ブラックサバス (自作の小説)

ブラックサバス
A
 仕方なく生きている。
 
 SNSが良い面だけを切り取ったツールだなんて、都合が良すぎる解釈だと思う。
 
 通勤の電車でなんとなく携帯の画面を見てしまう時間、そんな時間が大きな何かの利益になる。けどなんとなく時間が潰れるし、呟いた内容にレスがついてるかもしれない。
 
 武藤真也は失われた世代のさらに失われた存在であった。持ち前の面倒臭がりが災いし勉学にも私生活においても、なんとなく仕方なく生きていた。
 
 仕方ない。俺のせいじゃない。
 
 いつしか口癖であることすら意識しなくなった。
 
 今は短期の派遣の仕事で高級ブランドの納品業務や倉庫のピッキングを掛け持ちして暮らしている。とはいえわずかに残ったプライドが遅刻や欠勤から真也を遠ざけていた。
 
 今日ははじめてのブランドでの現場である。幸いなことに発言権と合わせて人権もない。それは人間関係からの離脱を意味していた。ただ業務ににあたる、真也はそのシンプルさは気に入っていた。
 
 業界でも最大手、子供でも知っているようなブランドでの業務である。派遣先はある都市の路面店、ビルの数フロアを貸し切っての大型店舗の業務である。
 
 繁華街のど真ん中、ブランドの店舗が並ぶ中にその店舗はあった。一際美しく飾り立てられたウインドーには奇妙なポーズをとるマネキンにスポットライトが当てられていた。鏡の代わりに使いたくても、光が強くてよく見えない。

 
 ーおはようございます。武藤です。
 本日よりよろしくお願いしますー
 
 指定された勤務場所へ早めに着くと、二、三人の社員が砕けた格好で雑談をしていた。
 
 経済状況は最悪の一歩手前の薄皮が、ズルズルと剥け続けるような具合であった。ネオ富裕層と呼ばれる若者を中心に高級ブランドは堅調な売り上げを維持しており、真也のような人間にも仕事が存在していた。
 
 「おはようございます。今日納品多いんで、早めに捌いてくれると助かります。」
 雑談にふけっていた女の方が、軽くこちらにやってきて指示を出した。
 
 ネームバッジには“酒橋“と書いてあった、その上にはスペシャリストと書いてある別のバッジがついていた。
 
 「かしこまりました。」
 
 顔を見ただけでわかる。嫌なタイプのやつであった。真也くらい現場の数をこなすと所謂セールスマンのジャンル分けが瞬時にできる。
 
 ー上にへつらいつつ下には稲妻の如く厳しく、気に入った者には、プライベートでも親交を重ねる。ー
 
 ワイシャツのボタンを第二ボタンまで開けた男が追加の指示をよこした。
 
 「新商品は分けていただいて、あーあとはフォローか、なんとなくサイズ別にお願いしますね。わかんなくなったら聞いてください。あ、勝手に判断はやめてもらっていいすか。」
 
 手入れされた眉にほのかに香る香水、屈服したことのない目つき。見た目と機転だけでここまできました、というような若者だった。顔の割には腹がだらしない。きっと仕事後によく飲みに行っているのであろう。
 
 「かしこまりました。」
 ーさっきの酒橋よりはマシだが、こいつもたいした存在じゃなかろう。ため口きかないだけマシかー
 この若者はバッジを上着につけているのか、名前がわからなかった。だが、この若者に名前で呼ばれることなぞないんだろうな、そう思うと名前への興味が失せた。
 
 初日の仕事は昼過ぎには済んだ。若者の指示に従うまでもなく、高度にシステム化された納品群は捌きやすかった。現場の数をこなすと、店に立つ人間の優劣よりも本社の力を感じることができた。
 
 ーこんどの現場の本社はたしか業界では大手だったな。どうりであんな馬鹿どもを飼うゆとりがある。それが馬鹿どもの勘違いを生むわけだが…ー
 
 そんなことを思いながら、作業場から離れた。退勤を促す声もない、自分と煌びやかな品を売り込むのに忙しいのだろう。その日の責任者らしい酒橋に退勤をそれとなく促すと、ただえさえ張り詰めた顔が、さらにひどい顔になった。
 
 「退勤の指示はこちらが出すので、次回から気をつけてください。」
 
 「かしこまりました。」
 
 大抵の現場はこうである。派遣社員という身分は帰る時間すら確認が必要なのだ。社員たちは自分たちの業務に必死で、下の立場のものなどどうでもいいのだ。
 
 真也には制服が支給されていない。納品業務の割には黒いスラックスに黒いジャケットで出社せよ、と言われている。埃や汚れが目立つように気を使ってくれている。そう思うと皮肉な笑みすら溢れるのであった。
 
 仕方なく働いた時間が終わると、仕方なく戻る家がある。タバコもやめた真也は本を読むのが好きだった。高級ブランドが出店するゾーンから40分も電車に乗れば、見事に郊外。扱っている品を持つ人種など見事にいないのである。
 
 電車に乗って地元に着くと、図書館へ向かった。気が合う本を探すのが好きだった。本を読んでいる間は感覚が遮断された。一回に四冊借りて一週間で一冊読む。早ければ早めに返してまた借りる。その繰り返しであった。
 
 無限にある書物を読んでいるうちに、やがて仕方なく命も終わるだろう。もし途中まで読んだ本があったら、続きを読みたくてまた仕方なく生きるのだろうか。そう思うと、暗澹たる気持ちになってきた。
B
 仕方なく目が覚める。
 昨日の仕事はなんの収穫もなかった。そもそもだ、漁師のように目に見える収穫もないのに、収穫だ成長だの言うのは何故なのか?どうせ俺もお前も仕方なく生きているというくせに、どうせ俺もお前も生きる言い訳を探しているだけなのに。
 
 今日は昨日の現場の二日目となる。他の現場より幾分か時給が良い。当座のところここで時間が潰れれば、それでいい。
 
 指定の服装に着替えて家を出る。あまりスマートフォンを見たくないのだが、シフトと呼ばれる出勤確認表を一応見るためだ。
 
 真也のような派遣社員には○と❌しかない。いるか、いないか。
 当然のことながら記載も下の方である。記載は立場の順番である。
 
 昨日の張り詰めた顔の女“酒橋”はどうやら上から二番目らしい。そして若い男性はおそらく“大山”という名前だ。今日はその大山と見慣れない苗字の“街”とかいう奴がいるらしい。
 
 電車に乗る。例によって画面を見ずに本を読む。興味があるわけじゃないが、ココシャネルとかいう女の伝記を読んでいる。理念や情熱は素晴らしいと思う。だが情熱は伝播しない。現場はいつも疲弊していて、紛争にまみれている。
 
 勤務駅に到着する。この現場は定期代が出るのがいい。改札に表示されるICカードの残高が減らない。まるでスーパーマリオのスターを取ったようだ。
 
 現場は繁華街の一等地にある路面店。煌びやかなショウウインドー。いくつか現場を見たが、その内実まで煌びやかだった試しはない。
 
 到着してカバンを下ろし、指定されたロッカーへ貴重品を入れる。そして軽く身繕いをしたら正社員に出勤の挨拶をする。そしてタイムカードを切ることを許される。
 
 「おはようございます。」
 
 バックヤードの扉を開けると、誰もいない状態であった。作業用のPCの電源は入っているが、それ以外はがらんとしている。
 
 おおかた大山が打刻をした後どこかでタバコを吸いに行ったのだろう、そう思った。
 
 バックヤードに到着するのは人間だけではない。商品群が朝の時間にやってくる。納品を捌くだけの真也には、その量がその日の仕事に直結する。
 
 ピンポン
 
 呼び鈴が鳴り、バックヤードのモニターに配送業者が映る。ソワソワしている様子だ。
 
 「おはようございます。」
 仕方なしに応答をして解錠をしてやると、汗ずくの若者が段ボールの山を背に軽く会釈をしていた。
 
 配送業者は受領のサインが無いと帰れない。だが、こういう時に非正規の自分がサインをしてよいものか?一瞬迷ったが、汗ずくの姿に同情し真也はサインしてやった。
 
 「あざーす。この辺でいいすか?」
 特に返事を求めていない口調とともに、手際良く大きなダンボールを積んでいく。冷蔵庫くらいの大きさのもの含めて20-30個が積み上げられた。
 
 さてこれに着手するかとも思ったが、そもそも出勤をの打刻をしてないことを思い出した。
 
そこに電子タバコ一式を持った大山が私服であらわれた。
 
 「〜♩、うわー来てんなー。
 て、あれ居たんすか?適当に捌いてて構わないんで、次からそういう感じで。」
 

 「わかりました。」
 
 思ったより緩い対応に安堵しつつも、大山がタイムカードを切ってからタバコを吸っていることが気になった。だが、そんなことを言える立場にないので、打刻を大山に依頼する。
 
 「タイムカード切ってよろしいでしょうか」
 
 「あー、どーぞどーぞやっときますね」
 
 社内メールを覗きながら、出退勤のシステムをいじくって操作した後、大山はまたPCの画面に視線を落とした。
 
 ーさて、やるかー
 
 こういった大量で大型の納品の場合、大きなものから片付けるのがセオリーだ。案の定大山は手伝う兆しもない。備品のカッターとゴミ袋を用意して最も大きいものから開封を始めた。
 
 大きな箱には、いくつかの中くらいの紙の箱があり、そこに革のバッグが入っている。これを手にすることができるのは、どんな奴なのか…ついている値段を見ながら少し考えた。
 
 リズム良く開封をしながら、指定の棚へとバッグをしまっていく。初日に感じた通り大きな会社なので品番の管理がしっかりしており、品物に振られた番号順に棚に入れればいいだけ。
 
