出来事のようです」
「それを知ってたらわざわざあんたの弟子になんかならなかっただろうね! 老いぼれた陰険老骨は下がってな。あのクソみたいな国歌、弾いてやるよ」
「弾いてくれるんですか」
「『悪魔の指を持つピアニスト』をナメんじゃないよ。レッスンの度に宿題だってまともに添削してくれやしなかった馬鹿師匠。245曲も出してやったのに42曲しか添削してくれなかったこと、まだ忘れちゃいないからね」
「レッスン代滞納常習犯の貧乏弟子に言われたくはありませんな」
 そんな事を言いつつ、彼はゆっくりと立ち上がると、ピアノの椅子をこの弟子に譲ってやった。ルドヴィカが昔と何ら変わりなく、がたがたと乱暴に椅子を引いて腰掛けるのを見て、思わず師匠が口元に笑みを浮かべる。
「………私にも、モーツァルトやハイドンを心底尊敬してた時期があったことを、思い出させてくれちゃってさ。全く、こんな日だってんのに、嫌になっちまうよ……」
 弾きながら呟く弟子の、少し浅黒い肌色の顔を眺めて、彼は目を閉じた。変奏曲の名手としても知られるこの弟子の手で、かつて自分が生み出した明快でシンプルなメロディーが、陰鬱な短調の韻を帯び、荒々しい響きとなって鳴り響く。あたかもそれに対抗するかの様に、フランス軍の砲弾の音もまた再び響き渡り、隣の部屋の窓ガラスが甲高い音を立てて割れる。それでも、脇目も振らずピアノの鍵盤に指を走らせ続けるルドヴィカのピアノに、独特の少し長い顎に指をかけて老ハイドンもまたゆったりと耳を傾け続ける。鳴りやむ気配のない砲弾の音を背後に、荒々しい響きが鮮やかに転調し、ゆるやかに歌いはじめたピアノのメロディーが、徐々に晴れやかに上昇し、また再び疾風怒濤の渦へと投げ込まれる。リズムがとめどなく変化し、旋律もまた色鮮やかに、倦むことのない転調が続いてゆく。

「………フランスの伊達男にエスコートされるのは趣味じゃなくてね。あの手の顔は私の好みじゃない。連中に見つからないうちに、とっとと帰るよ」
 部屋は既に暗くなっていた。いつの間にやら、師匠の手元には小さなランプが灯っている。
「その顔で好み云々を語るつもりですか。さすがはモンゴルの女帝。尊敬に値しますな」
 この年老いた師匠をいっそ、砲弾の飛び交う路上に放り出してやればよかった、と心底思いつつルドヴィカが口の端を吊り上げて笑う。
「あんたの奥さんだってその手の顔だったじゃないか」
 すると、この温厚篤実な老音楽家もまた、再び口元に笑みを浮かべて言った。
「それを言われると私も弱いですな。死んだ妻は確かにアレでしたが、まあ、そこそこ愛してましたよ。世間様が思っているよりは、ずっとね」
 そして、片目を閉じて付け加える。
「ま、ですが、ちょっとやそっとくらいの『よそ見』は、許されてしかるべきでしょうな。我らが花の都ではよくあることです」
「これでウィーンきっての篤志家で通ってるあんたが心底憎たらしいよ。腹黒陰険クソ師匠」
「あなたも100曲以上の交響曲を、77年の歳月をかけて作ってやれば、篤志家の称号を得ることが出来ますよ。試して見るとよいでしょう」
「冗談じゃない。交響曲なんて最高傑作を10曲作れば十分さ」
「1曲あたりが長すぎると批評家の間ではすこぶる評判ですよ」
「じゃあ9曲にしておいてやるよ」
 床に放り出したコートを羽織り、彼女は玄関へと歩き出す。すると珍しくこの師匠が、明かりを片手に玄関先まで送り出してくれた。そして、微笑みながら言う。
「素晴らしい変奏曲をありがとう。ルードヴィッヒ君、いや、ルドヴィカ嬢」
 ルドヴィカが振り返る。夜、いつもと異なり、生活音がぱったりと途絶えたこの町に、月明かりだけが降り注ぐ。
「もう『嬢』をつけられる歳でもないさ。……せいぜい長生きしなよ。先生」
 指が痛い。一体何時間、自分はここでピアノを弾き続けていたのだろう。そして、この師匠はその間ずっと、自分のピアノに耳を傾けてくれていたらしい。王侯貴族にも決して頭を下げない事で有名な彼女が、この師匠に対して小さく一礼すると、くるりと踵を返して歩き出した。
 「モーツァルトの精神を、ハイドンの手から受け取りたまえ」、懐かしい言葉を思い出す。結局は喧嘩ばかりしてしまい、レッスンもちっとも上手くいかなかったこの老獪な大作曲家から教わったことなど何もない、と常日頃公言してはいたが、ルドヴィカは石畳の真ん中を堂々と歩きながら息を吐く。ハイドンの手からは、ハイドンのものしか受け取らなかったのだ、と。

 数ヵ月後、ウィーン陥落。ほぼ同時に彼女は、この師匠の訃報を耳にすることになる。最後の最後まで、彼は砲弾に怯える家人を励まし続けていたという。

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