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2人の漢の物語

AFCアジア・チャンピオンズ・リーグ2022が始まりましたね。コロナ・パンデミックの影響もまだある中、Jリーグからは最強の4チームが参戦。我が(?!😅)Aリーグからは2チームが本戦に出ています。強豪Kリーグ、新興国タイとシンガポール、ちょっと心配な中国リーグ...。アジアクラブ1位を目指してすでにドラマが生まれ始めています。今回は豪州視線のドラマを紹介させてください。

友達にしてライバル ‐ 二人の豪州サッカー選手の物語

スティーブ・コリカケヴィン・マスカット。ケヴィン・マスカット(以下マスカットと表記)は現横浜F・マリノスの監督。スティーブン・コリカ(以下コリカと表記)は2000~01年にサンフレッチ広島で活躍した選手。共に1973年生まれのオーストラリア人。この二人の四半世紀のお話です。

Capt.1:オーストラリア国立スポーツ研究所

1973年、北クイーンズランドの小さな町イニスフェールでコリカが、イギリス・南ロンドンのクローリーでマスカットが生まれた。マスカットはのちに家族でオーストラリアの西メルボルンに移民した。共にヨーロッパ系の移民でそのコミュニティーの影響で、幼少期から地元のサッカークラブに所属していた。チームのユース組に入るとその才能が開花し両選手共ににシニアグループにも参加するようになる。そしてその活躍は各州のサッカー連盟を通じてFFA(オーストラリアサッカー連盟)の知れるところとなった。17歳になる1990年、二人はサッカーエリート養成所に入学することになった。この養成所は首都キャンベラにあるオーストラリア国立スポーツ研究所(Australian Institute of Sport=通称AIS)内にあり、この研究所では若手選手の育成教育がなされる。それは技術面だけでなく、各自の体質・体格別のトレーニングの指導と開発、怪我の傾向と対策、プロ選手としての生活指導やメディア対応、プロ契約凍結のための知識等を学ぶことが出来る。豪州のオリンピックメダリストの多くがここの卒業生であり、スポーツ活動引退後もオーストラリアのメディア、ビジネス等に活躍の場を広げて行けるのはここの経験が活きていると言える。ここでクラスメイトになり、尚且つルームメイトになった二人の関係はここから始まった。この1年間はAISクラブとしてNSW州のユースリーグに出場し、また、U20の代表としても選出された。初めて親元を離れ好きなサッカー三昧な1年を共に過ごした17歳の少年2人はプロサッカー選手の契約を手にここを卒業した。

マスカットはハイデルバーグFCとプロ契約を結びメルボルンに戻った。コリカはマルコーニ・スタリオンズと5年間のプロ契約を結んだ。両チームともにトップリーグであった為、敵対する事になる。持ち前の負けん気の強さの二人であり、アタッキング・ミッドフィルダーのコリカとディフェンダーのマスカットは熱い試合を見せた。プロ契約初年度の1991/92シーズンの軍配はコリカの所属するマルコーニ・スタリオンズの優勝で終わった。翌年、マスカットは名門サウス・メルボルンと5年契約を交わす。このチームでその年のキャプテンを務めていたのがアンジ・ポストコグルー。ポストコグルーとマスカットが同じフィールドに立ったのは1992/03シーズンのみであったが、ポストコグルーはこのシーズンで引退、そのままサウス・メルボルンのアシスタントコーチに就任。マスカットに多大な影響を与えた事は周知の事実である。1995/06シーズンのマスカットはイギリスのシェフィールドのトレーニングに参加している。相対する敵同士の彼らではあったがU20、U23代表何度となく選出されている。1992年のバルセロナ・オリンピックではコリカが(オーストラリア史上初の銀メダル獲得)、1996年のアトランタ・オリンピックでは両選手が出場している。

この頃のオーストラリアのサッカーは発展途中。他のプロスポーツ、クリケット、ラグビーリーグ、ラグビーユニオン、オージーフットボールにはとても及ばない規模で細々と運営されていた。細々と運営されている割には喧嘩や暴動などの話題がニュースになり一般的に敬遠されたり好意的にみられるスポーツではなかった。他のスポーツとは違い、チームの成り立ちや運営が移民コミュニティーだった事から歴史・政治的対立や人種問題などがあった事も事実だ。大きな企業はメインスポンサーになる事はなく、その為に完全プロ化できない状況だった。プロサッカー選手に憧れる選手たちは母国で試合に出ながらも海外への移籍を虎視眈々と狙っていた。

