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美しくても、内面がないと空っぽと捉えるフランス、喋りのスキルが必須な社会

これ、フランスだけじゃないと思うけど。

ここフランスは議論大国で、あーでもない、こーでもない、かーかー、と延々と議論が続く。夕食は3時間にも4時間にも及び、

ノエルとかにはね、昼のアペロ食前酒、昼食、15時とか16時までテーブルにいて、コーヒー、散歩や自由時間、19時に夜アペロ開始、21時夕食。0時解散。

もう、食べるのも飲むのも罰ゲーム的になってくる。

その間中ずっと話し続けられる人たちなのだ。

話が出来ることはとても必要とされる能力で、子供は幼い頃から、親の食事には同席できないが、同席したら、口を挟んではいけないというルールがある。

親の議論を聞いて、しゃべりを練習するらしい。

あれ、ここまで来て気づいたのが、日本にも関西という土地がありますね。おなじー。

関西の人たちの研ぎ澄まされた会話も家庭から生まれるんだね。


だから、まーペラペラペラペラと、口からでてくる。嘘も言い訳も、称賛も喜びも、すべての行動を実況中継するかのように、口下手な私からすると、輝かしい才能。ワッショイだ。

日本の実家に戻ると、なんでこんなに喋ることないんだろう。と思ってしまう。そりゃそうで、私は聞いているだけで、喋りを磨いてきたわけではなかったもんな、、、笑

みんなが喋りたがりの中に、聞く人は必要だからね。

それにしても、どんだけしゃべりたいんだ。笑

喋るためには、常に自分を点検していて、考えに矛盾がないか、自分と自分の感情、思うことを整理している。ように見受けられる。

私は人に合わせる生き方を長年続けてきて、その結果、自分がどう感じて何を思っているのか、不感状態になっていた。

社会や周りの価値観をこなせない自分はダメなやつだと絶えず自身を責めていた。

だから、模範解答ができるようにいつも人の情報を集めては、それに自分はそっているのかいないか、チェックしていた。

沿えるわけないのにね。

自分の出した答えを持っていないと、自信がないから発言もできず、人の価値観に寄り添っているから、ギャップに一喜一憂し、自分と周りを振り回していた。

大人数の中で発言をしないということは、発言できないつまらない人間という烙印押されてしまう。

実際に、私の愛情深い元義理家族が、私のことを空っぽと思っていたかはわからない。多分、他の良いところをいっぱい認めてくれていたと思う。

発言をしないということは、その場で存在しないと見なされてしまうことが往々にしてある。

自分のことをアピールできない息子は、

フランスの学校社会の中で、教室の隅に埋れていくことになる。

喧嘩が起こるとする。自分がどれだけ正しくて、相手がどれだけ間違っているのかを先生に主張しなければならない。

なぜなら、先生は発言をする生徒の言うことしか聞かないから。正当化をしないことは、即ち、己の誤りを認めたことになる。

要は、言ったもん勝ち。

先生どれだけペラッペラなんだと思うけど、

主張できないということは、自分の身を守るという面で致命的なことなのだ。

日本の先生は誰かが訴えたら、もう一方の話は必ず聞くだろう。

それ、ないから。

逞しく生きていかないといけない社会はまさに弱肉強食。私も息子もあまり順応できなかった、というより、正当化することがあまり美しいとは思えない。

フランスにだって、主張できない人はたくさんいると思う。生まれつきの性分はあるだろう。でも、少しも戦えない人、気弱で敏感な人は、心理カウンセラーなどの精神的にサポートを受けている人が多いのではないかな。

こちらは心理カウンセラーも精神科医もたっくさんいるし、人たちもちょっとしたことで、バスに乗るような気楽さで利用する。


まとめ、

自分の意見をもち、それを発言できること、それは同時に自分を守ることにもなること。

どんなことだっていい。高尚なことでなくてもいいから、自分が生み出した自分の思いを大切にするということが、少しはできるようになったな、人の価値観関係ないな、と思えるようになったのは、フランスのおかげだと思う。






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