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山田奉行大岡能登守忠相


はじめに

 前回は『寛政重修諸家譜』を見ながら家系と略歴をみていきましたが、今回は山田奉行時代の大岡忠相について伝わっている話や史料を通じての実像などをお話ししていこうと思います。
 町奉行時代の話は大岡政談などで有名な話がたくさんありますし、多くの研究者が実像にも触れていると思います。
 それでは面白くないと思いますので、あまり知られていない山田奉行時代について話をしていこうと思った次第です。
 話が長く、文字ばかりなので飽きるかもしれませんが、暇つぶし程度に読んでいただければ幸いです。

山田奉行就任

 大岡忠相が山田奉行になったのは、正徳2年ですがご覧いただきたい史料があります。


大日本近世史料 柳営補任巻二十山田奉行


 この資料は『大日本近世史料』の中に入っている『柳営補任』という史料、史料といっても明治になってから編纂されたものになりますが、幕府の役職ごとにいつ誰がついていつ辞めた、そういうことが書かれています。そのなかの伊勢山田奉行になりますが、大岡及び渡辺輝=渡辺下総守という人がいます。当時山田奉行は二人いて、その前後が分かるように史料を抜粋しています。
 佐野豊前守が正徳元年(1711年)11月2日に山田奉行をやめています。その跡役として約2か月後の正徳2年正月11日に目付から転じました大岡、このときは忠右衛門となりますが、山田奉行に任命されているわけです。もちろん、江戸で任命されています。
 この話は、直ちに伊勢にも伝えられまして正月20日、9日後に神宮の方に連絡がきています。神宮の方では正月20日に大岡忠相という人が新しい奉行になったということを知ったわけです。大岡はすぐに能登守になり、山田奉行在職中はずっと能登守となります。辞めたのは享保元年(1716年)2月11日となっていますが、『寛政重修諸家譜』では2月12日になっています。12日に普請奉行になったということで、1日相違が出ていますが、おそらくこれは『寛政重修諸家譜』の方が正しいだろうと思います。
 そして、大岡の後任となったのは黒川与兵衛という人になります。享保元年2月12日に使番から山田奉行に発令されています。黒川が辞めたというか御免になったということですから免職になっています。その後、この後任は仰せつけられなかったということが書いてあります。
 さらに史料を見てみると、大岡が山田奉行をやっている最中に渡辺半兵衛、下総守と書いてありますが、渡辺輝という一字名前の人が大岡と同じ時期に山田奉行をやっていることがわかります。宝永5年(1708年)6月23日から享保11年(1726年)8月7日まで山田奉行をやっています。ですから、大岡よりも先に山田奉行になり、後で辞めているという人物になります。この渡辺輝という人物と大岡、当時の山田奉行は二人いたわけです。山田奉行というのは一人の時と二人の時がありますが、江戸中期は二人います。江戸時代初期から少しさがったところと、それから享保11年より後の方は大体一人になります。
 この渡辺は、長谷川周防守の後任で入っていまして、辞めてから保科淡路守という人になっていますが、この長谷川あるいは大岡の前に奉行をしていた佐野豊前守、こういう人たちあるいはもっと前に奉行をやっていて江戸に戻っている人々、これと神宮はしきりに交渉を持って絶えず手紙のやり取り、あるいは季節毎の贈り物を欠かさないで、現奉行及び元奉行といつも接触を持っていることが分かっています。
 それから、神宮は江戸に出張所をおいて絶えず幕府とのいろんな交渉にあたる、あるいは在江戸の山田奉行らと折衝にあたるというような活動をしています。先ほど書きました神宮に正徳2年正月20日大岡が山田奉行に発令されたという連絡が入ってきたということは、この出張所からの連絡です。これが第一報といっていいわけです。

