清少納言の交遊からみる藤原行成
文化水準が高い平安時代
今から一千年前に宮廷社会において活躍した藤原行成という人物の足跡をたどりながら、平安貴族社会のことについて少しお話ししていこうと思います。
今から一千年前といっても、時代感覚を把握しにくいかもしれません。日本では一条天皇の御代であり、藤原道長が絶世の栄華を手中に収めつつあった頃です。清少納言や紫式部が後宮において活躍し、文芸の華が咲き香った時代でした。長い日本の歴史上でも文化の盛んであったことにおいて特筆される時代の一つです。
この時代は日本だけでなく、世界的に見てもこの当時の日本の文化水準は高いものでした。例えは清少納言の『枕草子』がかつて仏訳されて、パリで出版されたことがありましたが、それを見たフランス人は、何というエスプリの豊かさか、そのユーモアを込めた軽妙な人生観や洗練された筆力に驚いたといいます。松尾邦夫氏が書かれた「『枕草子』とフランス人」によると「10世紀の末に、こんな才女が日本にいたとは思われないから、訳者の君が勝手に書いたのではないか。10世紀末といえば、フランスは、ローマから野蛮人と呼ばれていたゲルマンのフランク族の王が、やっとフランス王国を成立させ、戦争ばかりやっていた時代ですよ。」と不思議がっていたいうのです。フランス王国が成立したのは西暦987年といいますから、日本でいえば一条天皇の御代、永延元年のことです。
イギリスにおいて最高の文豪といえば、いうまでもなくシェイクスピアでしょう。イギリスは、たとえインドを失ってもシェイクスピアを失ってはならない、とまでいわれたほど、イギリス人にとっては誇りとすべき人物です。そのシェイクスピアは、日本でいえば、豊臣秀吉や徳川家康の時代の人です。ハムレットが初演されたのは1603年ですから、ハムレットが為すべきか、為さざるべきかと葛藤していたほぼその頃に、日本では、関ヶ原の戦いを前に小早川秀秋が東軍に味方するべきか、西軍に組すべきか、悩んでいたことになります。『枕草子』が著され、『源氏物語』が編まれた時代は、それよりも約600年ばかり前になるのです。
世界的に見ても今から約千年前の10世紀末から11世紀初頭における世界であれだけの小説・随筆が日本に出現したことは、今日の文明国にほとんど例がありません。天才的な稀有の才女の出現によるとはいえ、それだけ当時のわが国が、盛唐文化を吸収消化し、それをわがものとして成熟し、相当に高い文化水準に到達していたことを示すものといってもよいのではないかと思われます。
『枕草子』に登場する藤原行成
これから、お話する藤原行成はその時代の盛んな文化を支えた一人でした。『枕草子』を見ていきますと、行成は清少納言と交遊があったことがわかります。また、その交遊を通じて、清少納言が行成をどのように見ていたのか、行成の人柄、性格が描写されていますのでその点を見ていきましょう。
『枕草子』には藤原行成のことを「頭弁様(とうのべん)」と記していますから、二人の交流は行成が蔵人頭(くろうどのとう)と弁官(べんかん)を兼ねていたときのこととなります。蔵人頭に任じたのは長徳元年(995年)8月、翌年の4月には権左中弁を兼ね、その後、左中弁、右大弁、左大弁と弁官を継続して任じていきます。蔵人頭の任にあったのは、参議(さんぎ)になった長保3年(1001年)8月まででしたから、行成が「頭弁」であったのは長徳2年から長保3年までの6年間でした。
もう一人清少納言の目にとまった人物として藤原斉信(ふじわらのただのぶ)がいます。斉信は容姿端麗な貴公子「頭中将(とうのちゅうじょう)」として登場していますが、「頭中将」は蔵人頭と近衛中将(このえちゅうじょう)を兼ねていた場合の呼び名です。斉信は行成の先任の蔵人頭でした。行成と斉信に共通していることは、天皇近侍の蔵人所の最高責任者の地位にあったことです。その関係から中宮に仕える女房の清少納言とも顔見知りになったものと思われます。
『枕草子』57段、136段、139段に記された行成の姿を総合すると次のような3点に要約できそうです。
藤原行成の誠実さ
第一には行成は真面目で誠実であり、目立って風流ぶったり飾り立てたりすることのない、奥ゆかしい人柄であったことです。そのような人柄は他の多くの女房たちも心得ていたようですが、清少納言はもっと奥深いゆかしいお心を見知っていました。そして清少納言が中宮さまにも「頭弁さまはありふれた方ではありません」と申し上げたところ、中宮さまもそのようにご存知であった、といいます。
また頭弁さまは「女は己をよろこぶ者のためにかほづくりする」、女というものは自分を愛する人のために化粧するものだ、「士は己を知る人のために死ぬ」、男は自分を本当に理解してくれる者のために死ぬ、といっていたとあります。これは、清少納言に対してつい口をついて出た戯れの言葉ではないでしょう。『史記』の刺客伝に出典がある言葉です。晋の智伯が趙に滅された時、智伯の家臣であった予譲は山の中に逃れて復讐を誓いますが、その時に「士は己を知る者の為に死し、女は己を悦ぶ者の為に容(かたちづく)る。今、智伯我を知れり。我、必ず為に讎(あだ)を報いて死せん」と言ったという故事を踏まえています。しかし、清少納言に自己の教養を誇るために言ったとは思われません。行成はそのような軽薄な人物ではありません。これは、まさに行成の実感であり、平生の覚悟であった違いないと思われます。その理由は行成にとって「己を知る人」とは第一に一条天皇であり、この人の信任を全うために、蔵人頭として文字通り懸命の奉公をしていた時であったからです。また、それだからこそ、本音がつい口をついて出たとみるべきでしょう。
