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ゼークトについて

旧ブログからの転載です。

<ゼークト(Hans von Seeckt 1866-1936)>-------------

                  Hans von Seeckt  (Wikipediaより)

 第一次大戦で、ヒンデンブルグの後を継いで旧軍最後の参謀総長となり、1920年から1926年まで国防軍統帥部長官を務めた。
 ヴェルサイユ条約の下でドイツ軍の再建に当たり、これに成功。
 治安維持のために存続を認められた警察軍10万人について、将来の再軍備に備えて特別に優秀な将校を集め、また下士官・兵にも幹部教育を施すことによって全体の質を高めておき、いざ再軍備となった際には、たちまちにして精強な国防軍を復活させた。

 また、国際監視の目を逃れるため、ロシアの領域内で戦車や飛行機などの新しい武器の研究をしていた。(ロシア軍に招かれて、その指導に当たったため、赤軍の組織がドイツ式になった。)

 クラウゼヴィッツ=モルトケ型の教養の高い軍人。「モルトケ」、「一軍人の思想」等の著書がある。

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 著書「モルトケ」には、この偉大なプロイセン参謀本部の先達を引用して、"行為の極致としての戦争"に触れた箇所があります。

Helmuth von Moltke the Elder(Wikipediaより)

『永遠平和は夢だ、そして決して美しくはない夢だ。戦争は神の世界秩序の一環である。戦争において人間の最も高貴なる諸徳、勇気や諦念、生命を賭する義務心や犠牲心が発展する。戦争というものがなかったら世界は唯物主義の内に腐敗するであろう。』(モルトケのブルンチュリ教授宛書簡)
 『戦争にはまた美しい面があるということ、また戦争は、それなくしては眠りあるいは消えてしまうであろう徳の数々を完成にまでもたらすということは、おそらく否定せられ得ないであろう。』(モルトケのゲーバレフ教授宛書簡)


「誠実な検討から生まれたこうした直観を以て、モルトケは彼の精力の発展の堅固な地盤を獲得し、力を弱める一切の思考過程を斥けることができた。誰かかくこの困難にして責任多き将帥の職務を精神と意志との全き力を以て担い得るであろうか、自己の行為の不可避性を疑い或はあたかも罪に加担するような感情を抱いて行動力を失ってしまうがごとき者の到底なし得るところではない。だから純粋平和主義の病毒はきわめて危険である。それは必然、精力を萎えしめずに措かず、また軍人を、不変なるものにこれ従う無気力なる諦念を以て、戦いの場、そこではただ彼の内なる至上義務の確信があって初めて勝利に至り得るところの戦場、に向わしめるのである。戦争の神的また人間的な義しさを疑ういかなる懐疑にも、モルトケはかってその将帥としての長い経歴において襲われたことはなかった。我々が彼の思唯の営為の跡を追求し得る30年の年月にわたって、彼の知性の精力の直線にはいかなる屈折も見いだされない。 モルトケは、戦争が「粗野な暴力的な仕事」である事実に対して目をふさがなかった。しかし、彼はまた、目的に向かう途に於て犠牲の避け難いことを知っていた。およそ行為者は、義務の命令を実現しようと思うとき、気軽にではなく至深の責任感に於て犠牲を供する覚悟がなければならぬことを知っていた。」

(ゼークト「モルトケ」斉藤栄治訳 岩波書店)


 他方、次のような一文もあります。

「元来は勇敢なロシア軍が、照準の正確な我が榴弾砲の猛射を浴びて周章狼狽し、さながら恐怖に襲われた獣群のごとく褐色の大群をなして右往左往する様を熟視した私は、むしろ彼らがこの地獄の猛火の中から一刻も早く逃れ出ることを願わざるを得なかったくらいである。我々といえどもこの猛射を防ぐ術を知らぬであろう。私は勝利を得て、得意であるべき時に、かえって人間精神のこの悲惨な敗北を眺めては慄然として立ち竦んだのである。」

(ゼークト「一軍人の思想」篠田英雄訳 岩波新書)

 小林秀雄は、これを一種の名文と評して引用しています。

「元来が健全なる戦争という人間の事業が危機に瀕する様を見た。物質と機械力との増大が、忠誠、明察、勇気、忍耐等あらゆる美徳をもって行われるべき戦争を、ほとんど無意味な惨事と化さんとする様を見た。」

(小林秀雄「ゼークトの『一軍人の思想』について」)

そこから、ゼークトが精兵主義に進んだことに注目するわけですが、何よりまず、ゼークトの曇りのない透明な視線に心を動かされている。
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 この時期の小林の、このテーマの文章について、どのような制約の下で、どのような秘めた意図があったのかも興味深い問題です。
 素直に読めば、ゼークトの著書に「一人の徹底した実行家の明確で不変な像」が立ち現れるのを見、「自分の職分について徹底した認識を持った人間の力」に思いをいたす、というものです。そして、返す刀で、官僚主義やスローガン、ジャーナリズム文化人を斬る。 
 大岡昇平は、ゼークトを「典型的な軍人」と見る立場は、当時の日本軍部の官僚化・無力化、情報局とそのロビーの言動への危惧を反映したもの、と述べています。また、「ゼークトは「事変」前、中国にあって蒋介石の軍隊を組織した軍事顧問であり、それを賞賛することも、情報局ロビーの気に入らない情勢になっていた。」(新潮社「小林秀雄全集」第7巻解説)
(実際、大木毅氏の『戦史の余白』(作品社)には、ゼークトについて、在華軍事顧問団長として「親中路線べったりになっていた」との記述が見られます。)
 柄谷行人は、小林秀雄が作った『文學界』は、左翼が壊滅した後に、自由主義をベースに知識人の抵抗の拠点を目指していた、と述べています。

「(『文學界』が主宰した)『近代の超克』の会議は、人が読みもせずにいっているほど、悪質なものではありません。むしろ、戦争中にこのような発言が可能であったことに驚くほどです。言い換えると、『文學界』という雑誌は、唯一といっていいほど、言論の「自由」を保持しようとしているのです。」

柄谷行人『<戦前>の思考』


 ただ、ここでの「自由」は、現実的な自由主義がまったくないところでそれを創造的に実現するもので、「美学」的なものでしかありえなかった、となるわけですが・・・・・・・・


現代において、ゼークトの見解をそのまま受け入れることにはもちろん無理があるでしょう。
ただ、この時代の優れた軍人の一人から提示される、戦争と人間精神の矛盾、人間の尊厳と暴力の相克は、深刻で生々しいものに感ぜられます。

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