山田奉行での執務時間

 さて、奉行が二人いるといったいどうなるのかというと、山田奉行の交代を簡単な表にまとめています。

二人の山田奉行の交替を表にまとめたもの


 出典は神宮文庫所蔵の「神宮編年記」という史料で、いろいろな日記をあつめて「神宮編年記」といっていますが、その中に「守相記」という日記があります。この日記は内宮の長官薗田守相の日記になるのですが、長官の公用日記になります。長官というのは神宮には一の祢宜から十の祢宜がいますが、その筆頭の一の祢宜である人を長官といっています。その長官がこの時期は薗田守相です。この日記に大岡能登守がしばしば出てきます。この記録によって大岡がいつ伊勢にやってきて、いつ江戸にもどったのかということが分かります。
 これを見るとまず、山田奉行に発令されましたのは正徳2年正月11日ですが、その後準備をして、4月11日に伊勢の地に到着しています。ただすぐに奉行所に入ったわけではないようでして、近くのお寺に入っています。それから、その二日後、正徳2年4月13日に、相役の山田奉行となる渡辺下総守が発駕(出発)し、伊勢を離れ江戸へ向かっています。そして、その直後に大岡は奉行所の屋敷に入ったという記事があるので、ちょうど入れ替わるわけです。四月の半ばに両奉行が交代することになります。大岡が伊勢の町にくるのは4月11日というか実際に執務をとり行うのは4月13日以降ということになります。つまり、一人は伊勢にいると、もう一人は江戸にいるという体制、二人奉行制の場合にはそういう形になるわけです。山田奉行所は現在の御薗になりますが、小林というところにあり、大岡が伊勢の地に滞在していたのは約1年間です。まず、最初に1年間滞在し、帰るのは翌年正徳3年4月24日に大岡忠相は伊勢の地を出発しています。その直前となりますが、渡辺下総守が22日に伊勢に到着しています。その次に山田奉行として大岡は二度目の赴任ということになりますが、正徳4年4月21日に伊勢の町に到着しています。そして、4月23日に渡辺下総守が出発するので、これ以降執務することになります。
 そして、約1年2か月滞在していますが、正徳5年6月27日に忠相は伊勢を出発して江戸に戻っています。それから、翌6年に普請奉行に発令されますので、結局伊勢に来るということはなかったわけです。実質四年間の山田奉行就任中、この伊勢の町にいたのは、約2年2か月ということになります。およそ半分といっていいわけです。本来、山田奉行の交代は、四月の半ばから20日前後、このあたりでなされているのですが、この五年の時は二ケ月程遅れています。これには理由があるようでして、正徳5年5月に橋姫社の遷座、それから大橋、これは宇治橋のことになりますが、宇治橋が完成して渡り初めをするという儀式に参加してから、交代したということになります。それから一か月ほどたってから渡辺下総守が到着しているのですが、これも予定よりちょっと遅くなります。旧暦の5月というとちょうど雨が降る時期になります。そのため、増水で静岡あたりで少し足止めをくったとか、あるいは伊勢国に入っても少し遅れたようですが、予定より4日ほど遅れて伊勢に到着しているわけです。その分大岡の出発も遅れたということになります。いつからいつまで大岡が伊勢の地にいたのかということについては、あまりはっきりとおさえられていないと思いますが、これが神宮の長官の日記によって明らかにすることができます。
 大岡が滞在した二年間の間に山田奉行として執務を取り行っているわけですが、そのことについて若干お話ししたいと思います。

