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『サイテーの飲み会がしたい』

手に入りますか。手に入りません。光りかがやくものばかり見つめているせいで、すでに手に入れたものたちにはライトが当たらず、靴の下でへこんで死んでいるのです。

とおくのお星さまに向かって手を伸ばしても絶対手に入らないことは知っているのに、どうして私は欲しがるのでしょう。美しい男。長いまつ毛。アンニュイで挑発的な瞳。ほんのり笑みの浮かぶ愛らしい口元。自然で可憐な愛嬌。人を疑わないこころ。

とどきそうもないのにそれでも手を伸ばす、このかなしい人間の性(さが)を食い止められないのならやはり、生きているあいだは手を伸ばしつづけるべきなのかもしれません。であるからこそいま、私は手を伸ばします、きらきらの星たちは今となってはもう目の前にありますアれ、なんかこれ普通にとどきそうじゃないかし、ら、あらとどいちゃいましたわ、あらあらやだよく見たら、お・ゲ・ロじゃないですのこれ。わたくしの。
あらあらあら。


ぬめり、とする右手の感触と、両隣の個室からユニゾンで鳴りひびく音姫の流水音でやっと私は正気に返った。足が冷たくてよく見ると私は裸足で、よくよく見ると黒のパンプスは両方ぬげて個室内に散乱していた。騒然、とはしてないから、どうやら私の泣き声も嗚咽も音姫様に“ある程度”かき消していただいたようだった。いつのまにか致すときは鳴らすのがマナーになった音姫、おそらく日本の女子トイレでのみ起きている不思議な現象。子どもの頃は純粋に楽しくて個室に音姫がついてると大喜びで押したものだけれど、いまや音姫は自他共にマナー化して、鳴らさないとむしろ周りに聞かせたい変態かと思われるくらいで、ちっともおもしろくないから、私はトイレでどいつもこいつも音姫を使っているのをいいことに自分だけボタンを押さず彼女たちの音姫の音にまぎれて思いきり無修正で致すのを、排泄時の密かな楽しみにしていた。自分が鳴らさないことによって両隣からかすかに聞こえるシャーーの音もベリベリィベリィの音も、グロテスクでなんだかくせになる。

「大」のボタンを2回押して、身なりを整えて個室を出た。自分の吐瀉物で汚されてしまった手にたっぷり泡を乗せ、手のひらが削れるくらいごしごし洗った。洗い流したらほんとうに指先の薄皮が何枚かめくれておりシンク穴に吸われてゆく生皮たちを見て自傷行為みたいだなあと思った。もうそろ冬だもんなああ。

ふと、顔を上げると鏡が見えて鏡の中の人が見えて、そこでやっと消えたくなった。



女の世界というのは複雑で、トイレから帰ってきた私の席からはもちろん、菜箸もアルコールのピッチャーも奪い去られている。

みんな、顔がりんごみたいに赤い。吉野さんと近藤くんはネクタイを緩めてカッターシャツのボタンも2つ3つ外しており、私の居ない15分ほどの間にずいぶん楽しく飲まれたようですね。女2人はいつのまにか髪を後ろで結っている、ヨウコは菜箸、ミキはピッチャーをそれぞれおしぼり横にきっちりキープして、男2人の話に大げさな身ぶりを添えながらニコニコ合槌を打っている。みんな戻ってきた私に気づかないふりをしている。みんな、声がおおきい。

大皿のよそり分けもお酒注ぎもしない、手持ちぶさたな女の子が次に期待されるのは卓をいい感じに盛り上げることだけれど、面白い身の上話も飲みのゲームも始められないキャラクターの私にそんな役目が担えるはずもなく、そういうことをわかってくれているはずのヨウコとミキになんだか裏切られたみたいな気持ちだけが鬱積していく、私を私はどんどんいやになる。

トイレに篭った時間で通路側の席に移動したらしいベロベロの吉野さんに、「すみません入らせてください」と声を掛けたい。でも吉野さんのエピソードトーク──この前のプロジェクトで仲良くなった総務課の新人の女の子がかわいすぎる話──は佳境であまりにも熱が入っていて、私がどういうテンションで切り込んでも火を消してしまう。あー、腕まくりし始めた。吉野さんがゾーンに入ったらすでに終わりなのだ。ノブナガさま私悪くないですよね私は2時間強この大して楽しくもないメンツの地獄飲みによく耐えましたえらいので褒めてつかわしてください。どうかつかぁして。どーかどーか。

どうしようもなくなって、刀剣を携えた2次元世界のイケボ英雄様に心をもたげて立ち尽くしていたら、とつぜん、近藤くんが、つくえをぶっ叩いて、起立をした。

「すんませんホンッットすんません、トイレ行く、行くん、のでっ、ので!空けてくれるっすか!?」

卓に着席しているみんなが、ちょっとの時間固まった。沈黙、をほどいたのはヨウコで、彼女が堪え切れず吹き出したのを皮切りに全員が、いっきに破顔して大爆笑した。全くろれつが回っていない。ぜったい飲みしゅぎだよこんどぉーとゲラっているミキは胸元をはだけて多分この中で1番飲み過ぎているし、おい待て今日だけは逃さんぞーと近藤くんの腕をふらふらひっ掴んだ吉野さんは顔がもうりんご超えてドラゴンフルーツみたいな赤さだし、そーた今日調子いいねーと眠たげに頬杖つきながらつぶやくヨウコはいま近藤くんのことそーたって言った。

この“できあがった”輪にぬるっと入っていく仕方なんてウィキペディアもチャットじーぴーてぃーもきっと教えてはくれないのでしょう、さて邪魔者はお金だけ置いてもっともらしい理由をこしらえてトンズラいたしましょうかしら、なんて考えているとすれ違いざまに肩をチョンチョンつつかれた。

「見苦しくてごめんね。遠藤さん、席入れなくて気まずそうだったからおれ、潰れてるフリしたんだよ。うまかったでしょ。なんかバレなさそうだしよかったら、2人でどっか抜け出さないか」

