240201_豊かな生活と土を肥やすことと井戸

人口の減少が人類史上類をみない速度で進んでいる日本。GDPは下がる一方で日々貧困へと向かっている。

そもそも貧困とは何だろう。

今まで頼ってきたマンパワーも使えないとなると、我々はどこへ向かえば良いのか。
先人が必死で作り上げてきた豊かさは今壊れつつあるのではないだろうか。

そんな先人が創ってきた豊かさの中にいる我々が、改めて考える豊かさとは一体何なのであろうか?その答えは先人達が暮らしていた時代にあるような気がしている。

自分の中でそれは間なのではないかと考えた。言い換えると退屈や暇だ。

時の間で何かを想像し、空の間でくつろぎ、人の間で一喜する。

それは退屈であるが故の行いなのではないか。退屈から生まれた現代の社会には退屈、言い換えると豊かさが欠けているのではないか。

自分の住処として築120年を超える家、土地にお世話になるようになって思うのである。

貧困、人口減少、温暖化、日本においては、いずれ世界的に見ても今と同じ様な暮らしはできない。いやしてはいけない。

産業革命によってもたらされた利便性におんぶで抱っこの価値観を今こそかえねばならない。

情報革命によってもたらされた今までの価値観への疑問は変えるためのものではないだろうか。

これからの時代にあった豊かさをもっと真剣に考えてみなければならない。特に建築に携わるものとしては。

縁側に座って子供と一緒に庭を眺めていると、心の底から安らぐのがわかる。

にわにはにわにわとりがいて。四季折々の花がさいて、鳥の声が聞こえ、夏には雑草が生い茂り、子供はどんぐりに夢中で、冬には井戸がでなくなり、また鳥の声が聞こえだす。

文章だけでもいきそうである。

そうやって庭をずっと眺めると、安らぐと同時にひまなのである。
それでは「雑草を刈ってみよう」「木々の手入れもしてみよう」「落ち葉の掃除もしなくてはいけないな」
そんな雑用が自分の心を豊かにしてくれている。

その考えを建築士としての考えに落とし込んでみると、人間には「土が必要なのだ」と痛感する。

設計における土とは植物であり、食物であり、余白なのだ。

余白は安心するものであり、豊かなものである。

自分は畑はやっていないが、人間は土に生かされているといっても過言ではない。土は地球そのものだ。

話は逸れるが、自分は昔「生物が生き死にする事は土を肥やすためなのでは?」と考えていた事がある。なぜなら動物は地球の一部なのだから。

排泄物を処理し、亡骸を焼いてしまう現代人は何も地球に貢献できてないのではなどと考えていた。

土を肥やさねば。生きねば。

先日、家の井戸が出なくなり(冬には出難い地域なのかも)重要なインフラの一部を失った。対処はしているが、改めて「生かされている」事を痛感した。蛇口を捻れば水が出るありがたみを…
ありがとうございます。







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