山田奉行所の訴訟日・公事日

 神主の日記には山田奉行のことが小林屋敷として記されています。

正徳二年書留四月二十二日条

 ここで取り上げた史料は神宮文庫所蔵の「正徳二年書留」という史料で、これは誰の記録であるかよく分かっていないのですが、内宮の神主の記録であることは間違いありません。長官日記にも同じことが出てきますが、正徳2年4月22日条に小林のお屋敷から申し渡しがありましたという記事がありまして、訴訟日は三日、十二日、二十三日、それから公事日、これは七日、十八日、二十七日、このように受け付けるという申し渡しがなされています。最後に「右の外は差し当たり候義は昼夜に限らず罷り出ずべく候、以上、四月」と記された書き付けを渡されています。これらの日以外にも急ぐ場合には昼夜に限らず出てきなさい、この奉行所にやってきて訴訟をしなさい、そうゆうことです。
 それぞれ訴訟日、公事日三日間ずつ設けていて、原則としてはこの日に裁判をやる、あるいは訴訟を受け付けるということになるわけです。四月頃に奉行の交代があるので、交代をする直前に受け付けてしまうと後の処理ができませんので、原則として三月半ばぐらいのことになりますが、これ以降、奉行の交代期に入るので、訴訟は受け付けないというお触れが必ず出ます。そして、交代してからまもなく、新奉行といいますか、新たに伊勢の方に赴任してきた奉行がいつから訴訟を受け付けるということを触れて、それ以降、受け付けることになります。
 ここで、訴訟日と公事日と二つに分けていますが、本来、訴訟、公事というのは同じような意味で使われています。いずれも裁判といった意味で使われているわけです。ただ、ここでは明らかに訴訟日と公事日に分けています。
 これはどういう分け方をしているのかこれだけでは分からないのですが、初めて審議する場合には訴訟、二度目以降は公事という、と法制史では説明がされています。
 それから、もう一つ別の考え方としまして、訴訟というのは単なる願い事、公事という場合には訴える場合、まさに裁判をする場合には公事、このように理解している人もいます。ここではどちらなのかよく分からないのですが、とにかく、最初に訴え事をするのはやはり訴訟日の方に持っていくのだろうと思います。このように三日、十二日、二十三日に願い事、あるいは最初の訴え事はこの日に持っていくのだろうと思われますが、このように受付日が決められているということです。これは、大岡が初めてではなくて歴代の奉行が従来やってきたことです。こうして、実際、正徳2年4月から大岡は実務に携わるわけです。

『徳川実紀』掲載の話

 前回の略歴の寺社奉行のいじわるをされたということで取り上げた史料になるのですが、史料の説明なども省いてただ載せただけだったので、ここで詳しく説明しておきたいと思います。
 出典は『有徳院殿御実紀附録巻七』で、有徳院殿というのは八代将軍徳川吉宗のことです。この史料は『新訂増補国史大系』の中の『徳川実記』から引用したものになります。ここに大岡のことが出てきます。

有徳院殿御実紀附録巻七

 この史料では間違っている部分やありえない部分も記載されていまして、まず、「大岡越前守忠相いまだ忠左衛門」となっていますが、これは正しくは忠右衛門です。
 次に「忠相が宗室権門をはばからざる心ざしを感ぜさせ給い、江戸にめして町奉行となされしに、いよいよ明白にして、世の人みな感服せしかば、やがて多くの新恩をたまい、寺社の奉行にのぼせらる」ということが書かれています。徳川家をはばからず処罰したというその志は非常に感心すべきことであるといって江戸に呼び寄せて町奉行にしたということが書かれていますが、実際は山田奉行の後、普請奉行になっているわけでして、すぐに町奉行になったわけではありません。しかも、普請奉行になったのは家継の時代であり、吉宗の時代ではないのです。
 史料にある話は有名な話でして、紀州の領民が非常に、威張っているといいますか、他の藩領、あるいは神領民に対して横暴なことをする、これは、紀州藩の御三家の威光をかさにきて横暴なことをする、そのようなことがしばしば言われています。そういう話がここにも使われているかと思いますが、この話は問題があり、このようなことはあり得ないと考えられています。たとえは、紀州領の農民と神宮領の農民が争論を起こすという場合、これは支配違いといって、この場合には必ず幕府に持ち込まないといけません。
 山田奉行が裁ける問題ではなく、幕府の評定所に持ち込む争論となるのです。この点からでも、この話はおかしいというふうに考えられているわけです。
 ただ、大岡が非常に優れた行政官、あるいは裁判官であったということから話が大きくなり、尾ひれがいろいろとついて、このような話になったのだと思います。
 この手の話は、山田奉行就任中のこととしていつくか伝わっています。