近藤くんは口を開けずににやっと笑った。え何それちょっとかっこいいかも。でもそういうのって口に出さないでいてくれたほうがもっとかっこよかったかも。肩に指、置きっぱなのも少しだけこわいかも。っていや、は?最低かよ私。死ねよ。何考えてんだ。助けてくれたひとに対して私。こんなんだから私──

うん、と返した。



この年までいやいや守ってきたものがある。貞操だ。同い年の女の人がもう赤ちゃんを産んで自分以外のやわらかい生き物を守っているときに、こんなくだらないものを守らなければならない自分がいやにはなるが、かといって、いまさらどうでもいい相手と済ませたくはない。処女を捨てたいからって好きでもない人としたら、たぶん終わってすぐは普通だけど、だんだん取り返しがつかないほど後悔してぶつぶつひとりごとを言うようになり、自分の貞操を探して毎夜、上野公園の不忍池の辺りを這いずりまわる人生になるだろう。処女とは私にとって、新品だった傘についたまま、手垢がついてぼろぼろに破れかけてきたのにまだついてる持ち手のビニールの覆いみたいなもので、引っ剥がしたくてしょうがないけれど、なんか必要な気がしてつけたままにしてある。自然に剥がれたらしょうがないけれど、無理やり取っぱらうのは忍びない。好きな人がやさしくぺりぺりはがしてくれるのなら、もう本当に文句なしなのだけれど。

「あの飲み会セッティングしたの、実はおれなんだ」

週末の2回目のデートでそーたくんがそう白状したとき、大音響でフロアに鳴り響くテクノがうるさくて、私は彼がなんて言ったのかよく聞こえなかった。

「え?なんて?」

「だから、あの飲み会の発起人は、本当はおれだったって話。遠藤さんと知り合うきっかけがなにか欲しくて、でも下心がばれたくないから幹事を同期の陽子にたのんで、交流会をひらいてもらった」

そーたくんは声を張り上げる。

「なあ、ここうるさいからもう出て、どこか喫茶店でも行かないか」

おまえの場所選び、完全に間違ってるよという感じにそーたくんが苦笑する。いま居心地が悪いのを私のせいにしようとしているな。でも違う、そーたくんは話したいかもしれないけれど私は音楽を聴いて、気分が乗ってきたら踊りたいからクラブを選んだわけで、だから間違ってない。

おたくのくせにテクノが好きな私は、通勤電車でヘッドホンで聴くのだけれど、こんなはじけられない場所じゃなくいつか、いつかレーザービームとスモークのなか大音響で聴いてみたくて、でも誰も誘ってくれそうにないから、そーたくんにまたどこかへ行こうと誘われたとき池袋のクラブを指定した。夜9時の待ち合わせでそーたくんは会社帰りのスーツ姿のままで現れて、私は、まだ彼の首をしめているネクタイと暑苦しいカッターシャツを見て憂鬱になった。着替えてくる時間はあったはずなのにあえて出勤姿のままで来たのは、おれは社会人だというアピールだろうか。遊びのときまでスーツなんか着てこられたら、こっちまでくつろげない。

そーたくんはドリンク券をビールと交換するとダンスフロアには目もくれず、私をテーブル席へ連れていき、普通のレストランにいるみたいに自分のことについて話しはじめた。わりと良い大学を出たこと、仕事を楽しんでやってること、小学生のころからサッカーをしていて高校のときは県大会にまで出場したこと。会話の端々に非常にさりげなく、彼自身のボジティブな情報を入れ込んでくる。まるでトイレや洗面台に小さな黄色い花のポプリをそっと置くかのように。私にこれだけは言っておかなきゃならないという項目を決めてあるみたいだ。なんなんだ。私が深く考えこんだあと1つ大きくうなずいて立ち上がって、分かった君にまかせたよ頼むな近藤くん、と彼の肩をたたくとでも思っているのだろうか。いっきにすべて知ってしまえばもう興味がなくなって次から会いたくなくなるかもしれないとは思わないのだろうか。

「最近さ、運動不足を解消するつもりで会社終わったあと筋トレしてたら、高校のときの大腿筋が復活しちゃったみたいで、いままで穿いてたスーツの太ももの部分がきつくなって入らないんだよな。買いなおさなきゃいけねえ、めんどくせ」

「すごく発達してるんだね、太ももの筋肉」

「まあ最近使ってなかったからそれほどでもないけどね。おれ的にはまあまあかな」

自分で自慢をふったくせに謙遜されると、頼んでもいないのにあざやかな手つきで手品を披露された気分になる。で、隠された私のコインはどこへいったの?

「地味にワークアウトするだけで筋肉を結構維持できるって気づいてからは、毎日軽くやってる。腹筋千回、腿上げ千回、あとほかにも疲れない程度にって感じかな」

「会社終わってからも身体を動かすなんて疲れそうだけどね」

「そうでもないよ。意外と会社だと動いてないもんだ、営業だと外回りとか出張とか身体を動かす業務はけっこうあるけれど、それで疲れたりなんかしない。もしかして遠藤さん、家に帰ったら食べて寝るだけじやない?」

「そうだね、テレビ見てお風呂入って」

「だめだよそれじゃ、身体のためにもう1つ運動を加えてあげないと。散歩とかストレッチでもいいから、寝るまえに筋肉を伸ばした方がいい。特に経理は外回りもなくて座ってるだけなんだから。休みの日はなにしてる?」

「家にいたり、買い物に行ったり」

フロアから大歓声が聞こえた。人気のDJが登場したらしい。そういえば今日は芸能人がDJをやるって入り口にポスターが貼ってあった。見たい、見たい。腰を浮かしそうになるが、そーたくんは歓声が上がったときうるさそうに顔をしかめただけで話を続ける。

「せめてジムとか行こう。25過ぎたら筋肉が衰えてくるから、30になるまえにある程度鍛えておいた方が身体のためだ」

だめ出しされたうえかつアドバイスをされると、頼んでもいないのに目の前でシルクハットから鳩を出された気分になる。で、この鳩は私が育てなきゃならないの?