 開ける段ボールの大きさが中くらいのものになり、中から柄だらけのワンピースが出てたころ背後から化粧品のかたまりのような匂いがした。
 
 「あーかわいー売れそー」
 
 髪の毛をくるくるに巻いた若い女が制服をきっちりと着用して現れた。これがシフト表の“街”らしい。
 
 「大山くん、ディスプレイ担当でしょ?ちゃんと派遣さんに指示したの?なんかもう並べちゃってるみたいだけど」
 
 いきなり不穏なものを持ち込む女だ、と顔を見てみた。コナっぽい化粧は完璧に整えられ、ネイルもきれいにしている。全身から可愛らしいオーラが滲み出ている。
 
 「えっ、俺指示したんすけどね、新しい感じのやつ避けてって言いませんでしたっけ?」
 
 そういえばそんなことを言われたような気がした。が、品番順で納品されている以上、そんなものは見ればわかると思った真也は言葉に詰まった。
 
 「はー、ざっけんなよ。あ、いーっす俺の指示不足っす。あーどいてどいて。」
 
 乱暴に納品作業に割り込んできて、開けたばかりの高そう…高いのだが…なバッグや服を引きずり抜いて、別の場所へ叩きつけるように大山が置きはじめた。
 
 一瞬の沈黙の後、作業を続行すると“街”が小さな箱の納品を割と手際良く開封し始めた。
 
 「街、ちまたです。よろしくお願いします。」
 
 「武藤です、よろしくお願いします。さっきは申し訳ありません。」
 
 「いえ、お気になさらず。早くからありがとうございます。」
 
 綺麗な喋り方だった。顔も整っている。きっとこの女は全てを持ってここにいるのだろう。そして、それを使ってさらに羽ばたくのだろう。それに比べて自分は小僧に叱責をされて何一つ言い返せない。
 
 街が手伝ってくれて、だいぶ目処がついたころ店舗の開店がやってきた。大山も街もしっかりと上着を着て店頭へ出て行った。
 
 ーあと少しー
 雑多なものを片付けて、ゴミを捨てて作業は終わる。そう思うと気が晴れてきた。
 
 ピンポン
 
 また呼び鈴が鳴った、モニターには私服を着た遅番の社員たちが一瞬映ったが解除キーを持っているのかそのまま扉を開けて入ってきた。
 
 四、五人いたが律儀にもみな自分のブランドの品を身につけている。女が三人と細長い男が一人、そして真也の少し上か四十くらいの男が一人いた。
 
 みな更衣室に向かいつつ、真也のことを一瞥したが、みな会釈をしつつ流れて行った。
 
 ー挨拶をするのが、めんどうくさいー
 
 そう思うと作業の手は進み、急ピッチで終わらせることができた。作業を終えて持ち場を整え、着替えが終わって戻ってきた四十くらいの男に声をかけた。
 
 「おはようございます、本日の作業以上です。」
 
 「…あ、武藤さんですか。ご苦労様でした。ご挨拶遅れましたチーフの櫻井です。」
 
 「まだ、お時間よろしいですか?軽いミーティングをしたいので。武藤さんさえよければですが。」
 
 「かしこまりました」
 
 仕方なくミーティングとかいう面談をすることになった。
 
C
 
 櫻井とのミーティングは取り止めのないものだった。服務規定と会社の社風の説明。良い意見があればどんどん言ってほしいといった内容だった。
 
 高級ブランドの店長級ともなれば、年収はなかなかのものというのが派遣筋での噂だ。男はなんとなくそれらしく振る舞い、女はその立場を守るため強烈な振る舞いをする。それが経験上の店長人間像だった。
 
 会社の説明においては、この情勢下でも人材は募集しており。チャンスはあるので意欲的に取り組んで欲しいとも言っていた。
 
 三十路を越えた男にチャンスをぶら下げたところで何もない。真也には野心がなかった。
 
 かつて真也にも夢があった。海外のホテルマンの流麗な仕事ぶりや一流のバーテンダーと一流の客とのやり取りに憧れた。
 
 一流の場所には一流の人間がいるに違いない。
 
 そう思って地方の百貨店の新卒採用にたどり着いた。これで一流に近づける。あとは自分に厳しく、他者に優しく努力しよう。そう思った。
 
 が、現実は違った。衰退産業であることに加えて、閉鎖的な人間関係は何も産み出さなかった。
 
 期待していた一流の客なんてものも一握り、来る日も来る日も狂ったように文句を言う“お客様”対応とレポートのためのレポート、売れもしない品の始末に追われた。
 
 そんなことを思い出しながら櫻井との面談を終え現場を離れると、ちょうど午後3時ごろになっていた。
 
 掛け持ちしている倉庫のピッキングまで移動時間も含めてゆとりがあったので、真也は図書館で借りた本を携え喫茶店で時間を潰すことにした。
 
 若者に人気の甘い飲み物を出すコーヒーショップは明確に嫌だった。楽しそうな若者は何より、不景気特有の怪しげな何かに騙される奴を見るのが嫌だった。
 
 騙されるのは期待をするからに他ならないと確信していた。さっきの櫻井の面談に絆されて意欲的になったところで何になる。わかっていることだ。仕方のないことだ。
 
 自分との対話もほどほどに喫煙所のある不味い喫茶店で不味いブラックコーヒーを飲む。コーヒーの芯の抜け切った不味さだ。色ばっかり黒い。苦味しかない。まるで自分のようだと声を出さず笑った。
 
D
 今日はどの仕事も入れていない休みであった。友人もなく、恋人もいない真也は部屋で腕立てなどをすると、もうすることがなくなってしまう。休みの日ほど憂鬱になる。かと言って働き詰めも体がもたない。
 
 とりたててすることがないので、改めてスマートフォンの画面のシフト表を見てみた。
 
 櫻井
 酒橋
 片岡
 佐々木
 街
 南野
 大山
 宮嶋
 小林
 黄
 陳
 
 派遣
 派遣

 いい並びだ。
 仕方なく生きてきた割には、何か組織の歯車に食い込めてるような錯覚を覚える。流れ着いて打ち上げられた流木、それが自分なのだと思っている。
 
 画面をそっと閉じて明日の予定を把握すると、また読書ができる。そう思った矢先に派遣会社の担当からメールが入っていた。
 
 “お世話になっております。
 
 派遣先のXXより、延長の依頼が届いております。また、経験が評価され店頭での業務も兼任していただきたいとの打診も届いております。武藤さんのお返事お伺いしたく存じます。お時間ある時お電話いただければ幸いです。“
 
 派遣会社の案件は一ヶ月毎の更新。大きな会社だと早めの更新打診は珍しくない。が、店頭での業務が気掛かりだった。
 
 今更、客の前に立って何になる…
 
 その思いが、返事を打つ手をためらわせた。店頭での業務ということは、拘束時間が増えて掛け持ちは厳しくなる。当座の生活もカツカツな状況でもある。
 
 ーさて、どうしたものか。ー
 
 心の中で呟くと、先程のシフト表が頭に浮かんだ。あの並びに名前が入る、人権のない奴が急に権利を与えられる。人間関係を遮断し、挫折しかない俺が組織に入った時、組織はどうなるのか…見てみたい…
 
 真也の中で、意思が目覚め始めた。あの夢に向かっていた頃ではなく、少し煤けて半ばやけっぱちの意思だ。
 
 “お世話になっております。
 
 今回の話、お受けします“
 
 真也は簡潔に返答をすると、近所の床屋へ向かった。
 
E
 仕方ない、そもそも仕方とは何なのか。何かに強制されているのか、それとも自責からの諦めなのか。
 
 散髪がてら顔を剃ってもらうと、精悍な感じに仕上がった。原来、人に不快感を与える見た目はしていない。整えれば年相応の深みがある男に仕上がる。
 

 これまで通り慎重に出勤をする。派遣会社からの打診の件は表に出さず、冷徹に職務にあたる。そう決めていた。
 
 出社すると櫻井がワイシャツ姿でPCへ向かっていた。ワイシャツはアイロンがかかっている。社員の制服は業者がクリーニングをしているらしい。
 
 「おはようございます。」
 
 真也は抑揚のない挨拶を櫻井に投げかけた。
 
 「おはようございます。
 武藤さん、派遣会社の方にも伝えたのですが改めてよろしくお願いします。実は、人員が足りず、店頭が回らない状況で…トレーニングはしていきますので、分からないことがあったらおっしゃってください。」
 
 「ありがとうございます。」
 
挨拶を終えると、また納品の山があった。こんな景気の中で一体なぜ高級品が売れるのか。真也が会いたかった一流の客という奴が消費をしているのか。一瞬そう思いかけたが、仕事としての処理にかかることにした。
 
 三日目ともなれば納品の流れはだいぶ見えてくる。ずぶの素人ならまだしも複数の企業の納品の経験値がある。その気になれば納品から売れ線の筋すらも見えてくる。
 
 今日の出勤はあの酒橋や大山、街もいれば佐々木、宮嶋、南野という中堅どころも出てくる。そして中国語が喋れる黄の予定だ。
 
 比較的テキパキと納品を片付けると、あの酒橋が先日とは打って変わり上機嫌でやってきた。
 
 「チーフ、今日の朝礼で最近好調の大山さんが成功事例をシェアしたいと言ってるんですが、よろしいでしょうか?」
 
 「大山くん、、?あーそうだね。じゃあお願いするよ。よろしくです。」
 
 そういえば作業をするバックヤードに手作りの撃墜表のようなものが貼ってあった。月毎に成績優秀者を表彰しているらしい。
 
 真也などが納品を捌き開店を迎え、遅番と呼ばれる最後まで居る人間が揃った段階で朝礼をするらしい。
 
 ーシェアか…成功体験はシェアされて初めて成功体験となる。どこでも変わらないようだー
 
 胸にクソを詰められたように不快な気分になりながら作業をすると、あの酒橋がこちらにやってきた。
 
 「武藤さん、こないだ納品業者の受領サイン勝手にしましたよね。社員の仕事なのでお願いだからやめてください。」
 
 「申し訳ありません、ですが私しかいなかったのでやむなく…」
 
 「大山くんがいたでしょ?なんで呼ばないの?タイムカードの時間も遅かったし、虚偽報告はやめてください。」
 
 「申し訳ありません」
 
 ーそうきたかー
 
 案の定である。最初の印象の通り立場の低いものには強くでる。この業界にはよく居るタイプで、現状の意地のためなら鬼になれる。吐くほど見てきた。
 
 震えるほどの怒り、過去そんなものもあった。今はそんなものはない。あったとしても自覚できる範囲。そんなもので身を持ち崩す、若さが真也にはなかった。
 
 では代わりになにがあるのか。
 
 地図である。
 
 すでに頭の中のシフト表の人間が立体的に順位になっている。ここに食い込む、そしてそこで何が起きるのか目撃する。
 
 派遣社員の契約は月単位、タイムリミットは短い。限られた時間の中でそれを成し遂げる。それこそが悪魔のさなぎの目覚めだった。
 
 仕方ないことだ、
 歯車にもなれない自分には
 入り込むゆとりもない
 だが、、、
 
いつもよりも数段早く納品を捌き終え、社員の連中が働きやすいようにより整理を行い。誰もやろうとしない、バックヤードの清掃を行った。
 
 探していた。ほころびを。
 
 真也は人間関係の把握から始めることにした。
 
 F
 当座の狙いは酒橋だ。あのタイプの人間は敵も多い、撃墜表を見たところ成績はそれほどでもない。数字で身を守れないからこそのパフォーマンスであり、下への圧なのだ。
 