鯨をめぐる話

 鯨に関係する話がありますが、この話は正徳元年といいますから、忠相が山田奉行になる前年のことになります。
 紀州の熊野の方で鯨が出てきた、紀州の熊野は捕鯨で有名な場所になるのですが、そこに鯨が現れた。この鯨に紀州領の人が銛をまず打ち込んだが、当たり所が悪くて逃げられてしまった。その鯨が山田奉行支配地域の熊野灘に面したところ、あるいはもう少し、伊勢に近いところかもしれませんが、そこに出没しまして、山田奉行支配下の農民達がこれをしとめた。そこで陸に引き上げてみますと尻尾の方に、紀州藩領の村の名前の入った銛が打ち込まれていた。しかし、それは致命傷になっていないので、我々が取ったのと同じことである。しかしながら、紀州領の村の人が、一番銛を打ち込んだのであるから一応そちらの方に話を持っていきまして、収入の一割をそちらに支払いましょうといって銛を返した。それを聞きました紀州領民は、これはしめたと思い、早速全部よこせと言って、争論になるわけです。結局最後は、大勢をかき集めまして、山田奉行支配下の村に侵入して家を十五、六軒壊して、さらに鯨も引っ張って持っていってしまった。
 こういう事件が起りまして、それで山田奉行所に訴えますが、山田奉行も紀州藩を恐れて、なかなか決着を付けることができなかったわけです。そこに大岡が赴任いたしますと、なんとかして欲しいという訴えがあります。そこで、両者を呼んで取り調べを行います。紀州領側の言い分は、歴代の山田奉行が裁かなかった、すなわちこれは我々が正しいのである、しかも相手側の山田奉行支配下の農民達は、自分の家をわざと壊して我々がやったんだと言い触らしている、そういうことを主張します。しかし、大岡は、今までは山田奉行が紀州家の威光を潰さないように顔をたてるようにして穏便に済ませてやってきたのに、家を破壊したりして、天下の政治に背くことをしている。さらに山田奉行が自分たちに不利な判決をしたならば、江戸に行って奉行の首をとばしてやる、ということを放言したらしく、それは謀反にも等しい行為である、と大岡忠相は言って、それですぐに鯨の売り上げ代金の帳簿を持ってこさせます。帳簿を確認すると2500両の値段で売られているので、そのうちの一割の250両を残してあとは全部山田奉行支配下の村、相手側の村に引き渡せ、ということで決着を付けたので、山田奉行支配下の村は非常に喜んだという話があります。この話、実際出てくる村の名前が存在しませんし、奉行の名前が必ずしもその時の奉行の名前でないとか、どうも具合の悪いことが多い話になります。しかしながら、鯨に関連しているということはこの地域がらあり得ないことではないのでしょうが、話の真偽という点では怪しい話になります。