「じゃ、あんまり疲れないんだね、鍛えてるから」

「いや、疲れるのは身体動かすときじゃなくて頭使うときかな。このまえのプロジェクトとか動く金が億単位だったから神経使ったー。あのときはさすがに疲れた、おれが担当だったから」

「まだ若いのにそんな大きなプロジェクトを任せられるなんて、優秀なんだね」

「ちがうよ、優秀だからじゃない。労力が必要で責任も大きいプロジェクトだから上が嫌がって、よく動くイキのいい若手に押しつけただけ。でも今回うまくいったから社内でおれの評価は上がるかもしれないな。そしたらラッキーだけど。にしても帰ったら玄関で倒れてそのまま朝まで眠るほど疲れてたな、あのころ。やりきったって感じ」

望みどおりの相槌を返してあげたのに即座に打ち消してくる人、あと企画のことをかっこつけてプロジェクトと呼ぶ人を私は嫌いです。

「努力のかいあって成功したんだ。よかったね」

「まあな。成功すると2億が入ってくるけれど、失敗すると今までの投資が全部無駄になるから、リーダーを任されていたおれは緊張したよ」

億の話をするのは億稼ぐようになってからにして下さい!いくら大きな単位のお金の仕事をしていたとしても、あなたの給料は変わらないんですよね。

「遠藤さんもなにか話して。どんな人なのかおれに教えて」

「遠藤あやの、25歳、日本人、B型、株式会社マルサメに勤めていて、顔に“はたけ”ができやすい。髪の毛は染めたことなし、アトピー体質でもあり首は年中色素沈着してる。彼氏なし、貯金なし、1ヶ月の家賃は7万5000円。嫌いなのはひま人で好きなのはホワイトシチュー、最近はまってるのはウィキペディアで絶滅した動物について調べることです」

「ねえさらっと言ったけど、本当に彼氏いないの」

「いまのところは」

「へえ。いつから」

「かなり前から」

「ふうん。おれは1年前からいない。大学から7年間付き合ってきた年上の彼女と別れてさ」

彼はまた自分について話し始めたけれど、私は昨日ウィキペディアで調べたばかりの絶滅した動物について語りたかった。いっぱい話したいから自己紹介の最後に持ってきたのにぜんぜん食いついてこないなんてさびしい。ウィキには絶滅した動物の一覧があってクリックするとどんな動物がどのような経緯で絶滅していったか分かるのだけれど、名前のずらりと並んだそのリストを見ていると、人間のせいでこの種の動物は地球からいなくなってしまったんだ、とおごそかな気持ちになる。たとえばドードー鳥。あの不思議の国のアリスに出てくる、羽が退化して飛べない奇異な黄色と黒のくちばしを持つ太った大きな鳥は、モーリシャス島でしか生存を確認されていなかったのにオランダ人が見世物として自国へ持って帰ってしまったせいで絶滅した。

「7年付き合って別れた彼女なんだけどさ。すごく尽くしてくれるやつだったんだけど、結婚結婚言われるようになってからはなにやってくれても、こいつ結婚したいから尽くしてくれるのかな、って考えるようになって、さめたね。決定的だったのはおれの返事が待てなくておれの両親に先に話をつけに行ったとき。恋愛の果てに結婚があるのに、結婚を目的にされてそこから夫婦生活が始まるのはおれには合わないなってそのとき思った。時間が経つにつれ彼女への想いも姉とか、家族に対するようなものに変わってたし、潮時かなと思って別れた」

姉だと思えるなら、じゃあ家族になってあげてよ。合掌。7年付き合ってこの言い草、寝てるとき首や肩が重くない?彼女に生霊くらい飛ばされても不思議はない。そーたくんの元カノ、顔は知りませんがあなたのくやしさ私はよくわかります。長く付き合ったあとは結婚したいなんて女にとっては自然な欲求なのに、打算的だととられるなんて絶望ですよね。

「それでさ、あいつおれと別れたあとに、3ヶ月付き合っただけのやつと結婚したらしい」当時よっぽどショックだったのか、そーたくんは過去を思い出しただけでつらそうに顔をしかめた。「やっぱりおれの思ってたとおり、あいつ結婚したいだけだったみたい。じゃあおれと付き合ってたのはなんだったんだよって、ちょっと傷ついたよ」

「あせってる女の人っていやだよね。何歳になったとしても愛は愛のままであってほしいよね」

「いい子ではあったんだけどな」

そーたくんは、私の棒読みのせりふにも気づかず、誰が得するわけでもないフォローを入れると立ち上がった。

「そろそろ出よ、もういいだろ。おれもうちょっと静かなところで遠藤さんと話したい」

喫茶店はもう閉まっていたし開いている店はうるさい居酒屋くらいで、私たちは熱帯夜の池袋の街をさまよい、私のハイヒールを履いた足のかかとがストラップとこすれてずるむけになった頃、カラオケ747の店員が近づいてきて安くしますよと言ってきたので、まあここでいいんじゃないとそーたくんが言い私たちは中に入った。

個室に入るとそーたくんはちっとも歌おうとせずに私と向かい合い、あらたまった口調で話しかけてきた。

「いきなりおれが電話してきたり、2人きりで会おうって言ってきたから、遠藤さんは驚いたよね」

べつに驚かなかったけれどうなずくと、そーたくんは照れくさそうに、でも満足そうに、そうだよなあとうなずいた。

「驚かせてごめん。でも経理課には経費精算のときぐらいしか接触できないし、社内で話しかけるのも気が引けてさ。突然にならざるを得なかった。でも今日来てくれてうれしい」

aikoが歌いたい。ハニワが歌いたい。andymoriとかカネコアヤノとかを歌いたい。でもこのひとはカブトムシと可愛くてごめんしか歌えないだろう。aikoはワンチャン、ボーイフレンドくらいまでは知ってるかもだけど、ってかこの年になるとボーイフレンドって呼称やばいくらい似つかわしくないな、それにカネコアヤノなんて聴いたこともねえんだろうなあ。まあそっちのが正常で健康なんですけどねええ。