 だいぶ製品についてもわかってきた頃、櫻井からコーチ役として佐々木という同い年くらいの男性を紹介された。なかなかの強面で長髪を後ろで束ねている。
 
「佐々木です。私は店舗でバックヤードの管理とアフターサービスを任されてます。」
 
 低い声でそう呟くと、つまらなそうにタブレットに資料を表示させた。
 
 “店頭接客マニュアル(派遣用)“
 
「これに沿って話をしますね。まあ建前中心の内容なので、それなりに聞いてください。」
 
 佐々木は頭の良さそうな男だった。言葉の端々にユーモアがあり、とてもわかりやすかった。そして面白いことを言っていた。
 
「色んな人がいますが、私は上司は予算だと思っています。ですので商品以外でしたらどんどん盗んでいただいても、変えていただいても結構です。」
 
 説明をひとしきり聞くと、そのまま昼休憩となった。納品捌きだけならそのまま上がりだったが、店頭に出るとなると昼休憩が与えられる。
 
 佐々木とは気が合いそうだったが、変わった男で休憩も一人でそそくさとどこかへ行ってしまった。
 
 親睦を兼ねてではないが、櫻井に言われて街が休憩に同行しくれた。
 
 聞くと、佐々木は人間嫌いで食事をしたあと何処かで寝ているらしい。
 
 街は、いわゆる販売員らしい女性だった。真也の年齢と佇まいから“危険”と判断をしないのか、話し相手として認められたのか軽やかに話し始めた。
 
 「男性がいると助かるんですよ。チャラいのじゃなくてですね。」
 
 「みなさんしっかりしてるように見えますが、、?」
 
 「うっそー、大山くんとか頭空っぽですよ。女と数字くらいしかないんじゃないですかあの人。」
 
 たしかにそういう風にも見える。だが真也が聴きたいのはそういう話ではない。
 
 「酒橋さんのように“キッチリ“した方がいると皆さん安心ですね。私も先程指摘を受けました。」
 
 「ああ、サケですね。あのひとパワハラで行く場所なくてここに来たんですよ。ほら、百貨店とか厳しいですけど、ここうちの会社の直営なんで。」
 
 「パワハラ…?そんな方に見えませんけど」
 
 「武藤さん、ここだけの話ですけどあの人、何にも派遣社員潰してますし、マタハラっていうか、妊娠した人飛ばしてます。」
 
 「へぇ…」
 聞けば聞くほどに気の毒な人だった。だが、おおよその関係性が見えてきた。その他、結婚の有無や前歴を聞くことができた。
 
 街は話してる間もスマートフォンで何かをしていた。登場した時は不穏だったが、話しやすく仕事に一定の距離を置いている女性に感じた。
 
 化粧直しの為、早めに退席した街にお礼を言いつつ、思考を巡らせた。
 
 ふと思い立ったように酒橋の名前を検索してみたところ、そこには実名のアカウントSNSがあった。
 満面の笑みの写真、海外旅行の写真、会社の人との旅行。さりげない苦労話。ここに出ている陰で、一体何人葬ってきたのか。

 昼休みから戻ると、早めに戻っていた佐々木が細々とした作業していた。器用な男で、簡単な修理なら道具さえあれば店で直してしまうらしい。
 
 「お戻りになりましたか、じゃあ店頭行ってみますか。今日は平日なので混みませんが、ちょうど宮嶋の顧客が来てます。まぁ見物しましょう。」
 
 宮嶋というのは、比較的若手で所謂イジられキャラのような男だった。全身をブランドに包んだ夫婦を前に、大量の服や鞄を紹介していた。
 
 「あー、やってんな。見苦しいでしょ?ちょっと手伝ってきます。」
 
 言うや否や佐々木はテーブルの端のほうにある商談にないものを手早く片付けてはバックヤードに引き上げていった。
 
 「とりあえず武藤さんはこういう感じでフォローに入ってください。商談に使うものを取ってきていただいたりも、あります。まぁなかなか面白い業務です。」
 
 わかりやすい説明を受けながら、他の社員の様子を見ていた。真也は持ち前の観察眼からおおよそ客が何を求めているかわかることに気づいた。
 
 同時に社員たちの無言の力関係にも気づいた。派閥意識や上下関係、店長である櫻井がいるかいないかで変わる態度の差。面白いくらいに想像の通りだった。
 
 宮嶋は顧客に数点の商品を販売し出入り口に見送りに出た後、酒橋に呼ばれて小言を言われていた。内容はわからないが、拳を握りしめて悔しそうな表情をしていた。
 
 ぼんやり眺めてると、佐々木がやってきて呟いた。
 
 「あいつトロいから目をつけられてるんです。一度、心やられて休んだんですが…だもんで、武藤さんも面倒見てやってください。」
 
 呟くと、小言を言われてる方に近づいて行った。酒橋はそれに気づくとバツが悪そうに小言を切り上げて何処かへ歩いて行った。
 
 G
 二週間が経ち、佐々木に言われたサポート業務に加えて接客もこなすようになった。業界でも大手である、それを求めて客が来るわけであって誰が担当しても売れる時は売れる。
 
 真也が販売をすると、一部の社員は嫌な顔をした。例の撃墜表は給料に関わっているらしく、手書きでふざけたイラストなども添えられていたが、実は醜い争いの縮図だった。
 
 ただ、撃墜表に変化が現れていた。
宮嶋の成績が上がってきている。このことに気づく人間はまだいなかった。真也は彼の接客“だけ”をフォローしていたのだ。
 
 もともとイジられキャラで自分というものが希薄な宮嶋は、真也の目的に最適だった。意図的に話しかけ、質問をしながら頼る素振りを見せて距離を縮めた。
 
 手先の遅い男だったので、真也は全て片付けてやった。そして店頭に立ち“買い気”に満ちた客がいるとそれとなく宮嶋に客を振った。
 
 地味な行いだったが、みるみる数値は上がっていた。
 
 「武藤さーん、サンキューです」
 
 距離は縮まった。

ある日の休憩で宮嶋と一緒に昼食を取ることになった。近場の定食屋へ一緒に行く。なかなかうまい店で量も多く、このブランドの社員の御用達らしい。
 
 とりあえずしょうが焼き定食を頼み雑談の中で真也は切り出した。
 
 「酒橋さんは厳しいですね、見てるこっちまで辛くなりますよ。」
 
 「あの女、クソなんですよ。
 大山ばっか目にかけて、機嫌悪いと挨拶すらしないんです。けど、歴が長いから店長も文句言えないんす。」
 
 「でもほら、数字さえ良ければ黙るんじゃないんですか?」
 
 「や、逆っす。結局ほかの業務の揚げ足取られたり、私の戻りです(通称・ギャング行為というらしい)とかやられたりですね…」
 
 「それ、今話題のパワハラなんじゃないんですか?」
 
 「あーそうっすね。自分、一回営業に相談したんですけど、成長のチャンスとか言われた挙句、チクったこと逆恨みされて、酷い目に遭いましたよw」
 
 笑いながら話してはいるが、目の周りはひくひくと痙攣していた。これは一度壊された奴の特徴だった。倉庫でもこの目をしてる奴を何人か見た。自分では御せない心の傷が痛々しかった。
 
 「宮嶋さん、実は私も倉庫のバイトでパワハラを受けた経験があります。」
 
 宮嶋は食べながらも熱心に聞いている、
 
 「私も少し精神をやられましたが、パワハラの現場を録音して本社に提出したら善処してくれましたよ。」
 
 「うちの会社、そういうの受け付けてるかなぁ…」
 
 「もしよろしければ、私が使っていたレコーダーを貸して差し上げます。機会があったら、使ってください。」
 
 そういうと宮嶋にペン型のボイスレコーダーを差し出した。使い方を説明すると、興味津々な様子でいじっていた。
 
 ーこれでまず一つー
 
 不気味な躍進をする宮嶋の成績はいまや大山に迫る勢いがあった。こないだの朝礼とやらのはしゃぎぶりを見るに、酒橋は大山を買っている。
 だからこそ宮嶋に圧をかけにくる。真也はそう確信していた。
 
H
 勤務が始まって一か月が経過した。
先月の成績は大山が一位を死守したものの、宮嶋が二位に入り込み店舗はちょっとした騒ぎがおきた。
 
 真也の業務は佐々木の直轄管理におかれ、たまに接客のコツなんかを教えてもらうが基本的に放任されていた。
 
 そんなある日の朝礼で深刻そうな顔をした櫻井が皆の前で切り出した。
 
 「えー、悪いニュースです。
 最近、本社宛にウチの店へのクレームが立て続いているという注意をうけました。内容としては、よくあるパターンなのですが
 
 買わなそうと思われたのか無視
 お得意様にだけはしゃぐ
 見える場所で部下を叱責する
 雰囲気が悪い
 
 といったものです。
 みんなを信じてますので、
 悪い面が切り取られたと
 そう思ってます。
 ただ、心がけだけは
 しっかりお願いしますね。」
 
外資系ブランドの路面店ともなれば、スタッフの方が力がある。そんなものは一昔前で、今はカスタマーの声に戦々恐々としていた。
 現場はよくあること、として流しているがリアルをしらない本社は過剰に反応をする。これもよくある構図であった。
 
 佐々木なんぞは態度の悪い客がいると、強面をさらに強面にしてるから危うそうなものだが、あれでクレームを起こしたことはほとんどないらしい。街たち女性社員は、ネイルや髪の毛の色をたまに指摘されるそうだ。
 