吉宗横暴の話

 山田奉行をやっている大岡の所に紀伊大納言の息子というのが津の阿漕ヶ浦で魚を捕っているという訴えがあります。
 この息子というのは吉宗のことを指しているのですが、吉宗は非常に暴れん坊であった。そこで和歌山の城下はいうに及ばず、高野山や根来寺の聖域まで侵している。それからさらに伊勢の神領にも時々来て何か悪さをしていくので、みな困っている。そして、ついに阿漕ヶ浦まで出没した、という話になっています。
 これは殺生禁断の土地と古くから言われているのが阿漕ヶ浦であり、そこで魚を捕ってはいけないことになっています。中世では神宮との関係があり、魚を捕ってはいけなかったかもしれませんが、江戸時代は殺生禁断の地ではなく、魚をとるのに別段問題はなかったはずです。古い話が混ぜられているのだと思いますが、紀伊大納言の息子と称している者が魚を捕っている。そこで、大岡は配下の者に、紀伊大納言の息子らしいから適当に追っ払え、手荒なことをせずに追っ払ってしまえと言って、二人ほどの部下を派遣します。そこで、部下は魚を捕っている者を発見し、何をしているのかと言うと、葵の紋が目に入らぬか、提灯か何かを持っていたようでありますけれども、それを見せられて結局大岡の部下達はすごすごと帰って来たのです。
部下からの報告を受けた大岡は、見捨ててはおけないので、翌日自ら阿漕ヶ浦に行きますとまたいるわけです。そこで大岡がお前は誰かと言いますと、やはり同じことを答えます。紀伊大納言の息子である、葵の紋が目に入らぬかと言ったのです。しかし、大岡は紀伊大納言の息子がこんなことをするはずがない、お前はきっと名前を騙っているに違いない、すぐに捕まえてしまえと言って、とうとう縄を掛けました。そして、奉行所に引っ張ってきまして、翌日、白洲に引き出し、「お前はそもそも紀伊大納言の息子の名前を騙っている。けしからぬ者である。本来だったら処罰するところだが今回は大目に見てやるから帰ってよろしい」と言って帰します。忠相は吉宗と知ってのことでしょうけれども、その後吉宗が将軍になり、忠相は江戸に呼び寄せられたわけです。これはきっと何か仕返しを受けるのではないかと覚悟して江戸城に行きましたら、吉宗が「おれの顔を覚えているか」と言ったので、「確かあの時に捕まえた男が尊顔によく似ております」と答えたのです。その時吉宗は、あれは非常に立派なことであった、と言って早速町奉行に取り立ててやった、そんな話も残っています。
 この話、阿漕ヶ浦が殺生禁断であるというのは江戸時代では関係ない話ですし、吉宗の年齢が合いません。それから、松阪から夜な夜な阿漕ヶ浦に出かけていたというのですが、簡単に松阪から津まで行けるのかどうかといったような問題もあるので、作り話であろうと思われます。

材木流下の話

 宮川かあるいは別の川かもしれませんが、紀伊領で材木を切り出しますとみな川に流し、下流でまとめて筏に組んで運搬していました。これが、川が増水すると、流している材木が下流に勢いよく流れ、堤防を壊したり、橋を壊したりということがあるわけです。川が増水すると橋が壊れる、これは紀州領から流れてくる材木のせいだということになりまして、農民から奉行所に訴えがあります。これも紀州の方をはばかってなかなか解決できなかったのですが、忠相が赴任すると早速、流れてくる材木は拾ったものに全部与える、広い得にしろと言ったので、みな競って拾い上げた。そのため、今度は紀州から文句を言ってくるのですが、一切受け付けなかったので、紀州の方ではむしろ流さないようにしようということになり、この件は終わった、というような話もあります。材木が流れてくる話、これもありそうな話ですが確証がとれない話になります。

佐八村の話

 現在の伊勢市の佐八、ここは紀州藩領になりますが、神宮領と争論があった時、大岡忠相が紀州領の中に杭を打ち込んで、ここまでが神領であるといったというので、紀州藩の役人が、その責任をとって切腹をしたという話もあります。これについても紀州藩主の吉宗から、聞きたいことがあるというので呼び出された。それで、屋敷に行ったところ、あれはいったいどういうことなのかと吉宗から尋ねられます。大岡は、ほんのちょっとのことで済むのです。ともかくこの処置は、永遠に神宮のためにいいことなのです、そのためにちょっとやりましたと答えました。すると吉宗は、ちょっとのことで永久に神宮のためになるのか、それで、ちょっとというのはどの程度かと言ったら、ほんの短い期間でいいんだと大岡は答えたというのです。そこで、吉宗は、神宮のためにいいことであるならばちょっとといわずに寄進してもかまわないんだと言ったら、それが終わるか、終わらないうちに大岡は「確かに拝領しました」と言ってさっさと帰ってきてしまったしいうような話もあります。
 これらはいずれも紀州との争いなのです。これは当時の紀州藩主吉宗が将軍になっていますので、大岡と吉宗の関係、つまり、享保時代に町奉行として活躍し、吉宗に非常にかわいがられるということから、吉宗との対比において、山田奉行時代も何かあったのではないかという期待から、いろいろと話が作られてきてしまっているのではないかと思います。内容的には、ほとんど信用できないということになるわけです。