Capt.2:ウルバーハンプトン・ウルブズ

先に海外移籍したのはコリカだった。マルコーニ・スタリオンズの1992年のリーグ優勝に貢献し同年のU21ヤングプレーヤー賞を受賞する活躍を見せていた。その活躍の場をイギリス1部のレスターシティに移したのは1995年・22歳の時だった。翌年にはレスターシティの監督マーク・マギーと共にウルヴァ―ハンプトンへ移籍した。

マスカットは5年をサウスメルボルンで過ごしたのち、1996年満を持して海を越えてイギリスは南ロンドン、クリスタル・パレスに移籍した。これは前年に練習参加していたシェフィールド・ユナイテッドの監督ディヴ・バセットがクリスタル・パレスに移籍、と同時にマスカットを呼び寄せたという背景がある。彼もまた、無事にヨーロッパデビューを果たした。

1997年にマスカットはコリカの所属するウルヴァ―ハンプトンへ移籍する。彼を呼び寄せたバセットが1年でその席を解かれた事からマスカットの在籍にも疑問が投げかけられたのかもしれない。偶然にもセンターバックを探していたウルヴァ―ハンプトンの監督マーク・マギーにコリカが推薦したという話がある。7年ぶりに再会した(代表では会ってはいるが)二人がキャンベラ時代を思い出すのに時間はいらなかったようだ。コリカはマスカットの生活基盤を整えると共に悪友の様にどこに行くにも一緒だったという。サッカーのトレーニングだけでなく、スカッシュやビリーヤードなど競い合う仲だったようだ。マスカットは後のインタビューでコリカとの勝負を嬉しそうに語っている。「私が負けず嫌いなのは皆知っているが、私以上に負けず嫌いなのはコリカだよ。そんな風には見えないだろうが。」ウルヴェーハンプトンの時代に二人とも結婚し、家庭を持った。競い合ったわけではないのだろうが、共に第一子も同じ年に生まれ、二人の絆は家族の絆と成長していった。

2000年、コリカはバルセロナ・オリンピック・チームの監督であったエディ・トンプソンの誘いでサンフィレッチ広島へ移籍。2002年に再びイギリスに戻るが、マスカットは同年スコットランドのレンジャーズに移籍。再び別々のクラブに進むことになった二人だが、この頃の二人の名はオーストラリアA代表リストに名を連ねていた。

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Capt.3:Aリーグ誕生

1992年にJリーグが発足し、それに感化・影響を受けた多くのアジア諸国のサッカーリーグが再編されて行った。オーストラリアにもその波が届いた。だが再編には10年以上の歳月が必要だった。2002年のワールド・カップ日韓合同開催の成功はスポーツ好きなオーストラリア人の心に火をつけた。2004年4月に新リーグの発足計画が発表され、それまで行って来たナショナル・サッカー・リーグ(NSL)は2003/04シーズンで幕を閉じた。Aリーグ誕生は国内のオーストラリア人だけでなく、海外在住のオーストラリア人選手も注目していた。そしてその全容が明るみに出る。反応は様々だったが海外に進出していた多くのオーストラリア選手がAリーグへ関心を示し、契約を結んだ。海外クラブでの経験も十分に積んだ二人も母国の新リーグへ参加するために戻って来た。彼らは共に最初のプロ選手になった都市のチームに凱旋した。Aリーグでは既存チームを参入させることはなく、新スポンサーの元8都市でそれぞれ新チームを作る事から始まった。これはこの国のサッカーが持っていた閉鎖的なイメージを払拭するために必要な事だった。コリカはシドニーFCに、マスカットはメルボルン・ヴィクトリーに戻った。鳴り物入りで始まったAリーグの初シーズン・2005/06はコリカの所属するシドニーFCの優勝で幕を閉じた。メルボルン・ヴィクトリーは最下位は逃れたものの7位でシーズンを終えた。だが、首位のシドニーFCを5-0の大差で破る試合を残した。この1試合からこの2チームの対戦は「ザ・ビックブルー」(両チームのチームカラーから)と呼ばれる人気のカードとなった。

動画:スティーブ・コリカの選ぶ「ザ・ビックブルー」5選 ー勿論大佐で負けた試合は選んでいません。(ちょこっと若いランゲラックとアレックス・ブロスケも出てます)

https://youtu.be/vs6KIw6DAMU

メルボルン・ヴィクトリー初代キャプテンになったマスカットのエネルギッシュなプレイスタイルはメルボルン・ヴィクトリーの顔となった。そのスタイルは時にレッドカードの量産を招いたりもした。シドニーFCはトップスコアラーがいて、その脇には常にコリカがいた。その貢献から初年度のファイナルズ・ベストプレイヤー賞を受賞している。