 朝礼のあと、佐々木と街がバックヤードでぼそぼそ会話していた。
 
 「マチコよ(ちまた、と読めないのでこう読んでるらしい)なんかサケが店長に呼ばれてたな。あいつなんかしたんか?」
 
 「えー、また誰かの告げ口してるんじゃないんですか?やだぁ、私かなあ。こないだギリギリに来たのバレたのかな」
 
 「たわけ、そんな金もらってないんだから堂々と来い。ケツの時間すら守れねえんだ、アタマの時間はほどほどにしてりゃいいんだよ。」
 
 佐々木は長髪を結び直しながら話した。
 
 真也は変わらず、効率的な納品とより販売しやすい配置に勤しんでいた。倉庫での感覚が大いに役に立っており店としても真也の作業内容に一目置くようになっていた。
 
 櫻井との面談から戻ってきた酒橋はとんでもなく不機嫌で、バックヤードに閉じこもりPCのボタンを舌打ちしながら打ち込んでいた。
 それを見た誰もが近寄らず、理由を知りたがった。
 
 真也は理由を知っていた。
 
 クレームのメールを入れたのは真也だからだ。わざわざ、自宅や勤務地から離れたネットカフェから偽のアカウントでクレームを入れてやった。
 
 やはり大きな会社なだけにお客様ごとになるといとも簡単に動く。仲間内でゴタゴタしてても無駄なのだ。
これまでそんなことをした人間はいなかった。逆にそこまでする人間もいなかった。
 
 酒橋を追い詰めるには、まだピースが足りなかった。宮嶋に託したレコーダーはどうなったのか…気になりつつも、催促するわけにもいかない。真也は次の行動に移ることにした。
 
 
I

 あのクレーム多発から少しばかりの緊張感の後、組織は元に戻り始めた。日々、開店と閉店を迎え新しい月を迎え、新しい年を迎える店舗というハコはある意味で自浄作用があるのかもしれない。
 
 酒橋は少しだけなりを潜めた。噂ではSNSで少しだけ荒ぶっていたらしいが、あまり大きな影響はなかった。彼女の作り上げていた派閥は急に勢力を弱めているように見える。
 
 酒橋の勢力は、子飼いにしている大山、古い付き合いだと言う南野という既婚女性、小林という新入社員のギャルだ。
 
 酒橋が呼び出しを食らったことは、あっという間に拡がり余計な噂まで拡がり始めた。
 
 ーついにパワハラ詰められたか
 ー大山とデキてるのか
 ーそもそも、なんで役職なの?
 

 新入社員の小林は、SNSにも登場している“可愛い後輩”という奴だった。何をするにも酒橋の後を追い、店舗の業務の根幹的なものももジャレながら行っていた。あの宮嶋をふざけ半分でイジっていたのも、この小林であった。
 
 真也は納品を捌くだけでなく、季節に応じ入ってくる商品を有効的に収納したり、作業スペースを確保するために不要な書類を捨てるなどの体を使った仕事をすることが多かった。主に佐々木の指示で行われるこれらの業務は真也にとって得意分野であったが、他のスタッフが手伝うことは稀であり、店頭に立つまで小林の姿を見たことはなかった。
 
 小林は学生に毛の生えたような生き物が、かろうじて制服を着ているような女だった。謎のプライドがあるのか、真也のような派遣社員には年齢を気にせずタメ口で指示を打ち下ろしてくる。
 
 撃墜表のランクはそんなに高くはない。佐々木曰く、
 「まず顔が良くねえしな、あいつから買う意味が希薄なんだよ。しかもオラついた客が来ると萎縮する。まぁ訓練が必要だな。」
 と砕けた口調だが芯を食った評価だった。
 
 その小林である。
クレーム騒ぎでイラついた酒橋から、珍しく些細なことで怒られて以降はなびく相手を変えたのかバックヤードでも姿を見るようになった。
 
 真也はまた更新の依頼が来てはいたが、派遣社員のスーツのままなこともあり当初から小林には相手にされない。
 大山は数字作りに必死なことに加え、小林も謎のライバル意識があるのか険悪であった。
 佐々木は先程の評価の通り口も悪く、靡くような人間にとことん厳しいので寄り付きもしない。

 では、誰になびいたのか。誰に守ってもらうのか。
 
 酒橋が睨みを効かせていたときは分、息苦しさこそあれ厳しさが店舗に満ちていた。アンチこそ多かったが、表面上は緊張感があった。だが、今は櫻井が直接細かいところまでを指示しなければならなく、男性特有の抜けた感じもあり、どこかフワッとした空気が漂っていた。
 
 櫻井は面談をしてくれたり、真也にとっては悪い人間ではなかったが、最近はどこか疲れたような様子だ。

 高級ブランドの店長の仕事は店頭の陣頭指揮だけではなく、人事評定の一次評価者やシフトの作成、諸々の責任者として忙殺されがちだ。

 櫻井はそんな店長の中でも温和なタイプだと真也は判断していた。年齢以上の風格があったし、見た目も悪くない。スーツの制服を着れば、ちょっとした“人物”に見える。
 
 小林が靡いたのは、櫻井であった。
 
 ある日、真也が業務を終えてPCの業務をしている櫻井に挨拶をした時
 
 「店長ー、お疲れ様でした。」
 
 「ん、ああ、武藤さんおつかれ」
 シフトを作っていたようで、細かいマスに入力をしていた。
 
 「武藤さんはお休みの希望提出してませんよね、非常に助かるのですが遠慮しないでくださいね。」
 
 「ありがとうございます。本当に何もないですから。」
 事実、何もなかった。
 
 「オッケーです。それでは今日もお疲れ様でした。」
 
 真也が挨拶を終えると、待ち構えたように小林がPCを打つ櫻井の元に駆け寄って行った。
 
 小柄なため制服の靴も大きいのかぺたんぺたんと音がするが、今日はとりわけ大きな音だ。
 
 帰り際に真也に聞こえたのは、猫撫で声の小林と小林を下の名前で呼ぶ櫻井の雑談であった。
 
 仕方なく働いてきた真也にとって、仕事をしているとき常に死のイメージがあった。本来の自分ではない自分、特に自分を表現しないように努めてきた。それはまさに自分を殺すことであった。
 
 だが小林は自分を剥き出しにして生き残りを図ろうとしている。店舗という小さいハコの中での派閥で、しっかりと自分を出そうと足掻いている。
 
 ー歯車になれない理由はこれかもなー
 
 真也はそんなことを思った。
 
 少しだけ変わった勢力図、少しだけ弛緩した人間関係。だがハコの自浄作用は自分という異物をいつか弾き出すのかもしれない。歯車になれない自分は歯車に食い込む小石になるしかない。だがそれでも回り続けた小石がどこに行くのか…運命の機械の外か中か…それも仕方がないこと。
 
 帰り道の電車で本を読んでいると、櫻井からメールで来月のシフトが送られてきた。相変わらず真也の名前はない。苦笑いしながら画面を消そうとしたが、櫻井と小林の休みの日がことごとく一致してるのが気になった。
 
J 
 それからしばらくは平穏な日々だった。ブランドの売り上げは好調であり、予算に対しても数字を追える状態。社員たちは付かず離れずで仕事をしているように見えた。
 
 真也は変わらず宮嶋のお目付を続けていた。誰もが見くびっていた宮嶋を演出するのは楽しかったし、素直に感謝をする宮嶋にも好感が持てた。宮嶋の仕事ぶりは少しずつ丁寧になってきたし、数字も持ち前のキャラクターのおかげで大山に常に迫っていた。
 
 そんな中、櫻井からイベントの開催が通達された。普段は取り扱っていない商品を本社に交渉して店舗へ取り寄せて期間限定で販売会を行う。
今回取り扱うのは、スーツのパターンオーダーと時計らしい。
 
 スーツか…
真也には苦い思い出があった。
新卒で入った地方の百貨店、そこで配属されたのが紳士部だった。
スーツといえば紳士服の花形、だったのも遠い過去である。
 
 真也はスーツが嫌いではなかったので、採寸や生地の知識はそれなりにあった。映画や小説からの知識で、男のスーツに関しては良いバランス感を持っていた。
 
 慌ただしい日々の中で知識を生かし頭角を表してきた真也に立ち塞がったのは、同じく紳士部に配属されていた女性新入社員と、直属の上司であった。
 
 直属の上司は厳しい男だった、
 “百貨店マンなめんなよ”が口癖の軽薄な男だった。毎日、仕事終わりに同期と飲みに行っては別部署の女性の話ばかりしていた。
 
 女性新入社員はそれなりの見た目であったが、仕事ができない女だった。何をするにも真也の三倍の時間がかかった。真也はその女が大嫌いだった。丁寧にしゃべりこそすれ、ぞんざいに扱った。
 
 そんな二人が、ある日から親しくなり始めた。
 
 ことごとく一致するシフト、仕事中に二人でどこかに消える、広まる噂、滞る業務。
 
 真也は限界に近い怒りを覚えて、本部へ訴えた。
 「仕事になりません」と
 
 本部は速やかに動いた。
 
 真也を異動させたのである。
好きだったスーツの仕事から、ギフトサロンに異動させられた。そこではベテラン中年社員の噂話とクレームにまみれた。
 
 そこで聞いた噂話の一つが
 あの上司と女性社員が親密になるきっかけは、女性社員が真也のことが“こわい”と持ちかけた、からというものだった。
 
 あまりのくだらなさに、真也は会社を逃げるように去った。
 
 ーあれ以来のスーツかー
そうえば履歴書にも、有資格のところにテーラリングに関するものを書いた気がする。聞かれれば答えるが、まぁ派遣社員には意見を求められることはないだろう。そんなふうに考えていた。
 
 櫻井からある程度くわしい計画書が真也にも手渡された。なんとなく資料を眺めていると、催事の担当者に自分の名前も含まれていた。
 
 佐々木、大山、小林、武藤
 
怪訝そうな顔をしていると櫻井が
 
「武藤さん、スーツのご経験ありますよね。ぜひサポートをお願いします。」
 
 と声をかけてきた。
酒橋や小林は汚らわしいものを聞いたような冷たい顔をしていた。
 
 ー仲が悪くなった割には、一緒の顔だ。派遣社員が表立つのはさぞ面白くなかろう。ー
 
 それにしても櫻井も間が悪い男である、嫌な思い出を思い出しているタイミングで謎の抜擢。ただ、歯車に食い込む小石としては手詰まりも感じていたので真也としては悪い話ではない。
 
 「武藤さん、今回のイベントに関しては佐々木さんと大山さんに任せてありますのでよろしくお願いしますね。あと小林さんは初めてのイベント担当なので、宮嶋さんのようにサポートしてあげてください。」
 