吉宗の伊勢参宮

 山田奉行時代の怪しげな話をしましたが、ここからは史料に基づいて正徳二年以降、大岡がどんなことをやってきたのかということを見ていきたいと思います。
 正徳2年4月11日に大岡能登守忠相は伊勢の地に到着しています。11日に伊勢に入っていますが、10日は松阪に泊まっています。
 さらに、その前日4月9日に紀伊中納言吉宗、後の将軍吉宗ですが、伊勢参宮をしています。吉宗と忠相は、ほんの一日二日の違いで、伊勢の近くですれ違っています。吉宗の参宮は正徳2年4月9日なのですが、8日は田丸に泊まっています。その前の日が松阪泊まりになっています。吉宗は江戸から和歌山に交替で戻る途中なのですが、三河の吉田というのは現在の豊橋になりますが、そこから船に乗って松阪に到着したのが4月6日になります。
 吉宗が伊勢参宮をした時の祝詞といいますか、祭文が前に話しました日記に入っていて、天下泰平、将軍家、将軍の跡取りつまり、家継のことですが二人の健康を祈るという祝詞を捧げています。
 そして、和歌山に向かっているわけですが、松坂あたりで同じ日に泊まっている可能性なきにしもあらずのところ、参宮が終わった後、田丸に入って松阪には行っていないようでありますので、残念ながら二人は会っていないようです。

大岡の参宮

 忠相は4月13日に山田奉行に入って、もう一人の山田奉行渡辺下総守輝が奉行所を離れる、入れ替わりで入ってくるわけですが、その翌々日4月15日に就任の挨拶ということだと思いますが、初めて伊勢参宮をしています。
 大岡家には、内宮の御師がなかったようでして、内宮の長官、当時は薗田守相という人物になりますが、その人が内宮の案内役をし、いろいろと世話をしたということです。その後、例の訴訟日、公事日の申し渡しがなされました。

橋姫社・大橋等の造替問題

 第一回目の山田奉行として、任地に赴いたこの期間、ここで一番重要な仕事何であったかということなのですが、これはまもなく神宮の方から願いが出ました橋姫社及び大橋、それから風宮橋、風日祈宮に行く橋と思いますが、そこを修理するか造営するかという話が出てきています。前からあったことだと思いますが、新奉行が着任したので、早速神宮から話を持ってきています。それが始まったのは正徳2年6月あたりです。これが正徳5年までずっと続くことになります。

巡見使の応接

 その間、正徳2年9月から10月の初めにかけて幕府の巡検使がやってきます。これは、将軍が代替わりしたので、といってもまたすぐに替わってしまうのですが、家宣の代に替わったため出された巡見使だと思います。この巡見使がきている最中に家宣が亡くなってしまうことになりますが、これは将軍の代が替わると全国を巡視して歩き、色々様子を聞いて幕府の政治に反映させようという政策になります。
 そのためにやってきた巡見使の相手をしています。それから、後、細かいことは省略しますが、特に大きな事件は起こっていません。

