【短編小説】走れ、ルドヴィカ! 1792年(21歳)

 ルドヴィカ・レジーナ・ヴァン・ベートーヴェン。『モーツァルトを超える天才少年!』と言う軽々しい宣伝文句の下、無理矢理デビューさせられてから、かれこれ10年以上の月日が流れていた。
「おい、姉貴、マジかよ……」
 楽譜の詰め込まれたトランクを小脇に抱え、いつもの様に足音も騒々しく階下へと降りてくるなり古びたテーブルの上にトランクを投げ出し、背中に愛用のヴィオラを背負ったまま『男物の』服をありったけ詰め込む『姉』を見て
「そりゃ姉貴は女にしちゃあ……色も黒いし、声も野太いし、短気だし、ガサツだけど……」
 思わずカスパール、後には『ベートーヴェンの弟』として名を残すことになる、まだ少年の面影が残る青年が嘆く。
「悪かったね。で、カスパー、この服も借りるわ」
「おい、それは俺の一番いい服……」
「どうせサイズは一緒なんだし、新しく服を買う余裕なんてないんだよ。ネクタイとか下着とかはロールヘンに頼んであるから良しとして………」
「し、下着?」
 目を丸くする弟に、この姉が平然と言ってのける。
「女用の下着なんてウィーンのどこで買えばいいのかわからなくってさ。だからこっそり送って欲しいって頼んだんだよ。そうしたら、ついでに新しいネクタイも作って贈ってくれるって。やっぱ持つべき者は友達だね!」
 身分はまごうことなき貧乏市民ではあるが、ボンの町では既に若手音楽家として名を馳せている彼女が、可愛い愛弟子でもあり、そして彼女の正体を知っている数少ない友人でもあるブロイニング家の子女エレオノーレの愛称を口に出す。ピアノを弾かせたらこの町でこの『ルードヴィッヒ』に敵う者はいない、ということも、作曲をさせれば、もはや言葉では表現しがたい独特で目新しい才能を発揮するということも、更には一般的な男よりもよほど男らしい性格をしていることも、カスパールは良く知っていた。教え子の貴族の娘に下着を頼むあたりも、横柄を通り越して既に大物感満載である。それでも、一抹の不安を隠せないこの弟をよそに、ルドヴィカは
「紹介状もあるし、演奏会もどうにか開けそう。本当はモーツァルトにピアノ習う予定だったんだけど、この前急におっ死んだとか聞いてびっくりよ。代わりにあのハイドンにレッスンして貰えることになったけどさ……」
 16歳の時にウィーンまで会いに行った、自分の宿命の元凶でもある先輩作曲家を思い浮かべ、
「……あの世はよほど音楽家不足と見えるけど、どうせなら宮廷でたらふくおまんま食ってる役立たずな楽長共から連れてきゃ良かったのに」
 溜息と共に、彼女なりの弔辞を一つ吐き出してから、ウィーンに住まう大作曲家ハイドンへの紹介状をポケットに突っ込んで、
「ま、あの男があの世で楽長やってんなら、ハイドンは当分無事ってことさ。せいぜい長生きしてもらわなきゃ」
 妙に楽観的な見通しを盛大におっ立てた。カスパールが思わずこめかみに手を当てて声を荒げる。
「そうじゃなくって、バレたらどうすんだよ!! っていうか、バレるに決まってるじゃないか! ウィーンはこことは違うんだ。良い人ばかりじゃない。それに……」
 皆まで言わせず、ルドヴィカもまた怒鳴り声を上げる。 
「お黙り!! 私はもう決めたんだよ。あそこで成功しない限り、私は絶対に帰ってこないってね。この家にも、町にも、友達のところにもよ!!」
 そして、大きく息を吐き出して、不器用に笑う。 
「それに前にも一回行ったことがあるし、大丈夫。弟のヨーハンと、飲んだくれのバカ親父の面倒はあんたがしっかり見るんだよ」
 出発の日だというのに、父親はいつものように飲んだくれて帰宅し、上の階で泥酔したまま眠りこけているらしい。諦めとほのかな寂しさが混じりあった複雑な表情をかすかに浮かべる姉が、妙に痛々しい。
「母さんや兄さん達の墓の手入れも忘れるんじゃないよ」
 昨年亡くなった母と、自分が生まれるより前に死んでしまった兄ルードヴィッヒ=マリア、そして、長生きすることが出来なかった小さな弟や妹達の墓参りは、既に昨日済ませてあった。ばたん、とトランクの蓋を閉めて、彼女は付け加えた。
「そろそろ駅馬車が来るし、行くよ。夜に出発した方が安いからね。稼いだ金は送ってやるから適当に期待して待ってな。向こうで売れっ子になったら、あんた達まとめて招待してやるからね!」