 宮嶋のフォローのことを指摘されたのは意外だったが、小林について念を押されたことがやはり気になった。当然と言えば当然だが、わざわざそんなこと言うだろうか。
 
 その日の仕事終わりにキックオフミーティングとやらに誘われることになった。メンバーは櫻井と大山と小林と、賑やかしとして宮嶋である。佐々木は、催事の主幹だが飲み会は嫌いらしく参加しないらしい。
 
 懐は豊かではないが、乗りかけた船であること、そして頭にある疑念を確かめたい思いから珍しく出席の返事をした。
 
 夕食を兼ねて店から近いイタリアンバルとやらに行くことになった。
 薄暗い店内にワイン樽の上に板切れを乗せたようなテーブル、天井からは無数のワイングラスが吊り下がっている洒落た店だった。
 
 それぞれが一杯目を頼み、それがテーブルに到着すると櫻井が音頭をとった。
 「ではですね、佐々木くんはいないですけど(笑)イベントの成功を期してかんぱーい!」
 
 宮嶋、大山の若手は大きな声で合いの手を入れながらグラスを高々と掲げて打ち合わせた。小林はアルコールの弱そうな、ピンク色の飲み物のグラスをチョコンと櫻井のジョッキに重ねた。真也は掲げたグラスをそのまま口に持ってきた。
 
 話の内容は宮嶋の最近の活躍の茶化し、大山の異性交友関係の自慢、最近の本社の様子など取り留めのないものばかりだった。真也は苦痛だったが、何らかの情報があればと相槌や頷きを繰り返した。
 
 人間関係のない倉庫は楽だった、そんな思いが頭に巡っていると、酔いが回った宮嶋が酒橋の話を始めた。
 
 「サケさんも寂しい人なんすよ!
 ありゃ男がいないんだ!絶対年下好きですよ。僕、どうすかね!いけると思いますよ!」
 
 小林までもが涙を流して笑っている。
 「宮嶋さん、マジキモいんですけどー!」
 大山も声をあげて笑っている。
 
 宮嶋はさらに続ける
 
 「店長!僕を拾ってくれてあざーーす、僕イベントのためにめっちゃ頑張るんで、見ててくらさーい!」

 櫻井もまんざらでもない様子で
 「ミヤジはイベント担当じゃねーだろ!」
と笑っている。
 
 大山は場数があるのか、盛り上げるタイミングで笑い、最適なタイミングで皿を避けたりオーダーをかけたりしていた。乱れた場を正すように、大山は切り出した。
 
 「武藤さんは、なんでウチなんですか?スゴイ仕事できるっぽいですし、ウチのなにが好きなんですか?」
 
 ー小僧の分際で、、仕方ないからに決まってるー
 
 「派遣会社から紹介されたからですよ。やってみたら居心地いいんでここまでやって来れてます。」
 
 「え、流れすか?」
 
 真也は言い返せなかった。
 
 流れであった。仕方ないを口癖にここまできて、なんとなくこれまでの人生の苦味を精算するために、適当な復讐の相手として、組織をかき混ぜてやるのが目的だなんて言えなかった。
 
 いいタイミングで宮嶋がわめいた
 
 「僕は武藤さん来てくれてたすかったー、大助かりー」
 
 心の中で宮嶋に感謝して苦笑いで誤魔化していると、櫻井が会計のコールをかけてお開きへと持ち込んだ。
 
 会計は櫻井が多めに払ってくれた、宮島と大山は大きな声で礼を言いながら小林を誘って二軒目に行こうとしていた。
 
 時刻にして23:00、真也は確信を突かれた痛みと徒労から一刻も早く独りになりたいと思っていた。
 櫻井たち社員は私服だが、真也だけが指定のスラックスだったことも疲れを倍増させた。
 
 「今日はありがとうございます、お疲れ様でした」
 
 逃げるように駅に向かい、駅前のコンビニでコーヒーを買い柱にもたれて茫然とした。
 
 ー何も得るものがなかったー
 ー行くんじゃなかったー
 
 疲れとアルコールが回った足と、浮腫みが顔を出しそうな頭に喝を入れていると、この時間でも絶えることのない人通りが目に入った。
 
 人通りの中には、たくさんの人が真也のブランドの所有者がいた。一体どんな奴が買っているのか?その答えが夜の街を歩いていた。
 
 水商売の女、アウトローの男、スカしたホスト、イキった男
 
店の連中が売った媚びが、夜の街の信号になっている。持つものと持たざる者を分ける信号であり、ただの記号だ。
 
 ーくだらない、だが俺には、力がない…ー
 
 空になったコーヒーの容器をゴミ箱に叩きつけると、またクレームのメールを偽装して送ってやろうかと再び繁華街に足を向けた。
 
 するとそこには、枝垂れるように櫻井に腕を絡ませる小林の姿が見えた。
 
K
 櫻井と小林は楽しそうにしてた。
確か櫻井は妻帯者だった気もするし、小林も彼氏がどうとか言ってた気がする。歩いていた駅は勤務地の最寄り駅、迂闊といえば迂闊だ。
 
 後をつける事も考えたが、疲れていることもあり辞めた。櫻井に好感を持っているわけではないが、彼にしたら息抜きなのだろう。割とそういう事がある業界だ。ただ、小林のように若く、ものを知らない女に手を出すと危うい気もした。
 
 久しぶりの酒の席という事もありひどく疲れた真也は帰宅すると布団へ直行した。
 
 ほんの少し前までは、断絶した人間関係から石を放っていれば達成感があった。置き石をすれば鉄道が止まる、そんな感覚だった。
 だが、今は違う。組織の中に入ってしまうと嫌でも人間関係には組み込まれる。
 大山の言っていた、“流れ”という言葉の響きに吐き気がした。たしかにその通りだが、ひどい敗北感が真也の全身に撃ち込まれた。
 
 明くる日の勤務日からは催事の準備に追われた。
 
 催事担当社員は二つのグループに分けられる。
 
 1.商品に関するチーム
 
 2.顧客活動に関するチーム
 
 他のブランドでもある程度そうなのだが、実は商品自体はそこまで重要ではない。こういった店内の催事の場合、集客が重要なのだ。
 遠方の客や、そこまで頻繁には来ない太客。とびきりのVIPなどを店舗に来てもらう口実としてイベントを行う。
 
 従って顧客担当には歴の長い佐々木とトップセールスの大山が、商品担当には小林と真也が配置された。
 
 佐々木は
 「茶番だ茶番だ。」
 などと言いながらも、買い上げ客のデータを紹介して、その担当セールスに呼び込みを依頼していた。スーツという男性向けの催事ではあるが、ネクタイやベルトなども手配されるため、ギフト需要のある女性客もしっかりリーチするなど抜かりがなかった。
 大山は自身の顧客の呼び込みのため、電話や手紙などの大騒ぎでハナから佐々木を手伝う素振りも見せない。トップセールスの特権はここでも発揮されていた。
 
 佐々木もそこまであてにしていないのか
 「大山くんは水商売の才能もある。
 今からでもホストだ。トップを狙え。」
 などとからかっていた。
 
 小林は櫻井からの指名に張り切っているのか、商品の総合台帳と睨めっこをしながらカラフルなペンで依頼するリストを書いていた。依頼は本社へメールで行うはずだが、なぜかイラストを添えたりして手書きをしてた。
 
 真也は、バックヤードの面積から考えて物量が過多になってしまうことを避けるため。今ある商品の一時的な返品を小林に打診をしようかと思っていた。品揃えは、完成したものを“見せてくれれば”意見を述べようかなと言ったところだった。
 
 そんな中、PCの業務に飽きたのかバックヤードをくるりと眺めた佐々木が声をかけてきた。
 
 「武藤くん、小林の作ってる手配リストやばそうだから見ておいてくれ。初物だから張り切ってポカするに決まってるんだあんな奴。」
 
 相変わらず酷い言い方だが、何かを気付いたような様子だった。
 
 返品したい物量もおよそ目処がついたのでバックヤードの作業台に肘をついてリストを書いてる小林に声をかけた。
 
 「小林さん、今よろしいですか?」
 
 「あ、はい」
 
 「納品にあたりまして、今ある商品をある程度返品しないとストック厳しいと思うんです。」
 
 「え、あたし聞いてない」
 
 「申し訳ない。私の意見なのでご相談です。」
 
 「でも売れる物なのにもったいなくないですか?催事中フツーのものも売れるし」
 
 あくまで反論してくる口調だ。
まるで自分の後ろには店長がいるかのような自信に満ちていた。
 
 「例えば、嵩張るスーツケースですとか…」
 
 「はぁ?今回スーツのイベントですよ?そこ返品はないでしょ。」
 
 「申し訳ありません。でしたら、一応リストを拝見してよろしいですか?」
 
 「まだ出来てないんで、後で確認してください。」
 
 「わかりました。」
 
 ーこのクソガキー
 派遣社員ごときが、という侮蔑がたっぷりと含まれた物言いだった。
会話が終わるとまた台帳を広げて手書きのリストに何かを書いていた。
 
 真也は腐るほど企画したスーツフェアのことを思い出した。あの同期の新入社員の女も
 “マネキンにスーツケース持たせましょうよ”
 などと言っていた。
 
 ーまあ仕方がないことだ、社員と俺ならば責任を取るのは社員だろうー
 
 そう諦めると、店頭で接客を手伝いながら自分の仕事を探した。その日は割と混雑し、なかなかの売り上げを叩き出した。
 
 同じような日々が二、三回続いた。
 
佐々木たちは顧客活動のベース作業を終えて櫻井に施策案として提出した。一人当たりのアポイントメントの目標値も添えられ、そつのない仕事を仕上げていた。
 
 こちらの作業の確認に入るなり、佐々木は黙った。
 
 「武藤くん、小林の商品依頼リスト全く進んでないようだ。我々も手伝うのでそのつもりでいてくれ。」
 
 以前佐々木から“見てくれ”と言われた時と違って冷淡な言い方だった。弁明をすることも考えたが、佐々木の性格を考えてやめた。
 
 佐々木が回収した小林のリストを手荒に渡してきた。
 「これ量も多いな。」
 リストを見ると大変なことになっていた。店がもう一つ増えるレベルだった。
 
 「佐々木さん、削るにしろ一時的に返品をして催事用在庫スペースとらないと受け入れできません。」
 
 「わかった。本社には俺が言っておくので移動処理頼みます。何箱で何ピースくらいだね?」
 
 「10箱、100前後やります。」
 
 「今日やってくれ。急ごう。」
 
 以前、小林に提案した時から目処をつけていた品を手早く集約し、スキャナーと呼ばれる端末で読み込みを行い返品の明細を出力した。
 
 明細を出し終わると、バツの悪そうな顔をした小林が突っ立っていた。
 
 「返品、手伝います。」
 
 明らかに佐々木に絞られて不機嫌です、と言った雰囲気に吹き出しそうになったが
 
 「ありがとうございます。今梱包ですので大丈夫です。」

 作業は一人でやりたかったし、プライドを折られた小林は悪い空気を持ち込みそうだったのでやんわりと断った。
 
 小林はそそくさと売り場に戻ると
 「いらっしゃいませ。」
 と、ぶりっ子声で接客に入った。
 
 その後、リストの作成は大山と真也で行った。大山はトップセールスだけあって選定のカンがよかった。ただ直感型なのか品番や展開までは把握してないようで
 
 「あ、色違いあったんだ…」や
 「うわ、あの人にこれいける…」
 
 などと、いちいちリアクションを取るのが面白い男だった。真也はおおよそ必要なものと、高単価なオーダースーツが売れなかった保険にネクタイやカフリンクを多めに依頼することを提案した。
 