橋姫社遷座と宇治橋渡り初め

 次の正徳4年から5年にかけての第二回目の赴任時代、約1年2か月の間に起こったことは、やはり例の橋の架け替え、あるいは橋姫社の遷座のことです。これは、最終的に正徳5年5月7日に橋姫社が完成して遷宮を行っています。それから、その少しあとに大橋の完成、渡り初めがありまして、大岡も5月11日に渡り初めをしています。お昼頃からやったようですが、この日はお昼から雨が降ったようです。ちょっとした小屋をつくっていたのですが、奉行の居た小屋は雨漏りがしたといったようなことが書かれています。
 また、宇治橋だと思いますが、宇治橋に擬宝珠を付けます。その擬宝珠に関係した山田奉行(渡辺と大岡の二人)の名前も一緒に彫り込むわけです。擬宝珠に刻む文言を江戸に問い合わせて、これでいいかどうかということを尋ねる必要がありました。その許可がまだ来ていないので、渡り初めに間に合わないという事態になります。擬宝珠を取り付ける時、お札を入れてから擬宝珠を被せるのですが、仮に擬宝珠を被せ、文言が幕府から許可になった後、取り外して文字を彫り込んで、もう一回被せても構わないかということを神宮の人を呼んで、問い合わせをしています。
 その問い合わせに対し、神宮の方はというとそれでもかまわないという返事をしています。大岡は、一旦、お札を中に入れたものを取り外すというのはいいのだろうかということを心配していたわけですが、神宮の方は別に構わないとのことで安心しているわけです。

大岡能相に改名

 その直後正徳5年5月9日、大橋の渡り初めの直前ですが、大岡忠相から、大岡能相に自分は名前を変えるということを通達しています。『寛政重修諸家譜』などにもこの新しい名前は載っていませんので、ただ擬宝珠に名前を入れるためだけに変えたようです。
 これは何故かというと、忠の字は二代将軍秀忠の忠と同じです。大岡家は代々、忠をつけていますが、人目につく宇治橋の欄干の擬宝珠に忠の字がついた自分の名前が刻まれていると、二代将軍の秀忠に対して畏れ多いといったことがあったようです。
 そこで、はっきりと秀忠の忠を憚るということで、能の字を使って能相と名前を変えたと神宮に対して連絡をして、擬宝珠には、この能の字を彫り込んだようです。一時的に大岡忠相が名前を変えたということはあまり知られていないことだと思います。

最後の参宮

 正徳5年6月1日にも、伊勢参宮をしています。これがおそらく最後の伊勢参宮だと思います。山田奉行は伊勢参宮をしょっちゅうやっています。神宮の境域内も時々巡視して回ります。6月1日には、新たにできました橋姫社もまわって様子を見ています。巡見中、出来たばかりの橋姫社の階(きざはし)の擬宝珠が1個無くなっていることを大岡が発見しています。そして、神宮の方に早速1個紛失しているけれどもどうしたのかということを聞いて、それに善処するように言っています。これは1個無くなっているだけだから、盗賊の仕業ではないだろう、たくさん参宮者が来るので、誰かがいたずらして持って行ったのだろうと推測はしていますが、神宮側に善処を求めているような裏話もあります。

未解決問題の処理

 正徳3年3月26日頃から記事が出てきますが、宇治浦田に、建国時というお寺があったようです。このお寺は、内宮の神主をやっている薗田家、当時は薗田図書(そのだずしょ)という人らしいのですが、その人が支配していました。しかしながら、その住職のことでなにかごたごたがあって奉行所に訴えてきています。解決を求めて訴えてきているのですが、この問題は以前からもめて時間がかかっているようです。大岡は、本来こういうことについては奉行はあまり関わらない事にしているのだが、いつまでも放置されたままであるので、一応とりのあえず自分は聞いておこう、と言ったと「守相記」に記されています。ですから長く放置されているような問題については、できるだけ解決してやろうという姿勢が大岡にはあったようです。

負担軽減を図る

 正徳4年4月22日条、二回目に伊勢に来た時ですが、4月21日に伊勢に到着して、23日に渡辺下総守が江戸に向かって出発するわけです。その前日、ちょうど真ん中の日です。普段奉行というのは引継ぎをほとんどしません。顔を会わさずに入れ替わるようになるのですが、この時だけは二人相談したと書いてあります。

