240123_廃墟の美しさ

今日はTVerでクレイジージャーニーを見た。松ちゃん見れなくなるのか…と思いながら。奇怪遺産の特集でカザフスタンの核実験跡が映し出されていた。

雄大な自然の中で人の業がもたらした物が時間の中で自然に帰ってゆく。そんな様を見せてもらった様な気がした。

その様が美しいと思う所以だみたいな事を石神さんが言っていた。

そこで行われた事は肯定すべき事ではないが、(それを言ってしまうと人間の全てが肯定すべき事ではないとも事だとも思う)その自然に帰って行く様は美しいと感じた。

なぜその様が美しいと感じるのか、若しくは興味が湧くのか、自分のその根源の大部分はジブリだと思っている。小さい頃に宮崎アニメに没入する事によって生まれた心象風景に重ねて美しいと思う。(藤森建築が一般の人にも評価されるのは自分と同じ感性の人が多いからだとも思う)
 
そこにはもっと違う理由があるのでは?とも感じてきた。上述の石神さんの本を読んだからだろう。廃墟にアイデアを見出すトップアーキテクトがいるとは思ってなかった…

ジブリで終わらせずにもっとじっくり考えてみよう。

自分がもう一つ以前から考えていた事が、その場所の太陽に灼かれ、その場所の雨に打たれ、風に吹かれ、その場所に馴染んで行くという事だ。
そうして建物自身もその場所の色や匂い、音、延いては形になっていく物だと考えている。すなわちそれは建築文化(設計士のエゴ)とは無縁な物だと考えている。

それでも現代に生まれ、建築設計に携わる者としては建築文化の発展には少しなりとも寄与したいものだ。

寄与出来る部分とは何なのだろう?それは主題から逸れるからおいおい考えよう。

自然の雄大さに共感するから?
人間は壮大なものに共感する。宗教建築や宗教そのものはそうやって発展してきた。壮大な物や見た事のない物を見た時、人間には「これを手に入れたい」や「自分にも出来るかも」「敵わない」など共感の感情が生まれるものだ。
信仰から派生した美術がわかりやすい例だろう。

垂直や水平が風景に馴染んでいくから?
人が作り出した物が自然に淘汰されていくさまに圧倒されるからだろうか。人間の幾何学が自然の乱数に飲まれていくのを心地良いと感じるのかもしれない。

そもそも、人間の持つ審美感は自然を基準に判断しているからかもしれない。
自然の作り出す色、匂い、音、形それら全てに人間の本能が共感しているからかも知れない。

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