カラオケ屋を出たあとも牛丼屋と一晩じゅうそーたくんに連れ回されて、そのあいだ彼はずっとなにか言いたそうにしていて、死ぬほどもどかしいまま夜が明けてドトールの朝7時に、コーヒーくさい息でやっと告白された。

「まだ2回しか会ってないのに、いきなりこんなこと言い出してびっくりさせるかもしれないけれど、おれの気持ちは固まってるから今言うね。遠藤さん、よかったら、おれと付き合ってください」

今日は生まれて初めて男性から告白される気配を感じて私も正直すごくこの瞬間を楽しみにしていた。だから文句も言わず夜じゅう付き合ったわけだけれど、さすがにドトールに入った時点で疲れきっていて、言われたときはうれしいというよりも、やっと終わったという気持ちが先に来た。眠気覚ましに飲んだ徹夜明けのコーヒーが黒くこげて胃にはりついてる。

「ありがとう。よく考えてみます」

「もちろん。ゆっくり考えて」

やっと言えてほっとしたのか、そーたくんも急に疲れの浮かんだ、でも安心した顔になって目をとじて、ソファの背にしずみこんだ。

私のほうがしずみこんだ溝は、それはたとえば初めて告白された場所が朝のドトールで、出勤前のサラリーマンに囲まれていたことが気に入らないとか、告白に“好き”という言葉が入っていなかったこととか、そういうときにおちいる種類の、深くてかなしい溝でした。



「なんか上の空だね」

帰りのタクシーで隣に座ったそーたくんが距離をつめてきた。そーたくんはスープ系の体臭、飛行機で出される油の浮いたコンソメスープと同じにおいがする。つねにだしが効いている。前世がおでんの具だったのかもしれない。お腹が空いているときにはいいかもしれないけれど、少なくとも抱きしめられたいとは思えない。相手の体臭が好きになれるかなれないかは遺伝子レベルの相性の問題で、自分と潰伝子のかけ雛れた相手との方が丈夫な子どもが生まれるという。子どもうんぬんは差しおいても、そーたくんは多分体臭の強い方ではないのに私が彼のかすかな匂いさえ苦手というのは、やはり相性の悪い証拠だろうか。遺伝子が近いほど、たとえば家族などの匂いほどイヤになるそうだけれど、とすると私とそーたくんの遺伝子の型は近いのだろうか。そう思えばそうな気もする。よくないところの遺伝子が近しいような。

「今日ずっと別のこと考えてただろ。なにかあったの」

「ううん」

「あのさ。そろそろ告白の返事聞かせてよ。あれからもうだいぶ経っただろ」

「ごめんなさい、まだ決心がつかなくて」

そーたくんは思わず、というふうにフッと笑ってタクシーの座席の背に上半身を沈めた。

「どうしたの」

「いや、ほれた者負けだな、と思って」

なんのこっちゃ。私が有利で自分は不利ってこと?そこらへん歩いていた女を勝手に好きになり勝手に追いかけてるだけなのに、負けとか言っちゃって被害者づら。私が振り回してるみたいに聞こえるナイス責任転嫁な言葉だ。空のかごを持ってつきまとい、花を放りこんでもらえないと分かると、かご持ってた者負けだな、とつぶやくのに似ている。

「おれは嘘つくのがきらいだから正直に言うけど、遠藤さんがおれのことどう思ってるかだいたい分かるんだ。付き合うほどは好きになれないって思ってるんだろ。それならいっそもう、早く教えてほしい。これがおれの正直な気持ち」

正直なのは良いこと、でもまったく魅力がない。恋をしたとたん、正直になって、魅力が消えうせてる。他人ごととはいえ、気の毒になるくらい損な体質です。本人は正直のつもりでも、愛情深い人というより、ただの欲深い人に見える。だって好きな人には正直でいたいという気持ちも、ただの欲望の1つだもの。

そーたくんがもし完全に私に無関心になればどれだけ素敵だろう。そーたくんがタクシーの座席の隅っこに座り、私の存在さえ忘れて窓の外を眺めながら物思いにふけっていれば、私は彼の横顔をつくづくと眺められるのに。私のことを好きだ好きだと言っていた彼が急に冷たくなったら、せつなくて好きになってしまうかもしれない。押して引く、などというテクニックではなく、本気で私に愛想をつかしてほしい。会社で会って私が話しかけても無関心な瞳で普通に言葉を返すだけになれば、私はつめたい大理石のうえに寝そべり、石の表面に自分の体温がほんのりと移っていくようにそーたくんのことを好きになるかもしれない。いまだと私はただでさえ暑苦しいそーたくんに、なけなしの熱までうばわれて、心のなかで彼につっこみぱなしだ。かわいたつめたいさらさらした土壌でしか、そーたくんへの愛情が育つチャンスはないのに。

そーたくんが若干鼻息を荒くしながら私の肩に頭をもたせかけた。肩から半分はみ出ているそーたくんの頭のてっぺんの直毛が私の首につきささる。なんで私が自分よりもでかい男の人に肩を貸さなきゃいけないんだ、逆でしょ。そーたくんは人差し指で私の脇腹をつっついた。

「ちょっとやめてよ。酔っばらいすぎ、つつかないで」

「なあどうなんだよ、返事くれよ」

甘えた声で言いながら今度は手をくちばしの形にしてわき腹をちょこちょこつまんでくる。いちいちじゃれ方がうっとうしい。男にかわいこぶられても困惑するだけ。せめてタクシーの運転手さんがいないところにして。

無理やり引きはがすと本格的にすねてしまい、自分の席にもどると窓の外を見つめたままなにもしゃべらなくなった。

今日は会社帰りに池袋を二人でぶらついたけれど、気がついたら乙女ロード周辺を歩いていて、私は現役のおたくだったときに聖地だったその場所が懐かしくてアニメイトに入りたくなった。でもそーたくんは入ったとたんそわそわして、私が目当てのマンガの棚にたどり着くころには、もう出口のすぐ近くの壁に同化していた。クラブのときもそうだったけれど、彼は自分の興味のない場所に行くと途端に帰りたそうにする。自分の興味のあるものに興味を持ってもらったら嬉しい人心というものを、まったく理解しない。