 そして、勢いよくドアから飛び出して、脇目もふらず歩き出す。とっぷりと日が暮れて、インク色の空に月だけがぼんやりと浮んでいる。ふと、何かに引かれたように振り返ると、住み慣れた家の2階のカーテンが、ほんの微かに揺れた気がした。酔っぱらって寝ているはずの父だろうか。
(……ここにはもう、帰ってこない)
 自分が生まれる前に死んでしまった兄のことをふと考える。もしも兄が生きていてくれたら、こうしてウィーンへ向かうのは、幼い頃からあの父にピアノを仕込まれて育った正真正銘の『ルードヴィッヒ』で、あの窓の向こう側には、兄に似てピアノが上手いのだけが取り柄な21歳の娘『ルドヴィカ』が、大好きな兄さんの晴れやかな門出を見送っていたのかもしれない。
「ルードヴィッヒ、ね」
 すっかり自分のものになってしまったこの名前を、ふと呟いた途端、
「ルドヴィカ!」
 すっかり自分のものではなくなってしまった名前を呼ぶ声が響く。
「まさか本当に行くなんてな。ロールヘンが寂しがるぜ」
 やってきたのは、幼なじみで医師見習いのフランツ・ヴェーゲラーだった。
「あんたがいりゃ大丈夫さ。一体いつまで貴族でもないくせに独身貴族気取りの藪医者でいるつもりよ? 全く、身分の差がうんぬんっていうよりあんたに甲斐性がないだけじゃないか」
 8歳年上の幼なじみに、遠慮なくずばりと言い、渋面をする彼に更に容赦なく付け加えてやる。
「男なら押しの一手がモノを言うのさ、で、押してダメなら押し倒す! そうすりゃきっと上手くいくさ。身分の上下を吹き倒してくれるありがたい革命の気風とやらが吹き荒れているうちにね!!」
 可愛い女弟子とこの幼なじみの青年が憎からず想い合っていることを、彼女は何年も前から知っていた。革命の気風はこの田舎町にも押し寄せてきている。自由を愛する貴族の一家であるブロイニング家に、貧乏音楽教師のルドヴィカが自由に出入りし、これまた貧乏な医師の卵が貴族の娘に恋をすることができる程度に、であるが。
「お前に恋の指南をされるなんてな。でもルイザ、お前こそ、この町に好きな奴がいるって言ってたじゃないか。そっちはどうしたんだ」
 目の前にいるこの女心を寸とも理解してくれないでくの坊にピアノをくくりつけてライン川の奥底深く沈めてやろうかと心の中だけで思わず毒つきながら、
「私の好きだった男は、残念ながら可愛い女の子の方が好みだそうよ。悔しいけど恋の権利はそっくりそのまま可愛いその子に譲ってやったのさ!」
 腹立ち紛れに一気にまくし立てて、ついでに大袈裟にため息をついてやった。
「………私、急ぐわ。皆によろしく伝えといて。ついでに、今夜は口うるさい偏屈音楽家ルードヴィッヒの追い出しパーティーとでも銘打って、盛大に飲んどきな!」
「はは、まかせとけ! 後のことは俺がどうにかしてやる。それと……馬車の窓、開けとけよ。きっといいことがある」
 彼女の内心を知る由もなく陽気に笑うフランツを見て渋面を作ってやりながら、ほんの少しの沈黙の後、彼女は珍しく真顔で言う。
「色々とありがとう」
「………よせよ、水臭いな。後はそうだな、風邪ひくなよ。お前胃腸弱いし」
 鞄を馬車に放り込み、靴を鳴らして馬車に乗り、窓を開ける。笑顔で出発しようと、彼女は朗らかに言った。
「わかってる。じゃあね未来の名医者!!未来の奥様によろしく言っとくんだよ!」
「未来の大作曲家先生からな!」
 幼い頃から、何かと自分の世話を焼いてくれたこの幼馴染みが、少し誇らしそうに笑う。そして、
「それと忘れ物だ。お前好きだっただろ、シラーの詩。俺の本だけどやるよ」
 ボン大学の聴講生だった頃に共に教わった大詩人シラーの詩集を手渡した。ルドヴィカが、それを受け取って、笑う。
「懐かしいね。『歓喜よ、神々の火花よ、楽園の乙女よ……』ね。仰々しいったらありゃしないけど、こういうの好きだよ。そうさ、好きなんだよ」
 そう言って、フランツに手を振り、馬車に乗ってドアを閉めると、彼女は固い椅子に座って御者に合図を送ってから、数秒ぼんやりした後に、そっと息を吐いた。
「『優しい妻を得たものも、一人の友を持つものも、歓喜の歌に唱和せよ』……続きはこうだっけね。『さあらで寂しき者は去るべし』」
