明奈ちゃんってほんと愛されているよね

今日は朝から挑戦物語を書き続け、そしてまたnoteを書く、私は余程文字の世界が好きなんだなと思うのです。場所は家からスタバに移動しました。「あ、でもあたしの楽しさは会った方がいいし、絶対に面白い」と思います。というか、なんだか文字にしているのがもったいなくなってきて、今読んでくださっている方のスマホ?の画面から手を出してお話をしにいきたくなる気分に毎度なっています。ホラーではないです笑。そのくらいじれったくなるのです。文字って。今日の本題にいきたいと思います

明奈ちゃんって、ほんと愛されているよね

最近お友達、いやあたしはもう親友くらいに思っている方から言ってもらった言葉です。「いや、強烈に印象に残った」んです、その言葉。

あたし愛されているんだ

きゃー、うぉー、ほぇー、ぐぎゃーと日本語にならない言葉が頭の中を駆け巡りました。その瞬間に感じたのが

あたし 愛されていると自覚してないや

ふぁー、ふぉえー、ぐぎゃー、と言葉にならない想いが脳内を駆け巡りました。これまた、愛の取りこぼしかと、あたしがよくやる愛の取りこぼしなんじゃないかって、その一瞬でものすごく反省をしたのです。

それと同時に、「どうして愛されていると思う??」と親友に聞いたものの、聞いているのと同時に「あーあれも愛か」「これも愛か」とすべての愛を走馬灯のように思い出し、なんかあたしって「やっちゃっている感じ」なんじゃないかって思い始めたんですよね。あたしって強烈な愛を欲しがる人なんですよね、正直に言うと。

例えば異性なら「僕は死にましぇん、あなたが好きだから」と昭和のラブストリー的な愛を欲しがる。車の前に立ちはだかって、あたしを守る的なあの強烈な愛を求めている。というか正確に述べると、あれが愛だと思っている。そして急に今「SAY YES」をyoutubeで聞いてしまうほど、頭の中は妄想豊かなのだ。まぁ、そこまでの愛って究極すぎるわけで、ドラマの見すぎーと総批判覚悟で書いているのだが、あれくらいの「明奈欲」が欲しくなるわけだ笑(自意識過剰なのはわかっております笑)

だから人から向けられた愛を取りこぼすことが多いなと常々感じているのだが、まだ自分が愛されているということを自覚せず動いていたことに反省しているのだ。

わたしに向けられるすべての言葉が本当は『愛』でしかない

ということにも気づいたのだ。

私のことを喜ばせてくれるような温かい言葉はもちろんのこと、お叱り、あの人が言った嫌味のような言葉であったとしても、それはその人にとってあたしに向けた『大きな愛』でしかないのだ。そう考えたら、あたしの周りは愛で溢れていた。

なぜこんなに私は人から向けられた愛に疎いのか。それは受け取り下手であったのと同時に、人のせいにするつもりはないが、人のせいになっているかもしれないが、裏切りも多かった。それさえも愛といえばそうなのかもしれないが「いじめ」も受けてきたし、大学の最初のころの不毛な恋愛で裏切りが多かったのだ。突然音信普通が何度もあった。向こうから想われてあたしは特に好きでもなかったはずで、あたしがようやく振り向き始めたかなって感じになったら急にパタリと連絡がなくなるのだ。そうまだ付き合ってもいないような時だったんだよね

そのときからあたしは欠陥品だと思うようになった

あたしは何かおかしくてこうなっているんだって、ずっと思ってきた。今振り返って思うのが、向けられた愛情をあたしはすべてドッヂボールのボールのように除けまくってきたからかもしれない。それが相手からしたら悲しかったのかもしれない。憶測にすぎないが、受け取るということがすさまじく苦手だったのかもしれないなと思うし、今でも「やっちゃっている」のかもしれない。

自分のパズルが探しているパズルのピースでなければ それはピースじゃないと思ってきた

でも、自分にピッタリはまるようなピースを相手がくれることの方が奇跡であり、相手には相手の愛の渡し方がある。それに気づかないと、もったいないことしている。

それ 愛 だよね 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?