「守相記」正徳四年四月二十二日条

 4月22日に、「下総守様」、これは奉行の一人の渡辺下総守のことです。それと「能登守様」、これは大岡忠相のことです。「御対談済み候て」、この二人が相談したということです。それが終わってから、「能登守様仰せられ候は」、能登守が我々、つまり内宮の役人達に言うにはということです。そのあと「両宮勤め繁く、此方用事之節は差したる義にもこれ無き事に久しく相待ち候て暮におよび、宿々用事も調い兼ね難儀致す事に候」、お前達、内宮の役人達であるから、神宮の仕事が忙しいだろう。そうゆう中に、此方用事というのは、奉行所の用事で、小林のほうに呼び出すことがしばしばあるわけですけれども、大した用事でもないのに、長い間待たされて暮に及ぶことがある。朝から呼ばれて夕方になってしまうことがある。おまえたちの家の用事も調いかねて難儀していることであろう、といっているわけです。それで、「御請、其外軽き義は名代の者玄関にて取次の者へ申し置き、罷帰り候様に仕るべく候」、御請、これは何か申し渡しを承知する、あるいは簡単な用事ということです。奉行が何か言ったことをハイ、そうですか、というふうに受ける、そういう場合にも書類を出したりすることがありますけれども、簡単なお請け、その他軽いことについては、神宮の長官とか、二神主とかそういう人が出なくても、名代でよろしい。名代の者を玄関まで出して、取次の者というのは奉行所の人で、その者に話をしておいて、書類を置くのだったら置いて帰るようにしなさい、ということを言っています。「公事訴訟事々重き義は様子により相済み候迄も相待申すべく候」。しかし、公事訴訟といった訴え事とか、重い内容のことについては、やはり、話が済むまで待っていなさいと言っています。
 これは、両者相談してこういう申し渡しをしています。ちょうど1年奉行を経験して、次の年伊勢での仕事を終わって江戸に戻って、伊勢に来たわけですが、二度目ですからある程度慣れます。それで渡辺下総守、この人はかなり長い間奉行をやっているのですが、彼と相談してこういうことを言っていますから、おそらく大岡の考えなんだろうと思います。
 たいした用でもないのに長く役所で待たされる、それは気の毒だから、その場合には名代を出して玄関で取次の者に言っておけばよろしい。これは事務軽減といいますか、相手側の負担を軽減してやろうという立場を示しているわけです。こういうことは江戸でもやっていたようです。このことは山田奉行としてごく軽いことではありますが、行政官として良い面を現わしています。

おわりに

 大岡は山田奉行になる前はむしろ番方の役職を務めておりましたが、ここへきて役方のポストに就くことになり、行政をやり、さらに裁判官でもあるという立場になります。その実務を伊勢の地で山田奉行として、実質伊勢では2年間ちょっとですが、携わったことが大岡にとって非常に大きな経験になったことは間違いないだろうと思います。江戸に戻って町奉行に就任した際、出来るだけ待ち時間を少なくしてやるといったようなことをしているわけですので、山田奉行時代の経験が非常に生かされたものと思われるわけです。
 ここで、少し余談になりますが、ある坊さんが女犯の僧であると訴えがなされます。その坊さんを呼び出して、大岡が「南向きか」「北向きか」と尋ねたというのです。そうしたら坊さんは「私は南向きです。」と答えましたら、「それならば許してやろう、北向きだったら承知しないぞ。」といって大岡は坊さんを帰したそうです。聞いていた与力達はさっぱり何の話か分かりませんでした。それで、奉行の大岡に聞いたら「与力がそんなことを知らないのはけしからん。」と言って叱られます。後で聞いてみましたら、南向きというのは坊さんたちが使う隠語で、魚を食べることを南向き、つまり、生臭を食べるということで、北向きというのは女犯であるということでして、そういう隠語も大岡はよく知っていたという話が伝わっています。
 そのようなことも合わせて庶民的な奉行で下情に通じていたので、人々の間で非常に人気がありました。そして、そのような裁判官であって欲しいという期待から大岡政談というものが作られてきたのだろうと考えられるわけです。
 大変長くなりましたが、以上で大岡忠相のお話を終わりたいと思います。
 最後まで読み、おつきあいしていただきありがとうございました。

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