今想う

今日は暖かいけれどものすごい風が吹いていて、先ほどからはそこに雨さえ混じってきた。雲は厚みを増し、空は急激に暗くなってくる。予報では夕方からは風の方向が変わって真冬の寒さに戻るという。
でも今、私は自分の部屋にいて窓ガラスに風が当たる音を聞きながら本を読んでいる。部屋の真ん中にはストーブもあるし灯油もまだたっぷりある。寒くなったら点けるだけだ。
守られている感、がある。雨風をしのげる状況にいつも感謝の心を持つべきだが、実際にはこういう天候がその感覚をふと思い起こさせてくれる。ふっ、と。

ある日の夕方、私は神奈川県のZ市の市役所の中のホールに大勢の人たちと一緒にいた。その市役所に用があったわけではなかったが、その日はそこで一夜を明かすことになったのだ。その大勢の人たちと一緒に。
10年前、3月11日のことだ。
その日Z市市役所は「避難所」という場になったのだった。
その時Z市の一帯は停電していたのだが、その「避難所」は自家発電装置であかりが灯り、ありがたいことにぼんやりと暖房も入っていたのだ。職員の人たちはこんな時のために前もって訓練でもしていたのだろうか、手際良くほんのり温かいパック詰めの炊き込みご飯を配ってくれて、銀色の袋に入った毛布もまた配られた。その時は銀色の袋は回収されていたが、今ではわかる、それも防寒のために床に敷いて使えるものだったのだろうと。
不慣れな私たちは、毛布を配られると寝る時間でもないのになぜか横になる人が多かった。子供達は不意に行われた林間学校か何かのように、顔見知りの友達と、バラバラと敷かれた毛布の合間を縫うようにして走り回っていた。中には家族と連絡が取れずに不安な子もいただろうが、その場に居合わせた大人達もそうだったと思うが大勢の人と一緒にいる事で不安は和らいだ、と思う。「ここは3メートルの波があればここまで流れ込んで来るって」と地元の人たちは話していたが、この建物の上の階に登ったなら大丈夫だろうと皆思っていたはずだ。何階建ての建物であるか、よそ者の自分はピンとこなかったが、そこは圧倒的に守られている感、はあったのだ。
夜9時頃だったと思うが灯りが一段暗く落とされた。
時間が経つにつれ「〇〇地区停電復旧しました」「〇〇小学校〇〇君、ご家族が迎えにきました」などのアナウンスが入りホールからぽつりぽつり人が出ていく。
居残りの組の寂しさを覚えつつ、子供が父親の元に走っていくのは(よかったよかった)と見送った。
私は横になってはみたものの眠るつもりもなく明日の予定がどうなったか、無駄な事を思い浮かべて時間をやり過ごした。
1.5メートル先に毛布を敷いたおじさんは、普段から家外での寝起きに慣れている人らしく、持ち物で自分のテリトリーを主張したのち、いつものことのように寝ていた。

私は朝の6時にZ市市役所に一礼して退出し、最寄りの駅に向かった。
歩きながら(避難所でデニムのパンツはないな)という感想がポッと出てきた。
(ステンレスボトルにハーブティーを入れて持ち歩いていたのはよかったな。だいぶぬるくなったけど慣れた味でほっとできた)というのも。
いつどこで避難所で過ごすことになるのか、というかいつでもどこででも避難所で過ごす、それもどれくらいの時間かもわからないまま、そういう事態になる。ってことをその時思った。
2020年からのコロナ禍中、私はこの事を強く思い起こしていて、その当時より身近な考えになっている。避難所でどう生きるか、って。今は自分の暖かい部屋の中だけど。

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