行成は中宮との取次ぎには清少納言を頼りとし、他の女房を介在しようとはしなかったらしく、そのため他の若い女房たちから面白みのない人だと悪口をたたかれることもあったと述べています。
清少納言と行成がどの程度の間柄であったかはわかりませんが、行成は自分の女性観というか、女性の器量についてまで清少納言に語っています。
「目は縦さまにつき、眉は額さまに生ひあがり、鼻は横さまにありとも、ただ口つき愛敬(あいきょう)づき、おとがひの下、頸(くび)などをかしげにて、声にくげならざらん人なむ思はしかるべき。とはいひながら、なおかほのいとにくげなるは心憂し」
目や鼻や眉が不格好でも、可愛らしい口元、あごの下や頸のあたりがふっくらとしており、美しい声の人であれば好きになれそうだ。そうは言うものの、あまりの不美人は嫌だ
と言っています。なかなか面白く、読みようによっては清少納言の容貌を写しているようでもあります。このような逸話は、両者の関係がかなり親密であったことを物語るものと推察することができます。
清少納言との言葉遊び
第二に、清少納言との間では味のある冗談や洒落を交わし、互いに機智に富んだ教養人であることを自認していたらしいことです。
先ほど紹介した女性観についてのやりとりも、多分に行成のユーモアが込められていると思います。
同じようなことは、あるとき行成が餅談一包に手紙を添えて清少納言に送ったときにも現れています。その手紙の奥に
「このをのこはみづからまいらむとするを、昼はかたちわろしとてまいらぬなり」
男は自ら参上したいのですが、昼は容貌が醜いからといって参上しないのです
と美しい文字で書いてあったといいます。このくだりからも、両者の間では軽い冗談が通じる交遊があったとみられます。
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世にあふ坂の 関はゆるさじ
この歌は『百人一首』の62番歌に採られた清少納言の歌です。御存じの方もいるかと思いますが、実はこの歌は行成とのやりとりの中から生まれた歌になります。夜遅くまで中宮職で話し込んでいた行成は、翌日は禁中の物忌なので宮中に籠居しなくてはならない、丑の刻(午前2時頃)になってしまうと、あくる日になるから悪いであろうといって、帰ってしまわれたが、翌朝早く
「名残惜しいことでした、もっと話をしたかったが、気の利かない鶏の鳴声にせきたてられて帰りました」
という手紙が届けられました。
別に一夜をともにしたわけではなく、丑の刻までに帰ってしまったのであるから、気の利かない鶏の鳴声にせきたてられて帰ってしまったというのはいかにもおかしいことです。行成はそんなことは百も承知で、あえて思わせぶりな書き方をしたのでしょう。これも軽い冗談だと思います。清少納言は、夜の深い時に鶏の鳴声とは「函谷関のことですか」といい、前の歌を書き付けたというのです。
「函谷関のことですか」というのは『史記』の孟嘗君列伝にみえる故事をふまえたものです。周末期戦国時代の斉の孟嘗君は、秦に使いに行って、殺されそうになりましたが、やっと逃げだして夜半に国境の函谷関まで来ました。函谷関というのは中国河南省北西部にある交通の要衝で、洛陽から潼関に至る狭く険しい路にあります。この関は鶏が鳴いたら門を開けることに定められていたのですが、食客の中に鶏の鳴声が上手なものがおり、そのものに真似をさせたら本物の鶏がみな鳴きだし、それで開門されて、孟嘗君は無事に斉まで帰ることができたというものです。
清少納言がこの故事を承知しており、しかも機に応じて応答するあたりに、才気ばしった彼女の姿が彷彿できそうです。
中宮定子から「香爐峰の雪はいかに」と仰せられて、すぐに白楽天の詩を想起して、御簾を高く巻き上げたというあの有名な話と通じるものがあります。
ともかくその故事をふまえて清少納言の歌を詠めば、なかなか面白い味わいがあります。
それに対し、行成は
逢坂は 人越えやすき 関なれば 鳥も鳴かむに あけて待つとか
と歌って返したといいます。当時の逢坂の関は関守などはおいていませんので、「越えやすき関」となったのでしょうが、このやりとりからすれば、行成は勝気な清少納言との言葉遊びを楽しんでいた様子が窺えます。
『枕草子』の中での藤原行成の書蹟
第三は、行成の書蹟はまことに美しく、人々の尊敬を得ていたことです。清少納言との応答の手紙は、いづれもみごとに美しく書かれており、「いみじくをかしげに書きたまへり」と賞賛しており、それを中宮に御覧に入れると、中宮も「めでたくも書きたるかな、をかしうしたり」を褒められ、その手紙は手元に納められたと伝えています。
これらはいづれも清少納言の随筆に書かれたことから浮かび上がってくる姿であるだけに、どの程度まで事実であるのかは今一つ明瞭ではありませんが、藤原行成の実像とそう遠くかけはなれたものではないと考えてよいのではないかと思います。
行成の書蹟については、行成の書蹟という別枠でまたの機会にお話をしようと思います。
最後に、「最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。」とお礼を添えて終わりの言葉とさせていただきます。