私はコミックの置いてある一階からキャラクターグッズの置いてある六階までなめ回すように見て回りたかった。一人でいるときに見ろという話だけれど、とくに急いでいるわけでもないときくらい、ちょっと付き合ってくれてもいいじゃない。

壁に貼ってある最新のアニメのポスターをながめて、最近のアニメはなっとらんと年寄りくさく憤った。ボスターといえば作中とは違う、さまざまな場所に貼られる可能性をはらんだ公の場、なのに最近のキャラクターは、たとえば制服の女の子が強気そうな表情で仁王立ちしているのにスカートがまくれ上がっていたりする。集合写真でいっぱいのキャラクターが一斉に描かれているとき、照れてほっぺたが真っ赤になってる子や、汗をぴゅっと飛び出させてあせっている子や、上の空でぼうっとしている子なんかがいる。私の好きだったころのアニメのキャラクターは本編でこそいろんな表情を見せていたけれど、扉絵やポスターではきりっとした表情を見せて、そんな複雑そうな内面は見せてなかった。公的な場(ポスター)では服装も乱れず真顔か微笑み程度は作れるくらいの、それくらいの知性はあるキャラクターたちが出てくるアニメが見たい。

「意外だな。ああいうの好きなの。おれもガキのころジャンプは読んでたけど」

苦笑するそーたくんがこのまえ私を連れて行ったデート先は、息も白い極寒の渓谷での魚釣りで、アウトドア派と言えば聞こえはいいけれど、ほとんど修行だった。1匹も釣れなくても私は半日がまんして、お手洗いだって3回も、草がおしりにちくちく当たる大自然のなかで済ましたのに、そーたくんは私のアニメイトを10分も我慢してくれない。

自分が告白さえすれば、実るにしてもフラれるにしてもなんらかの形で区切りがつくだろうと思っていたそーたくんは、私の返事を男らしくいつまでも待つと言ったものの、実際に待たされるといらいらしてきたみたいだ。

「私、ここらへんで降りる」

「まだ話は終わってないぞ」

料金を私が払おうとするとそーたくんが先にお札を運転手さんにつき出した。

「1メーターで万札なんて、おつり出ないよ。もうちょっと細かいの無いの、お客さん」

「無いんだからしかたないだろ。客商売なんだから、そっちが用意しておけよ」

運転手さんにろれつの回らない怒り声を返すそーたくんをとりあえず車内から出して私が払った。そーたくんは舌打ちしながらタクシーを出た。

「私もう帰るね」

「ここどこだよ。おれはどうしたらいいわけ」

ふてくされた顔をしてうちの近所のタクシーなんて通りそうもない住宅街を見回す。自分の家はまだ先なのに、私についてきてしまったそーたくんは帰れなくなった。

「うちで休んでいく?」

「いい。入れたくないだろ」

そーたくんは酔うと目がすわり苛立ちがあらわになって、こっちがしらふのまま彼に付き合うとめんどくさいし少しこわい。

「宙ぶらりんのまま返事を待たされるのがつらいんだよ。だめならだめだってはっきり言ってくれた方がまだマシだ」

そーたくんは顔をゆがめて切なそうな表情をしていて、後ろめたさがつのった。返事を急かすと悪い結果になるかもしれない、でも私がなにを考えているのか知りたい。その狭間で身動きできなくて苦しんでいるのだ。彼がこんなに正直にぶつかってくれているのに、私は彼に本音のはしっこさえ喋らずにいて、心をちっとも開いていない。そーたくんの不安は当たっている。

私がなにも言わないのが分かるとそーたくんはあやしい足取りのまま、タクシーが走っていった方の路地に向かって歩き出した。



「いいと思うけどな。付き合っちゃえば。あの人よく働くし、誠実そうだし。なによりあやののことがすごく好きなところがいいじゃない」

お弁当を食べ終わったヨウコは休憩室の畳のうえで正座をくずしながら言った。同僚のヨウコは、サニーレタスとかやわらかい仔羊肉とか星のかけらしか食べてこなかったみたいな、色白で細くしなやかな身体つきで、まつ毛にふちどられた大きな瞳でゆっくりまばたきをする。地味な経理課では目立つ存在で、課では唯一の同期である私とは仲良くしてくれるから、私は誇らしかった。

「うん、いい人なんだけどね。でもやっぱり結婚は1番好きな人としたいから」

もしそーたくんと結婚すれば、そこから先の人生なんか、どうでもよくなる。どんな顔の子が生まれようが、なんで名前にしようかその子が将来なにになるかに興味が持てない。園子と名付ければ園子を育て、裕太と名付ければ裕太を育てる。本当に好きな人と結婚すると、彼が離れていかないか心配で、きっと毎日落ち着かない。好きな人と結婚したいけれど、好きすぎる人とは結婚しない方がいい、なんてこともありうるのだろうか。

「ねえヨウコ、いい返事が出せそうにないのにデートし続けるって、キープみたいでいやらしいと思う?」

「いいんじゃない、大切なことなんだしゆっくり決めれば。あせることないよ。あんた顔のかたちかわいいし、それが許されるくらいにはいい女だよ」

「ありがとう、ヨウコにそう言ってもらえるとなんか安心する」

ヨウコは笑い、やわらかそうな赤い下の間から乳白色の飴が見えた。

「彼、初めての相手にもちょうどいいんじゃないの」ヨウコは声をひそめた。「誠実に、やさしくしてくれそうだし」

「もし“する”ことになったらアドバイスちょうだい。あいつには経験ないってバレたくない」

「アドバイス?私が?」ヨウコは、クラスでいちばん可愛い子みたいな仕方でふふふ、と笑う。

「そろそろ電気消すよー」

私たちから離れたところでお弁当を食べ、そのあとコンパクトを開いて化粧直ししていた先輩の女性社員が私たちに向かって声を飛ばす。

私とヨウコは近くの窓のカーテンを閉めると電気が消えて薄暗くなった部屋で目を閉じた。昼休みのご飯のあとは、午後の仕事のために女性社員が10人足らずで集まって、休憩室で20分ほど眠る。制服のまま畳に髪を広げて眠りに落ちていく私たちはスイッチを切った眠り人形みたいだ。

