『サハラのカフェのマリカ』

真っ平らな砂漠と密度のない砂漠、それは空。
映画の中では青空はなかった。空は常に砂色。
風は絶えず吹き続け、前の道をトラック、バン、車、バイクが制限なしのスピードで通り過ぎていく。
サハラ砂漠の中のここはアルジェリアだそうだ。
会話の中にどこの国の人、とか何族とか多くの民族が行き交っている様子だ。(日本にいれば二つ以上は多民族に思える。)

主役のマリカはかなりでっぷりとした体型で、お腹の辺りの肉はお腹なのか、胸なのか?どのように砂漠の中のカフェを経営しているのか?などは映画の中では語られることはない。
カフェといってもメニューはオムレツ、パン、お茶、水、タバコくらいしか扱っていない。
彼女は何を食べて生きているのか、寝ているところ、買い物、シャワーなど生活感が不思議とない。オムレツも客が食べているところが映されるが、皿自体は見えそうで見えない。
自然な姿を撮るのと、撮られたものに生活感が出るのとはどう違うのだろうか。
どこまでがドキュメンタリーなのだろうか。

客が来る時以外は日がな一日ドアのない(?)入り口から砂の舞う外を眺めているだけなのか。動くのも大義そうな身体であるが買い物はどうしているのか。〇〇まで行く、と街の名前が出てきたが、それはどのくらいの距離なのか。
疑問ばかりが出てくるが、この映画でその答えが語られることはない。
ほとんど動かないカメラに映るものだけを観客は見ている、だけ。

彼女はお客に合わせて話をするが、好き嫌いもあり「お茶はもうない、卵もないよ」と追っ払ってしまうこともある。
言葉が通じず、スタッフに通訳してもらうところも映っていたりする。
一番楽しいのがフランス語を話す伊達男とのやりとりだ。壁の小窓を使って、刑務所で面会する母と息子という寸劇を即興でやるところ。マリカはノリノリで母親役を演じている。
嘘をついてくる客には嘘の身の上話で応じる。「皆嘘をつくが、嘘のつき方を知らない」多くの行きずりの旅人たちと接してきたマリカの処世の言だ。

「劇映画はフレームの中に世界をつくり、ドキュメンタリーはフレームでこの世界を切り取るものだ」この映画の監督ハッセン・フェルハーニが引用していた言葉だ。
フレームの中の物語は、その映画が終わればもうリストに並べられた作品の一つ。
一方マリカは今日をどう過ごしただろう。映画の終わりの方で店をたたむ成り行きが語られている。
もしかすると彼女は砂漠から出て新しいドキュメンタリーを生きているかもしれない。


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