 「あ、いいすねそれ。」
 
 と大山はこだわらなかった。
 
 「ではリストに追加します。」
 
こんな具合でリストは完成した。
小林のリストの原型は跡形もない。
最終稿を確認した佐々木は
 
 「どうにか間に合ったな。」
 と安堵した表情だった。
 
L
 リスト通りの商材は無事到着し、どうにかバックヤードに収まった。紹介しやすくする為、入り口付近に配置した。
 
催事まであと二日というところでようやく目処がついた。真也も派遣社員という立場を弁えながらだが積極的に意見を言った。
 
 こんなことは、あの新入社員以来だった。充実感と同時に、何かを見過ごしているような不安もあった。あれ以来、急におとなしくなった小林である。
 
 そんな中、雑多な作業をしていると急に酒橋が現れた。
 
 「武藤さん、ちょっといい?」
 
 意外な呼び出しであった。
 
 「あのさ、催事担当だから忙しいのはわかるんだけど、序列は無視しないんで欲しいんだ。」
 
 「…?」
 
 何を言っているのかわからない。
 
 「あたしに話降りてきてて、あんたが佐々木に有る事無い事言って仕事の邪魔してるって何回もクレームきてんの!」
 
 「小林さんですか…?」
 
 「そこは問題じゃない!和を乱すなって言ってんの。お願いだからシャシャらないで。あなたには失望してるの。」
 
 「お、お言葉ですが自分も業務の最善を考えてます。そのことだけはご理解頂けませんか…」
 
 「…」
 
しばらくの沈黙の後、真也は拳を握り言った。
 
 「至言として受け止めます。ありがとうございました。」
 
 酒橋は糸のように目を細め、真也を侮蔑するように去っていった。
 
 ーやられたー
人間、怒りも度を超えると血の気が失われる。まさか切れたと思っていた小林と酒橋のラインが復活するとは思ってもみなかった。

冷たくなった手で作業を続けようとしても、思うように手が動かない。こんな思いをするのも新入社員のあの頃以来だった。
 
 その日の休憩時間は街と一緒になった。街はイベントには関わっていないものの、何となく俯瞰で見ており状況をわかっているようだった。
 
 「あと二日かぁ、めんどくさいですねぇ。私の顧客来るかなぁ。」
 
 とりとめのない話題から入り
 
 「準備、大変でしたね。ありがとうございました。」
 
 「私は何も…」
 
 「さっきサケに詰められてました?」
 
 「はい…」
 
 「あー、やっぱり。
 小林、最近サケと近いもん。」
 
 「…?」
 
 「なんか一時期ケンカしてたけど、
 またベタベタしてて、こないだなんか“姉さーん”だって。」
 
 話を聞きながら、小林という自分よりも遥かに若い人間が、才能なのか本能なのか生き残る為ありとあらゆる事を利用する強さを持っていることに気づいた。
 
 その強さが自分には欠如してることにも気づいた。自分なら“仕方ない”と忘れることや、反省することであったとしても、小林はそれをしない。
 
 酒橋にしても、偽クレームメールで潰した気になっていた。何年もあの立場を守ってきた奴が、そんなことで潰れるわけがなかった。
 
 ー弾き出され石というわけかー
 
 取り戻しかけた自信や情熱が、小娘とみくびっていた人間によって破壊されつつあった。
 
 ー仕方ない、だが気になるー
 
 諦めかけたが真也はある疑問が浮かんだ。悔しさもあるが、小林はそもそも櫻井とどうなっているのか。半ば捨て鉢になった真也は意を決して街に尋ねた。
 
 「あの、ここだけの話なのですが小林さんて店長と付き合ってますか?」
 
 自分でも驚くような直球だ。
 街は表情が凍らせ、声を落とした
 
 「え、うそでしょ…」
 
 「こないだ、キックオフミーティングの帰りに見ました。」
 
 「キモ!」
 
 「はい…」
 
 「あーキモいキモい、本社にチクったら一発で飛ぶ案件です。今うちの会社も厳しいから。」
 
 「そうなんですね。」
 
 「うぇー、あたし密告してやろうかなー。」
 
 街は化粧直しをしながらおどけていたが、本当に軽蔑した目をしていた。
 
 真也は街の言った
 “一発で飛ぶ”
 その言葉を頭の中で反芻していた。
 
その後、催事当日まで勤めて無感情で準備にあたった。催事に対するぼんやりとしたポジティブな気持ちは消え失せた。
 
 催事当日、晴れの土曜日という絶好のセールス日和も真也は憂鬱でしかなかった。全社員で二時間も早く出勤し、本社から来る買付部の人間(通称MD“マーチャンダイジング”)のスーツに関するご高説を聞くことになっている。
 
 櫻井は士気を高める為、真也にも早出を命じた。真也の気持ちを知ってか知らずか、社員同等の扱いを櫻井は続けてくれた。
 
 こう言った業界のMDの人間はかなり独特な人間が多い、ブランドイメージと日本法人とビジネスと自身のキャリアと、複数の要素を天秤にかけて働いている。英語は完璧であり、現場の人間ともフランクに接するが、明らかに目上のものと言った雰囲気がある。真也から見れば天上人のようなものだ。
 
 
 真也が職場に着くとサーファー風の男が、丈の短いパンツのスーツにノータイで櫻井と打ち合わせをしていた。
 
 「おはようございます。」
 
 真也が声をかけると櫻井と二人して爽やかな笑顔でこちらを向いた。
 
 「おはようございます。」
 
 「伊藤さん、こちら派遣社員の武藤さんです、スーツのご経験が豊富なので今回の商材選定に加わっていただきました。」
 
 「おー、そうでしたか。よろしくお願いします。」
 
 ーああ、この人が伊藤かー
 商品依頼リストはメールでやりとりされていて、佐々木や大山がプリントアウトしてくれたメールにItoという署名があった事を思い出した。
 
 見るからに潤っている、嫌う要素がないくらいに爽やかな男だった。
 
 ー勝ち組かー
 そう思うと自分の境遇が情けなくなると同時に、少し冷静になってきた。
 
 ーこんな奴がいて、店の中で優劣を競うなんて、動物園のナワバリ争いと一緒だー
 
 そう思うと、気分も晴れてきた。
 
 
 ぞろぞろと社員が出社し、全員が揃ったところで朝礼がはじまった。
伊藤の商品説明は饒舌でユーモアを交えながら進んだ。身内ネタのようなものは理解できなかったが、商品とブランドに情熱があることは窺えた。
 
 酒橋や小林はここぞとばかりにメモを取り、潤んだ瞳で伊藤の話を聞いていた。媚を売る、切り替えることに関しては天才的だ、真也はそう思った。
 
 朝礼も終盤に差し掛かり、催事担当より業務連絡をすることになった。佐々木は今日来店予定の顧客を読み上げ担当者は来店時間にフリー(接客状態ではない)でいるように指示をかけた。
 
 次に佐々木の紹介で小林がバックヤードの状況とラインナップを説明することになった。これは完全に佐々木のアドリブだった。
 
 指名された小林は緊張しきった表情でおろおろと在庫の位置を説明した。あまりにもお粗末な説明に周囲がざわめいた。
 
 小林はほとんど催事担当業務をしていない。ラインナップも大山と真也で添削をしたので殆ど見ていない。佐々木は明らかにこれを狙っていた。本社の人間の前で恥をかかせる、とんでもないお仕置きだ。
 
 半泣きになりながら説明を終えた小林、その空気をリカバーすべく櫻井が締めの言葉で強制的に朝礼をお開きにした。
 
 それぞれが持ち場に散りゆく中、真也は大山が小林に声をかけているのが目に入った。
 
 「やってないから喋れないんだよ。当たり前じゃん。だせえな。」
 
 普段の大山から想像できない冷たいセリフだった。小林はその場で泣いてしまい、酒橋やその他の女性スタッフが慰めながら何処かへ連れていっていた。
 
 あっけに取られる真也に佐々木が後ろから声をかけた。
 
 「あいつ、自分の仕事の負担が増えて頭に来てたからな。カマしたな。」
 真也はその口ぶりから、大山を焚き付けたのは佐々木だと思った。
 
 混乱の朝礼からの怒涛の初日、店は気候にも助けられ記録的な売り上げを叩き出した。大山の顧客が北海道からやってきて一人で800万近く買上げたりと、ブランドの力と個人の力を見せつけた。
 
 真也も昔取った杵柄で何着かスーツのオーダーを取った。大山に提案した小物の売り上げも良かった。仕事での成功なんて何年振りかだった。櫻井も上機嫌で催事担当チームを称え、途中で帰った伊藤も閉店後に賞賛のメールをよこした。
 
 小林はその日早退した。
それを聞いて真也は少し気の毒に思ったが、密告をすると報いを受ける…そんな事を思い、櫻井と小林のことはしばらく黙っていることに決めた。
 
M
 一週間実施したイベントは成功に終わった。大山はじめ実力ある社員が顧客売り上げで大きな実績を作り、このスーツカテゴリのポテンシャルを本社へアピールすることにも成功したようだ。
 