隣から寝息が聞こえてきて、うす暗がりで眠っているヨウコを見つめた。彼女の寝顔は、私の寝顔みたいに、熟睡するとあったまったプリンみたいに横に広がって目鼻立ちがのっぺり見えるようなこともなく利発そうだ。寝ている時でさえ完成されているなんてすごい。私は眠りが深くなるとぽっかりと口が開いていびきをかき、自分のいびきのすさまじさで目が覚めたりもするけれど、ヨウコがいびきをかいているのなんて聞いたこともないし、鼻がつまってぴいぴい鳴っていることもない。いつもすうすうしている。美人は顔や身体というパーツだけでなく、また笑顔やしぐさだけでもなく本人が無意識になる眠りという部分でも美を保っている。携帯を握りしめている彼女の手指の爪には、上品な白とベージュのフレンチネイルが施されて小粒のラインストーンが光っている。彼女くらい全体的にハイレベルで整っていれば、私も他人の悪いところばかりを探すようにはならなかったかもしれない。

20分経つとそれぞれの手の内で携帯電話のアラームのバイブがふるえて、私たちは起き上がり、無言で身なりを整えると、午後の仕事のために休憩室から這い出てゆく。

すぐに、キーボードのカタカタという音しか聞こえなくなった。各部署からのいい加減な精算書や営業からの伝票をチェックして電卓で数字を確認しながらデータをエクセルに打ち込む経理の仕事をしているとき、私を支えているのは怒りと軽蔑だ。足し算さえまともにできない社員たちへの軽蔑、さばききれないほど膨大な数字に対する怒り。間違った計算を正して、でたらめに並んでいる数字を前ならえで整列させて、帳尻を合わせて上司に提出し判を押してもらうと、本棚にマンガの単行本をちゃんと巻数順に並べたときみたいにすっとする。経理に配属されたなら計算が得意なんでしょとよく言われるけれど、私はもともとは文系で、電卓がなければ2けたの暗算だってできない。



「おかえり」

「おう」

ため息をついて玄関に入った途端ネクタイをゆるめる。私が彼の家で待っているのが当たり前みたいな態度をわざと取っていておかしい。私も彼に合わせて妻みたいな態度を作ってみる。

「休日出勧、おつかれさま。コロッケ作ったけど食べる?」

「あ〜いいな、ありがとう。でも昼もコロッケ定食だったな」

調子乗りすぎ。せっかく作ったんだからそこは喜ぶべきでしょ。昼もコロッケだったこととかわざわざ言わなくてもいいのに、本当に思ったことをすぐ口に出す男だ。

「昼もコロッケだったの?かぶっちゃったね、ごめんね」

「うん、でもいいよ。おれコロッケ好きだから」

そーたくんがわざと高びしゃに答えて廊下に立っている私の横をすり抜けてリビングに入ろうとするから、後ろから頭をこづくと、うそ、ごめん、やってみたかっただけ、と彼は笑顔を見せた。

タクシーを降りてけんか別れしたあと、しばらく音信不通になっていたけれど、日が経つとそーたくんはなにごとも無かったかのようにメールしてきて、また会うことになり、日曜日に彼の家へ行くことになった。でも直前に彼が休日出勤が決まって、合鍵をもらった私は夜、彼の家で帰りを待つことになった。

このまえはごめん。あせっちゃって。

そーたくんがさらっと謝りの言葉を口にしたとき、まえに感じた後ろめたさがよみがえってきて何も言えなかった。彼の言っていたことも正しかったのに謝るなんて、意外といさぎよい。ある意味彼はすごい、いい返事をもらうためにベストを尽くしている。私はベストを尽くしても欲しいものが手に入らなければ、きっとプライドを傷つけられて立ち直れなくなるから、ほとんどなにもせずにいつも欲しいものは見ているだけ。

そーたくんの部屋はものが少なくきちんと片付いている。おしゃれなインテリアは皆無で、では無機質な部屋かといえばそうではなくて、たとえるなら妻に先立たれて一人でなんでもできるようになったおじいちゃんの部屋、もしくは入所十年目の模範囚の部屋といった感じだ。洗濯物はきちんと畳んであり色あせた座布団が部屋の隅に四つ重ねてあり、壁に貼られたプロリーグのサッカーのカレンダーが唯一若者っぽかったけれど、そのカレンダーも日付の下にちゃんと用事が書かれて使いこまれていた。いつもそうしているのか、そーたくんはふすまを閉めることもなく畳の部屋でスーツを脱ぎ始め、トランクス一丁になると、箪笥から部屋着を出して着替えた。私がいることなんて忘れているかのような、黙々とした動作、放心した表情。洗面所へ向かう彼についていき、脱衣所の隅に置いてあった丸いすに座って、彼が顔を洗うのを見ていた。

「コロッケ放っておいても大丈夫なのか」

「うん、あとは揚げるだけ」

「ふうん」

彼が喜んでいる気配が彼の背中から伝わってくる。カーハートのTシャツを着た広い背中、お湯の勢いよく流れる音。最後に彼はボンプ式のソープを押して手を洗ったけれど、指の生皮を削り落とすような病的な洗い方ではなく、泡を洗い落とすためのざっとした洗い方だった。タオルを取って渡すとうれしそうな顔で受け取りすぐびしょぬれの顔をふいて、返してきた。かわいらしいなんて思わない、お礼ぐらい言ってよとむっとするだけだ。そーたくんは子どもっぽくて腹が立つ。でもなにをしたら喜ぶかがすぐ分かるから心やすい。私が家にいても自然にふるまうから、家族めいた気分にもなる。

