240129_植物と建築の関係について

最近「近代建築と植物について」が色々と話題になっている。それは世界的な環境保護の機運もあるだろが、日本においては少し違う見方がある様に思う。

そもそも近代化以前から、日本の建築に植物は不可欠な存在だった。不可分とも言える。それくらい豊かな、放っておけば草木が生えてくる風土である。

家族という仲間を家という単位で大事にしてきた日本の文化は、その中で、コミュニティを完結させることが出来た。

いっぽう西洋では植物というものは作るもの、それは裏を返せば環境の過酷さも意味するものであった。過酷な土地で生きていくためには(個)が大事で、一人では成り立たない環境のなかでその(個)が属する集団も大事にしてきた歴史がある。

これは都市部の町屋にはあてはまらないが…

コミュニティを完結させる為には内と外がなくてはならない。対外と対内。表と裏。

日本で言えば敷地、西洋で言う所の街。

日本で言う所の公共性、象徴性を持つ庭と、家という単位の一つとも言える建物。

西洋では庭の部分を街そのものが担っている。広場やカフェテラスがそうだろう。

我々日本人が緑を見て「良い」と思うのは、風土なのである。西洋の街をめぐって感じる違和感や、飽きは緑がない事に起因するのかもしれない。

そんな中、日本で見直されている植物と建築の関係である。その起因はやはり地球温暖化や社会の持続可能性であるが、建物の性能を高めるというよりは植物の可能性をもっと取り入れていかなければならないのではないかと強く思う。

所謂パッシブシステムの延長である。若しくは藤井厚二の再考か?

せっかくのこのよう「植物が勝手に育つような」芳醇な環境にある日本なのだから、省エネの事ばかり言わずに、雑草の可能性について考えた方がよいのではないかと常々考えている。

つまるところ建築を考える前に土を考えなくてはならない。土が植物を生やし、植物が生活を豊かにし、生活が土を肥やす、近代以前のあり方を進化させねば真の持続可能性は見えてこない。

小手先ばかりで繕ってきたために本質を見抜く力が育ってないのでは?

まあ金魚の糞には自分で考える事は無理か?

草生える。

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