 馬車がゆっくりと走り出す。馬車の窓枠に肘を乗せて、彼女は思わずそのままきつく目を閉じた。

 後方から馬の蹄の音が近づいてくる。思わず窓を全開にし、身を乗り出して、彼女は声を上げた。
「シュテファン!? 何やってんのそんなところで……」
 暗闇の中を馬に乗って駆けてきた年下の友人、シュテファン・フォン・ブロイニング、愛弟子のロールヘンの弟が、ぴたりと馬車の隣まで馬を寄せる。そして、懐に入れていた紙の束を掴み、
「持っていけ!」
 片手で手綱を握り、もう片腕を伸ばす。
「皆の寄せ書きだ。集めてたら遅くなったんだ。皆に、宜しく頼まれた」
 押しつけられるように受け取ったそれを開くと、夜目でもそれと分かるほどに、様々な筆跡が見える。友達やその家族、レッスンを受け持っていた生徒、宮廷の同僚や支援者達の文字が入り乱れたそれを見て、彼女は思わず声を失った。
「………なあルイザ。フランツの野郎には、言えたのか?」
「言えるわけないでしょうが! あんたの姉さんと男を取り合うのはごめんだよ。ロールヘンは親友なんだから! それに……」
 『ルードヴィッヒ』宛の誠意と友情に満ち満ちた、一点の疑いも見当たらない心優しいメッセージの数々を見た瞬間に、何かがふっつりと弾けたように、涙がこぼれ落ちる。
「……泣くなよ。何で、泣くんだよ」
「この町を出たら、私は永遠に『ルードヴィッヒ』よ。まさしく、哀れなルイザの命日よ。泣いたって、いいじゃないのさ」
 ウィーンへ行く費用もまた、ルードヴィッヒ名義で宮廷から出ている。もはや、この先『何が起ころうが』ボンの町へは戻れない。
「ルードヴィッヒっていうのは、お前の中のほんの一部だろ。全部じゃない」
 貧しい一家の大黒柱として働く彼女を「男」だと詐称する手伝いも何度かしてくれたこの友人に、彼女は思わず思いの丈を口にする。
「でも、起きてから寝るまで、曲創るのも、ピアノ弾くのも……全部これからは『ルードヴィッヒ』よ。ルドヴィカなんて娘はもういないのよ。きれいさっぱり忘れて貰わなきゃ、困るんだよ……」
 涙声で呟いてから、彼女は首を振って、叫ぶ。
「だから、愛だの恋だの青春だのは全部、この町に置いていくって決めたのよ!!」
 寄せ書きを片手で胸に抱きしめたまま、彼女が身を乗り出している馬車の窓から一滴、風に乗って塩辛い水滴が飛んできて、彼の頬に当たって弾け飛ぶ。思わず、ぐっと馬車の手綱を強く握りしめ、叫ぶようにシュテファンが言う。
「誰も知らなくても、皆が忘れても………俺は忘れない。お前がどんなにルードヴィッヒだろうが、お前は、俺にとって、永遠にルイザだ!」
 何度も何度も喧嘩し、同じ数だけ仲直りしてきたこの友人の言葉と、視線が、交差する。
「だから、愛だの恋だの青春だのは、この俺が全部預かっておいてやるよ」
 この馬車と馬の間の距離は、何ともどかしいのだろう。
「そういう台詞をこの私に吐こうなんて、100万年早いよ」
「うるさいな。泣いてたことを皆にばらすぞ」
 照れ隠しなのか、シュテファンもぶっきらぼうに笑い、ちゃっかり付け加える。
「口止め料は出世払いだ。そうだな、俺でも弾けるヴァイオリンの曲でよこせよ」
 同じヴァイオリンの師匠の元に共に通っていたこの同門の友に、
「馬鹿! あんたって本当に馬鹿だよ……」
 『哀れなルイザ』が悪態のようなものをつく。
「ああ、馬鹿だ。俺達はいつだって馬鹿なことばかりしてきたけど、それでも何とかやってこれたじゃないか」
 シュテファン・フォン・ブロイニング。ベートーヴェンの生涯の友であり、後に、名作と名高いヴァイオリン協奏曲を彼女から捧げられることになる、4歳年下の青年が、笑いながら手を振った。
「………あんた、いい男だよ。この私が言うんだから間違いないよ」
「お前だって、いい女さ。じゃあ、気をつけていけよ!」
 馬のいななきと蹄の音が遠ざかる。ルドヴィカが、手の甲で涙を拭ってから、友情に溢れた寄せ書きに視線を落とす。暗い馬車の中でもなお、友人が届けてくれた友人達の言葉が紙の上で踊る。「モーツァルトの精神を、ハイドンの手から受け取りたまえ」そして「友情は夕暮れの影のように人生の落日の時まで続く」と。

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