 小林はその後、欠勤を数回したのち退社をした。小林の親が退社を伝えて静かに消え去った。社員は皆、慣れているのか多少噂話はしたが、やがて誰も小林の話をしなくなった。
 
 櫻井も店長の顔である。初めから火遊びだった、そもそもそんなものなかったような顔をしている。
 
 イベントが一段落すると、店は静かに戻る。店の歯車たちは、忙しかった時の疲れも癒えぬまま日々の業務戻っていく。
 
 大山はあのイベント以来更に一皮剥けた様子で、トップセールスとして盤石の地位を築いていた。宮嶋も相変わらず頑張ってはいるがレベルが違うように感じた。
 
 そんなある日、櫻井に軽く呼び出された。契約更新の話だと予想される。
 
 「イベントではお疲れ様でした。非常に良いパフォーマンスでした。武藤さん、どうでしょう長期の派遣から正社員へのクラスチェンジに挑戦してみませんか?」
 
 「私がですか?」
 
 「はい。また武藤さんさえよろしければですが、最初にお話しした人材不足、まぁウチの店の場合更に人材が減ってしまったわけで…即戦力として武藤さんをリストアップしたいんです。いかがですか?」
 
 「ありがとうございます。ぜひお願いします。」
 
 これも大山には“流れ”と馬鹿にされるのかな…そんなことを思いながらも真也はチャンスの小舟に乗ることにした。
 
 歯車に挟まる石になるつもりが、歯車になろうとしている。自分の中にある矛盾を感じつつも、このブランドでの仕事に慣れてきた。組織をかき混ぜてやるという欲望もある。
 
 そして、小林のように何かを失って心が壊れるのが嫌だった。仕事があるということは、仕事という鎖に繋がれること、鎖の重みは今の真也の気持ちを落ち着かせた。動くと鳴る鎖の音は、まだ生かされてる、そう思わせていた。
 
 チャレンジには段階がある。まずは半年の長期派遣としてパフォーマンスを見られた後に、営業部の面談が執り行われる。そしてその上の営業部長、社長と面接が続くらしい。
 
 ただエージェント会社などの仲介と違い、店長という現場責任者の後押しがあると幾分か有利になるとのことであった。
 
 ーパフォーマンスか…ー
 
 あの催事くらいから、真也は接客に自信がついてきた。もとより先を読んで行動をしてきた。年相応の場数もある、宮嶋のサポートや納品業務で商品知識は着実に蓄えられていた。
 
 撃墜表で目立つということは当然のことながら酒橋やまだ見ぬ敵の目にも付くということだ。こんな小さいコミュニティであっても政治的要素は発生する。
 
 ーどう攻めるか、どう食い込むかー
 
 派遣社員としては“できる”という評価であっても、社員として“できる”ということは違う。
 
 そのことを様々な現場で見てきた。この点が真也を正社員から遠ざけたし、またこの点が正社員のプライドを増長させることも分かっていた。
 
 手近な存在として改めて宮嶋を観察する。宮嶋は店舗でのセクションは革小物、通称SLGを担当している。業務としては在庫管理をしており、佐々木のバックヤード担当と似ているが宮嶋は棚卸を管理していた。
 
 業務をしながら売上をつくる、売上を作りすぎると嫉妬の波に襲われる。おおよそのところそんなものだった。
 
 長期の派遣社員となった真也には制服が与えられた。これで客から見て違いはわからない。また一つ歯車に食い込めた、そんな気持ちになった。
 
 制服を与えられてから宮嶋のサポートは控え目にした。さすがにお目付をしながらでは売り上げは作れない。
 
 業務は引き続き佐々木の元で納品やバックヤードの管理だ。佐々木は正社員化を目指していることを櫻井から聞いたのか
 
 「何処がお気に召したのか不明ですが、良かったです。引き続き頼みます。」などと声をかけてきた。
 
 戦場は思ったよりドロドロとした戦場であった。そもそもの経済状況、高額品が日々売れること自体異常である。
 
 店内を見ている客に真也が声をかけて接客を始めようとすると
 
 「おかえりなさいませぇ」
 
 と謎の声かけで割り込まれることがよくあった。
 
 以前、宮嶋が言っていたギャング行為とは少し違い、一度声をかけた客が戻ってきた場合、最初の販売員が優先される謎のルールにも苦しめられた。
 
 そんなある日、真也が店頭にいるとラフな格好の夫婦がやってきた。
 
 「いらっしゃいませ」
 
 軽く声をかけると、しばらく付かず離れずの間をとった。真也は試行錯誤の末、自分がやられて嫌なことはしない、そのために“見る”時間を客に与えるようにした。
 
 ラフな夫婦はバッグや革小物のコーナーを指差しながら頷いたりしている。
 
 「まだ、出せていない形ございます。ぜひお声がけください。」
 
 そう切り出すと長身の夫がにこやかに言った。
 
 「あの、大きめのカバン探してます。僕大きいもんで…」
 
 「かしこまりました。いくつか見繕いお持ちしますので、お好みなどございますか?」
 
 「特に無いんですが、嫁のOKないと買えないんで、格好良いのお願いします。」
 
 全く読めないオーダーだった。
真也は持ち物から大凡の懐具合を見る。それに応じて紹介する品の金額を決めるのだが、この夫婦は全く読めない見た目をしていた。
 
 とりあえず真也は大きめのトートバッグとボストンバッグ、そしてブランドが誇る最も手が込んだ高額なトートバッグを持って夫婦に紹介した。
 
 持たせると、どれも似合う。
堂々たる体格をした亭主はどれも似合う。強いて言えば高額な物はやはり一味違うオーラが出ていた。
 
 高額品の接客が始まると、他の販売員からの視線が発生する。こと、真也は派遣社員だ。店舗の中には、
 
 “高額品社員売ッテ然ルベシ”
 
 といった謎の空気が蔓延していた。
 
 「ご主人、私がみなさんにお伝えしてるのは…格好いいのが正解だということです。せっかくお求め頂くのであれば、直感で決めた方が後悔ないかと存じます。」
 
 真也はそこまでファションに興味がない。そもそも買い物する財力もない。ただ、この時は本心でそう言った。
 
 「直感かぁ…なぁどう思う?」
 「あなた、決めなよ。いいよどれでも。」
 「え、じゃあ…コレください」
 
 「!」
 真也は少し驚いてしまった。そのバッグは国産のセダンくらいの額はするものだった。そしてまだ金額の案内はしてなかった。
 
 「ありがとうございます…では、お会計の支度を整えますのでこちらへ…」
 
 夫婦を会計などをするテーブルとソファーへ案内する。バッグの細かい部分を点検し、異常がないことを確認し、金属の会計皿を持って夫婦の元へ跪く。
 
 会計を提示すると、嫁の方がカバンから札束をポンと皿に置いた。綺麗に揃った新札だ。そして嫌味がない。
 
 札束を持ってレジへ行くと街が会計を手伝ってくれた。
 
 「すごいじゃないですかー」
 
 そこから先はよく覚えていない。
大きな箱に大きなバッグを詰めて、大きな紙袋に入れる。山吹色の紙袋にそれを入れて旦那に渡す。
 
 「あ、名刺もらえます?」
 旦那はにこやかに真也に言った
 
 「申し訳ありません、まだ私研修中でして持ち合わせておりません。私、武藤がご案内しました。また、何かございましたら…」
 
 「武藤さんね、お世話様」
 
 旦那は嬉しそうに
 「買っちゃったな」と
 おもちゃでも買ってしまったような口ぶりでバッグを肩に担ぎ店から出て行った。
 
 真也は深く下げた頭を上げることが出来なかった。確かに自分の生活の為の仕事だ、売上は欲しかった。ただ、客の方を向いて話をした。純粋に丁寧にやった。それだけだった。
 
 見送りが終わると、街と佐々木が迎えてくれた。
 
 「やったな、コレでもう今日は閉店だ。」
 
 佐々木はふざけて肩を叩いた。
 
 ーいいんだろうか、自分でー
そんな疑問がふわふわと頭に沸きつつも、努めて冷静に振舞った。
 
 そのあくる日、この大きな商談は朝礼でシェアされ社員の間で微妙な空気になった。
 
 “武藤ハ数字ヲ狙イニキテイル”
 
 顔は見えない、声はないが
 悪意の存在だけは感じる。
 
 真也は歯車の軋みを感じつつも、日々の業務を冷静にあたることで悪意から目を逸らすことにした。
 
N
 あの夫婦はそれからも二週間に一度やってきては真也を指名し買い物をした。店舗としても重点顧客と認識され、夫婦がやってくると真也は何処にいても呼ばれるようになった。
 
 撃墜表にも変動が現れ、真也は少しずつ順位をあげて行った。
 
 ある日、櫻井が
 「武藤さん、最近いいパフォーマンスですね。小林さんのこともあるので少し面接を早めましょう。私からプッシュしますね。」と、声をかけてきた。
 
 「ありがとうございます。」
 
 あの小林のおかげで自分にチャンスが巡ってくる、不思議な因果を感じた。そのチャンスをもたらしたのは誰なのか?冷たい一言を放った大山なのか、けしかけた佐々木なのか、それはもうわからない。
 
 人間関係に食い込んでみる、半ば捨て鉢の気まぐれ…随分と様子が変わってきた。ただ、酒橋とその一党からの圧は依然としてあった。
 
 ー保身のためなら鬼になるかー
 
 真也は宮嶋と同じシフトになることが多かった。なるべく口にはしないようにしていたが、宮嶋の吐く酒橋の愚痴には同調してしまう。
 
 「いやぁシンドいです。あの人どこも異動出来ないんですよ。なにせ前科ありますからねえ、ククク」
 
 「そうでしょうね。最近わたしもそう思います。」
 
 「武藤さん凄いですよ、表情変わんないんだもん。僕なんて、すぐ泣きそうになるし…」
 
 「宮嶋さん、その気になれば絞め殺す覚悟ですよ。男ですから、いざとなればそれくらいの覚悟でやりましょう」
 
 「そうだ!ぶっ殺してやるー」
 
 「その調子です。」
 
 「あー大山くんに勝ちたいなぁー」
 
 「やれますよ。」
 
 宮嶋のおどけた感じに接すると、この男は組織の歯車として潤滑油として役割を演じているように思えた。
 
 真也は改めて人間関係の地図を俯瞰で見た時、綻びというのは自分なのではないかと思うようになった。混沌とした人間関係だが、自分という異物が入ることでさらに混沌が加速している。
 