「このコロッケうまいよ。昼食べたのよりよっぽどうまい。料理できるんだな」

「自炊してるから」

「えらいなあ、おれも一人暮らしだけど、ちゃんとメシを作ったのなんて数えるくらいだよ」

食卓につくと彼はコロッケを手づかみしそうな勢いで食べた。手料理を喜ばれると複雑な気分になる。まえにそーたくんが、経理の女の人はしっかりしていていいお嫁さんになりそうと言ったときと同じ気持ちだ。もし結婚したら料理係を任命されそうで気分が重くなる。専業主婦じゃなくて私だって働いているのに。でも彼はうれしそうな顔をしているし、べつに普通の味のコロッケをおいしいおいしいとたくさん食べてくれるしで、私だって男の人に元気良くご飯を残さず食べてもらいたいという理想をかなえてもらっている。私たちは本当に原始的な欲求でおたがいを結びつけている。

「あ、このタレント、おれきらいだ。チャンネル替えよ」

彼が嫌うテレビで毒舌を吐いている三十過ぎの女性芸人は、顔といい体型といい顎を突き出して話すようなしゃべり方といい、私にそっくりだった。

「私よくこの人に似てるって言われるよ」

そーたくんは、えっと言って私の顔と女性芸人の顔を見比べ、たしかに似ているという答えが出てびっくりした顔になった。

「でも遠藤さんとこの人は違うよ。こいつは言うことがひねくれてて意地悪そうだからキライなんだ」

そんなの、くるんでるかくるんでないかの違いだけで、考えてることは同じだよ。だから彼女の言うことに大勢の人が笑う。好きなタイプとか嫌いなタイプって多分けっこうあいまいなんだろうな。似たような人でもどこかがほんのちょっと違うだけで、心にひっかかる部位が違う。だって当たり前だけど、みんなそれぞれ違う人間だから。そーたくんだって本当に冷静につくづく私を眺めたら、なんでこんな女を好きになったんだろうと不思議に思うかもしれない。

結局そーたくんは最初の意志をつらぬき通してチャンネルを替え、コロッケをもぐもぐしながら警察24時の番組に釘付けになっている。

食べ終わったあと、湯を沸かしてから急須で2つの湯のみに、香ばしい香りの玄米入りの緑茶を注いだ。

「お、気が利くな」

ソフアに座ってテレビを見て笑っていた彼が、うれしそうにテーブルの近くへ寄ってくる。

「違うか。気が利くんじゃなくて、おれのことをよく分かってるんだ、遠藤さんは」

本当はそーたくんはそれほど単純じゃなくて私を好きなせいで単純になったのかもしれない。笑ったり怒ったり喜んだり、それは私の一挙一動に影響されているからだ。なんで私みたいな人間が彼にそこまで影響を与えられるのだろう。

「なあ、いい加減返事を聞かせてよ。おれと付き合う気があるのか、無いのか」

私に向き直った彼が緊張しているのが分かった。

「自分で言うのもなんだけど、遠藤さんのことを見つけたおれはかなり冴えてると思う。おれたちはうまくいくよ。なんていうか、一緒にいるのがちっとも不自然じゃない」

初めて付き合うのは好きな人って決めてた。自分に嘘をつきたくないし、逆に好きじゃなきゃ付き合えないし。いつかヨウコが言ったみたいに私もまた自分自身を、いまどきめずらしいくらい純情で、純愛を貫いていると思っていた。初恋の人を数年前まで想っていた自分が好きだった。でもいまそーたくんを前にして、その考えが純情どころかうす汚い気さえする。どうして好きになった人としか付き合わない。どうして自分を好きになってくれた人には目もくれない。自分の純情だけ大切にして、他人の純情には無関心だなんて。ただ勝手なだけだ。付き合ってみて、それでも好きになれないならしょうがない、でも相手の純情に応えて試してみても、いいじゃないか。自分の直感だけを信じず、相手の直感を信じるのも大切かもしれない。彼は私とうまくいくと確信しているのだから。

本当にあの人が大好きだと痛烈に感じた初恋の日、いつもの小学校の帰り道がちがって見えた。五感の膜が一枚はがれたように、いつも見ている電線ごしの青空が急にみずみずしく見え、家の近くのケーキ屋さんから流れてくるバターの溶けた甘いスボンジ生地の香りが鼻をくすぐった。一日分の教科書が入ったかばんはいつもより軽く、道路を駆けぬけてゆく車のスピードさえ心地良い。私はあの気持ちを、そーたくんにならあげられる、私と会うのを楽しみにして会社に来る日もあるだろう。夕食にコロッケを作るだけで背中にうれしさをにじませることもできる。家で待っているだけで彼を中年のおやじにみたいに安心させてあげることもできる。

