240118_言語化と言語化できない部分

自分は今、言語化する事こそが建築の本質なのではないかと考えている。建築は自分の感覚で作るものではなく、自分の考えを人に伝えて大勢の人の考えで作り上げるものだからだ。

建築家の中には言語化できない部分こそ建築の本質だ…力だと言う人もいる。建築設計歴の長い人ほどそう言ってる気もする。

その世代的な価値観なのか、建築を考えた末に行き着く境地なのかはまだ自分にはわからないが、「言語化出来ない部分というもの」は言語化して作り上げたものの副産物もしくは偶然が重なり出来た物るものなのではと考えている。

その偶然を必然にする為、建築設計に携わる人は必死で努力しているのかもしれない。

しかし、実際に出来上がった物を評価する人はそんなことは気にしていない。良し悪しは感覚で判断するし、そもそも大半の人は建築の良し悪しなど気にしていない。多くの人の判断基準は記憶に残るか残らないかである。

ただ、今は言語化からの建築化を集中的に試してみたいのだ。「言語化した物」から生まれる「言語化出来ない部分」を作り出すロジックを探っているのかもしれない。

言語化し尽くしたその先が言語化出来ない領域が見えてくるのでは?とも考えている。

また、「言語化出来ない部分」を狙って出す事は至難の技だ。成功させるまでのハードルが多すぎる。それをしている人は芸術家に近い。

そう言う意味では、言語化出来ない部分というのは、詩に近いのかもしれない。少ない言葉で、個人の想像力に任せる。たしかにそれならば納得できる。

1人の作為に極限まで廻りが振り回される状況を作り出せば可能なのかもしれないが…それは文化的な突出点に偏り過ぎて「一般人の建築の本質」からは大きく乖離している気がする。

建築に携わる人からは崇められるし、そんな人達が一度は憧れるやり方ではあるとおもうのだが、「自分には無理だ」と嫉妬しているのかもしれない。

とにかく今自分が目指すべき建築は、「言語化した物の先は受け手に任せてみる、そこに説明はなくあるのは具象の言葉と抽象のイメージ」そういう物だ。


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