コリカとマスカット

2008/09シーズンにシドニーFCのキャプテンになったコリカは翌シーズン優勝し、引退した。2010/11シーズンから同クラブのアシスタント・コーチに就任した。マスカットは初代キャプテンを引退の年(2010/11シーズン)まで続けた。その間にもう1度優勝を経験している。引退後彼もまたメルボルン・ヴィクトリーのアシスタント・コーチに就任した。2012/13年にメルボルン・ヴィクトリーの監督に就任したのがアンジ・ポステコグルーだ。サウス・メルボルン時代の彼の役職(アシスタント・コーチ)に就く事になったマスカットは彼の戦術を学んでいくことになる。翌シーズンにポステコグルーはオーストラリア代表監督に就任したため、わずか1年と半年の監督就任ではあったが、彼から多くの事を学んだであろうマスカットはシーズン中盤から正規の監督となりヴィクトリーを引っ張っていく事となる。そして翌シーズン(2014/15)を優勝の形で終えている。

強豪シドニーFCのアシスタント・コーチになったコリカだが、シドニーFCは彼が優勝した翌シーズンからスランプに陥ってしまう。2012/13シーズン早々に監督退任劇が起こり、次の監督が決まるまでの間の2週間(11月12日~27日)彼がチームをまとめる事(この間の彼の役職は監督ではなくケア・テイカー=世話人)になった。一説によるとシーズン前からメルボルン・ヴィクトリーとシドニーFCはアンジ・ポストコグルーの取り合いになっていたという。ポステコグルーがライバルチーム就任した事にクラブ内に不安と不満が出て来た事とその不満に監督が見切りをつけ、突然の辞職勧告を呼んだのではないかと言う憶測が立った。この騒動に巻き込まれる事なく彼はアシスタント・コーチの職に戻った。2014/15シーズンには現オーストラリア代表監督のグラハム・アーノルドがシドニーFCの監督に就任。ここから常勝シドニーFCが戻る事となる。

2014/15シーズンのクライマックスは「ザ・ビッグブルー」の戦いで幕を年だ。優勝したのはマスカット率いるメルボルン・ヴィクトリーだった。監督就任1年と半年でAリーグのチャンピオンに仕立てたマスカットは攻撃的な選手から実績と信頼のおける監督となった。アーノルドは強いシドニーFCの再構築を念頭に置き、3年目に実績となって現れる。2016/17シーズンの優勝決勝戦も「ザ・ビッグブルー」の対決になった。3度目の対決であり、2度目のペナルティ・シュートアウトでの優勝決定戦となった。結果は4-2でシドニーFCの勝利となった。その翌年ヴィクトリーはリベンジにやって来た。「ザ・ビッグブルー」の対決は準決勝で行われ、延長戦の末、ヴィクトリーが勝利し、そのままの勢いで決勝戦も制したのだった。これでマスカットは選手として2度、監督として2度の優勝を経験したことになった。

2018/19シーズン、満を持してコリカがシドニーFCの監督に就任した。7年間シドニーFCをピッチ外で、クラブ内を深く見て来た男が指揮を執った。コリカの負けず嫌いは変わっていなかったようだ。ライバル・マスカットが成し遂げたように監督1年目で優勝を遂げた。メルボルン・ヴィクトリーはセミファイナルでシドニーFCと対戦し、6ー1の大差で敗れ去る事となった。そして、これがマスカットのオーストラリアでの最後の試合になった。2019/20シーズンのシドニーFCは圧倒的な強さで優勝した。コリカはマスカットと同く選手として2回、監督として2回の優勝経験数を数える事となった。それは新しいいシドニーFCの時代の始まりかもしれない。マスカットとコリカの対戦がない事にちょっと物足りなさを感じているのは私だけだろうか?

Capt. 4:AFC チャンピオンズリーグ

新型コロナ肺炎の影響で試合形式が変わったがACLは今年も開催される。そして、今年のACLで又、コリカ対マスカットの試合が見れるのは嬉しい限りだ。マスカットのいないAリーグで無双状態を保っているシドニーFCのコリカ対ベルギーのシントトロイデンでアシスタントコーチから監督になったが成績不振で解雇になったのち、師であるポステコグルーを引き継いだ横浜F/マリノスのマスカットか、舞台バンコク。熱い漢の戦いを楽しもうではないか。

そして...

監督としてオーストラリアから世界に出たのはマスカットが先だが、コリカもその後を追って欲しい。いや、負けず嫌いなコリカの事、きっとマスカットの後を追って海を渡る事だろう。これからも続く二人の漢の物語はまだまだ続く。





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