230104_曖昧

建築に限らず、各ジャンルの批評と言うものがあるが、たまに凄く曖昧だなと感じる事がある。

言葉と人間の感覚とのズレが曖昧さの元だとおもうのだが、その曖昧さが凄く人間らしいなと感じる。そんな所から人の思考の複雑さを感じとれる。

感覚を言語化したところで、言語自体の曖昧さのせいで、評価している人の思考までは読み手の主観が介入しないと読み取ることができない。

一般的に建築や芸術、音楽を含めて良いものと言われるものに共通するのは共感である。
制作者の思いと技術とその背景が共感を生む。
思いが文化の先にいるものが芸術的と評価され、社会の先にいるのがデザインだと思っている。

ここで言う評価的な共感には、思いに同調するのも技術に驚嘆するのも背景に憧れるのも含まれている。どこにどう共感するのかは評価するひと次第だ。
そしてその感情を表現する言語という部分はとても曖昧で、理解するためにはその分類における教養がある程度必要になってくる。

それは別の言語を覚える事に近くて、ある程度の単語や文法を覚えていないと聞き取る事が出来ない。例えばジャズを大人になって初めて聴いた時には良さがあまり分からないが、色々な音源を聴き背景を理解する事で楽しめるようになるみたいな。

背景を理解するためには、そこでまた言葉が出てくる。やはり人間は言葉からは逃れられない。

実際の会話や、文字起こしの雑誌なども重要な情報源だが、やはり執筆者の想像力に自分の想像力を重ねて理解出来る書籍が1番だ。

もうひとつ大事な言葉の理解が批評だ。諸作品を理解でき始めたら批評に触れる事で、よりその分類の理解が深まる。
最近までは批評なんて、趣味の悪いダサいことだと思っていた。しかし今はその分類の発展にとってはとても大事な事だと思うようになってきた。要は批評を楽しめるようになってきた。

それは意地でもあり自分の価値観の表明でもあるのだと思う。価値観の押し売りではなく、純然たる文化発展の足掛かりのための表明だ。

そうやって論理的な経験値を貯めていく一方で若い頃にあった感覚的な琴線は鈍くなっていくのかもしれない。

悪くはない。

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