「いいよ」

「え」

「私たち付き合おうよ」

「まじで?やった」

そーたくんは拳をにぎり何度も振ったあと、いつもより何倍も瞳を輝かせて私の二の腕をつかんだ。

「すげえうれしい。でもなんで?今まで気が無さそうだったのに、なんでおれのうちまで来てくれたうえ、おれと付き合おうとまで思ったの」

「なんかすごく自然に家族になれそうじゃない、私たち。いまだって私、この部屋にいてもなんの違和感もないし」

喜ぶかと思ったのに、そーたくんは急にまじめな顔つきになった。

「あのさ、1つだけ言っておきたいんだけど」

そーたくんがカーペットのうえで座り直してあぐらを組む。

「おれは付き合っても、すぐには結婚しないから」

「は?」

見つめあったまま沈黙が流れる。話の流れが見えない。

「私、結婚の話なんてしてたっけ」

「してない。ただ、どうなのかなと思っただけ」

「私だって付き合ってすぐの、よく知らないうちから結婚したいなんて思ってないよ」

「そっか。なら良かった」

彼はほっとした顔になると、また私の手をにぎった。前の彼女に結婚を迫られたのを思い出しのだろうか、それにしてもなにか変だ。

「ねえ、どうしてそんなこと聞いたの」

「いや、陽子さんから遠藤さんは結婚願望が強いから、付き合う男とは絶対に結婚するつもりで厳密に選んでる、って話を聞いたから」

ヨウコが?信頼して悩みを打ち明けていたヨウコが、なんで私の相談内容をそーたくんに話すのだろう。

「どういうこと。くわしく聞かせて」

「このまえ営業の奴らと飲んでいたとき、そのうちの1人が女っ気が足りないって陽子さんを呼んだんだ。そのとき彼女が、遠藤さんは結婚願望が強いって」

「ふうん」

動揺して彼の手をにぎり返す。2人の間だけで話していたことを、どうしてヨウコはみんなのいる前で、そーたくんもいる前で言ったんだろう。

「もちろんおれは遠藤さんと結婚したい。だから、結婚を前提にお付き合いしてくださいっていうところはまったく変わらないんだけど、ええと」

彼はうつむいて咳払いした。

「おれ、口べたでごめん。つまり、とにかく、遠藤さんのことが好きだっていうこと」

なんのことだかさっぱりわからない。それに、なんだかとてもモヤモヤする。

でも彼にばかりスマートさを求めるのは酷だ。私だってロマンチックなひとときを作りだせる才能があるとは、お世辞にだって言えない。でもなんだかさびしかった。初めての“好き”のはずだった。

「遠藤さん、下の名前で呼んでもいい?」

「……いいよ」

「……じゃ、あやの」

ふいに気配がして、なにか匂いがする。なんというか、熱気の匂い。コロッケ?

ああ、そうたろうくんが近いからか。違う、それもあるけど、彼がなにかいつもとはべつの匂いを分泌しているからだ。フェロモン?

耳のすぐよこで息を吸い込む音が聞こえたかと思うと、そうたろうくんに思いきり抱きしめられた。発情している?

「処女だってことも、聞いた。大切にする」

処女だってこと、言いふらされてた。

あらためて息を吸いこんで、近づいてきた彼の唇は少し突き出ていて、誇張じゃなく漫画のタコみたいに見えた。

……吸盤!

力いっぱい、押しのけた。時間がスローに、なった気がした、彼はなにも言わなかった、ただ静かな顔をしていた。

まだコロッケの匂いのする部屋から、鞄と靴を持って飛び出した。



傘は持っていないけれど、傘とはようするに雨から自分をまもって濡れないようにするためのものであり、いまの私にその必要は無いとおもいました。このまま、私の生皮ぜんぶはがれて、地球というおおきなシンクの穴に私の生皮ぜんぶ吸い込まれてゆけば良いんだとおもいました。ヨウコとそうたろうくんとそれから過去友だちだったひとのうち何人かのLINEを削除していく作業の途中で、私は落ちつきを取り戻しました。

気づけばびしょぬれでした。半分が雨によるもので、もう半分がきっと涙でした。べつに良いかとおもいました。

あした仕事なのにあした仕事なのにおっきなくしゃみが何回もでて、それでもべつにもぉいっかとおもいました。ヨウコや私の処女を知る男たちに会いたくありませんでした。

コンビニを見つけて、店先に1本だけ傘があったので私は盗みました。物陰にかくれて、その人がコンビニから出てきて傘がなくてなにか喚くのを見て、おもしろいとおもいました。

カラオケの前に、1人の男の子が、傘もささずに座りこんでいました。緑のカーゴパンツに白のレギュラーカラーシャツを合わせている。20歳いってるかいってないかくらいに見えましたけれど、彼の身体はひどくお酒に酔っているようでした。

「きみ、どうして?」

「本当に好きだった子にフラれた、井の頭公園のスワンボートのうえでフラれた」

「自己紹介してみて」

「井上惠、19歳O型、独り暮らし、国立大学に入っていて、彼女はいない。髪の毛はさっき染めた、やけくそになって染めた。嫌いなのはなに考えてるのか分からない人で好きなのは未練たらたらの失恋ソング、最近はまってるのはユーチューブのまとめ動画を観ることです。漫画の考察とかラジオの切り抜きとか古代王朝の法制度とか大昔にいた絶滅種の強さランキングとか、あとは──」

「夜ごはんたべた?」

「え?」

「夜ごはん食べた?」

「食べてません。でも、平気です」

「うち、おいで。907号室。この先のアパート。荷物はまとめてあるけど、気にしないでね」

言いながらすでに、私は彼の肩を抱いてアパートのエントランスまで連れて行き、オートロックの盤に鍵を差し込んでいた。



キッチンのシンクで彼は手を洗った。洗い終えると、慣れている動作で口に水を含んで素早く吐いた。いつものくせを無意識にやったというふうな動作で何食わぬ顔をしていた。彼はまだ神経質になるには早すぎる年頃だから身ぎれいではなかった、きっと私よりだらしない生活と身体をしているはずだ。

しかし彼の吐く水は私の水よりきれいに見えた。彼は掛けてあるタオルを使わず、自分の手で口をぬぐい、濡れた手をびしょぬれのカーゴパンツにこすりつけて拭いた。

「引っ越しするんですか」

「なんで」

「荷物が、まとめてあるから」

「しないけど」

家はがらんとしてリビングにはソファしかなく、ソファの横には段ボール箱が2つと、中身のふくらんだ黒い皮の旅行バッグが置いてあるだけだ。あと床に直置きしたパソコン。床の埃、唇の跡のついたコップ、オーガニックのシャンプー、お酒の瓶が4本、しめなわ、剃刀、また全部まとめて新しい段ボール箱を増やそうか。

お客さまが来るならテレビを買っておけばよかった。

時刻は午前2時を回り、今日の夜明けを待つだけの暗い太陽がじわじわ消費されていく。新しい日たち、私はあなたたちをまるでぼろぞうきんのように道楽に使うといま決めた。日々刻々と過ぎてゆくとしても、すべての時間は私のものだ。できまいが私はできる。たとえいつか終わるとしても、明日だけ見つめて、生きてみないか。

彼の犬みたいなパーマとさびしそうな2つの瞳をなめるように見つめると、彼はいっそうせつない表情になった。タオルで拭いたのに生乾き、でもふわふわしてる髪の毛に手のひらでそっと触れると、すぐに手の甲の皮膚はベッドの布の温度をひろった。私は彼の耳に唇を近づけてささやいた。

「仲良くしようか」

音姫のすきまから、ベリベリィベリィという音が聞こえた気がした。


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