 ある仕事終わりである、櫻井が
 「ちょっとみんなでラーメンでもどうですか?」と声をかけた。
 
 真也はラーメンくらいならと快諾し、そこにいた大山、珍しく佐々木が近くのラーメン店に行くことになった。
 
 「こないだのイベントはお疲れ様だったね」
 
 櫻井が切り出した。
 
 「若い世代の力ですな。」
 佐々木は割と真面目に言った。
 
 届いたラーメンのゆで卵を一口で食べながら続けた
 
 「大山とか、そろそろ昇格させてやりませんか。うかうかしてると転職しちまいますよ。なぁ。」
 
 麺を丁寧にレンゲに乗せてからすする大山は笑っている
 
 「僕なんてまだまだですよ。」
 
 櫻井はそんな二人を見ながら嬉しそうに麺をかき込んでいる。
 
 男四人、ラーメンは一瞬でなくなり手短に店を出た。
 
 喫煙者である大山がコンビニの前の灰皿に行くと一同も、ついて行った。元、喫煙者だという佐々木は
 「くせえ、くせえ」
 と毒づいたが、ちゃんと着いてきてくれるあたり面倒見がいい。
 
 櫻井は満腹なのか腹をさすりながらも満足そうに
 
 「これで、武藤さん入ってくれたら店も落ち着くね。人不足は本社にも伝えてたんだけど…ようやくだよ。」
 
 佐々木は櫻井の方を向かずに
 
 「ま、小林も飛びましたしね。」
 
 とサラリといった。
 
 真也はここでその話題かと驚いたが平静を装うように割り込んだ
 
 「準備の時はいろいろありましたからね。」
 
 二人が付き合っていた疑念は消えてない、そして佐々木と大山がそれを知っているのかわからない。
 
 複雑な人間関係のせめぎ合いである。
 
 電子タバコをケースにしまいながら大山が言った。
 
 「遅かれ早かれじゃないですか、僕は良かったと思いますよ。彼女にとっても。」
 
 この男、最初は酒橋の犬かと思ったが少し違うようだと最近わかった。こいつは自分を高めるために、そしてわからせるために働いているように感じる。
 
 「結局は数字を見られるからな。俺たちゃどうせ兵隊だ。あいつが続けたところで言い訳探してその度に喚くだけだ。」
 
 佐々木はバッサリだ。
 
 櫻井はぼんやりとした様子でそれを聞いていた。
 
 大山待ちだった一同が、大山の“お待たせしました”の声を号令に駅に向かおうとした時、見覚えのある女が歩いてくるのが見えた。
 
 小林である。
 
 最初に大山が発見し
 「あれ、小林…何してんの?」
 とボソリと言った。
 
 佐々木は目が悪いのか、
 「あ?そうか、あれ?」
 などと目を細めている。
 
 真也は嫌な予感しかしない。
 
 櫻井は顔面蒼白で棒立ちだ。
 
 小林は化粧もしておらず、髪の毛もボサボサに見えた。目は見開いており、泣いているようで笑っているようにも見える。
 
 大山が声をかける
 
 「どうしたんだよ小林、家この辺だったかお前?」
 
 小林は返事をしない代わりに、ポケットからカッターナイフを出した。出すと奇声を上げながらこちらに走り出した。
 
 「うわああああん」
 
 聞いたことのないような絶叫に、街の空気も変わる。
 
 大山は
 「嘘だろオイ…」
 と言ったきり動けない。真也もだ。
 
 小林は櫻井を目掛けて走ってきた。
 
 ー刺されるー
 
 そう思った瞬間、佐々木が小林の向こう脛を蹴り飛ばし転倒させた。
 
 足を引っ掛けられた状態になり前のめりに倒れた手を佐々木は踏みつけてカッターを奪い取った。
 
 「大山!武藤!こいつを抑えろ」
 佐々木の声で正気を取り戻し、倒れた小林の手足を抑えた。
 
 「ぎぎぎ、店長が悪いんだ、店長店長…」
 口から泡を拭きながら小林は喚いている。抑えながら櫻井の方をふとみると、櫻井も口をパクパクさせて呆然としている。
 
 小林を真也たちに任せた佐々木は、棒立ちの櫻井の肩を強く叩き
 「櫻井さん、騒ぎになる。店に戻ろう。解除キーあんだろ?行こう。」と再び低い声で言った。
 
 押さえ付けられた小林は、子供のように泣いていた。大山と真也は両脇から起こしてやった。
 
 「小林さん、大丈夫ですか?」
 真也が声をかけると
 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と繰り返し、また泣いた。
 
O
 閉店時間を超えた店舗は一部のショウウィンドウを残して消灯している。美しい服やバッグを着て不思議なポーズをとるマネキン、夜になるとただただ不気味であった。
 
 解除キーでバッグヤードへ小林を連行する、普段なら部外者を入れるのはご法度だ。だが人目を避けるにはここしかない、佐々木らしい判断だった。大山は小林を椅子に座らせて、自販機へ水を買いに行った。
 
 「み、みんな申し訳ない。プライベートなことに巻き込んで、申し訳ない。」
 櫻井が切り出した。
 
 「プライベート?
 櫻井さん、話が見えないよ。」
 佐々木は不思議そうに聞いた。
 
 真也は疑問をぶつかるのはここしかない、と櫻井に尋ねた。
 
 「交際関係にあったということですか?」
 
 「…はい。」
 
 佐々木は言葉を失った様子で
 「はー、アンタがねえ。はー。」
 と呆れてた。
 
 いつの間にか戻った大山は、小林と皆にペットボトルの水を配りながら言った。
 
 「こじれたってわけですか。」
 
 櫻井はうなだれた。小林は静かに泣いて動かない。
 
 「当事者間で解決するにしても、刃物持ち出されちゃかなわん。小林、お前今回は見逃してやるからもう帰れ。大山、お前送ってやれ。タクシー使え。櫻井さん、領収書切るよ?構わんね?」
 
 櫻井は再び頷くと、財布から一万円を出して大山に渡した。大山は受け取ると小林の脇を抱えると
 
 「では、行ってきます、着いたら連絡します。」と出て行った。
 
 「さて、武藤くんも悪いんだけど今日はお帰りください。今日は悪かった、そして他言無用で頼む。これはマジのお願いだ。わかるね。」
 
 佐々木は強い口調で真也に言った。
 
 「わかりました。では…」
 と真也も店から出ることにした。
 
 あまりにも現実離れした出来事に、未だ理解が追いつけなかった。もし自分があの二人を目撃してすぐに佐々木や誰かに言っていればこんなことにはならなかったのかと考えてしまった。
 
 店から出て駅へ向かうと、またショウウィンドウのマネキンが目に入った。真也は心の中でマネキンに声をかけた。
 
 ー綺麗なのは外面だけだー
 
 駅に着いてホームへ急ぐと終電に間に合ったので飛び乗った。自分の面接は一体どうなるんだろう、ふと思ったが櫻井の哀れな姿を思い出して今は考えるのをやめた。
 
 次の出勤日、出社すると当然のことながら異様な空気感だった。当事者である櫻井、立ち会ってしまった佐々木、大山も本社の人間に呼び出されヒアリングを受けていた。
 
 他のスタッフは興味津々と言った様子だったが、店長機能を代行している酒橋からの強い緘口令もあり噂と憶測が飛び交った。
 
 当面の間、櫻井は自宅待機を命ぜられた。その説明は営業の楠田より行われた。楠田は小柄で目つきの鋭い中年男性で、この男が来るだけで店が引き締まるようだった。
 
 真也は務めて平静を装い、ワイドショー気質のスタッフの質問を回避することに終始した。
 
 店舗はそれでも開店し、業務は行わなくてはならない。皆、不満そうであったが純粋に人が足りない中での忙しさから、この事件どころでは無くなっていきつつあった。
 
 数日間に及んだ佐々木、大山のヒアリングもどうにか落ち着き二人が店舗に帰ってきた。
 
 皆、大山にも真也にしたように質問を投げかけたが大山も決して口を割らなかった。
 
 佐々木は戻ってくると、まず真也に声をかけた。
 
 「武藤くん、今回は本当に申し訳なかった。櫻井も君に詫びて欲しいとあの日言っていた。ここだけの話だが櫻井は郊外店へ降格異動だ。俺たちに別れを言うこともなく、だ。」
 
 「は、はい。」
 
 「だから君への詫びを預かってきた。まだ派遣社員の君を巻き込んですまなかったとのことだ。」
 
 「あの、小林さんは…?」
 
 「送って行った大山の話しかしらないが、今は落ち着いてる。実家住まいだしもう無茶はしないだろう。警察にも届けていない。櫻井の判断だ。」
 
 「そうですか…」
 
 「俺は一介の社員だから偉そうなことは言えないが、これまで通りやってくれ。それが近道になるよ。客商売なんでな、客の方向けなくなるからこうなるのさ。」
 
 「……」
 
 「なかなか難しいことだ。俺にも難しい。けど、まぁ頑張ろうや。」
 
 ポンと肩を叩くと、溜まっていた仕事を片付けに何処かへ行った。話している時に気付いたが、長髪に白髪が増えていた気がする。あの佐々木を持ってしても複雑な問題だったと改めて思った。
 
 二週間後、辞令が告知された。
 
佐々木の言っていた通り、櫻井は郊外店へ副店長として異動。酒橋は何故かスペシャリストから副店長へと昇格となった。空位となった店長ポストには新しく女性が赴任するとのことであった。
 
 櫻井の消失は真也の正社員化面談における後押しの消失であった。そのことに気づいてはいたが、考えないようにした。これまで通り派遣社員として淡々と働くことが今のところの最適解な気がしていた。
 
P
 あの騒動の後、店舗は少しずつ元に戻りつつあった。何故か昇格したら酒橋は派閥の犬を相手に騒動における自慢話をよくしていた。
 
 真相はまだ知られていないが、櫻井の女性関係のトラブルだということは薄々知れ渡っていた。相手があの小林だ、ということまでは流石に気付かれてはいなかった。
 
 そんなある日、ついに新店長がやってきた。
 
 ロングヘアを夜会巻にし、くっきりとしたメイクの女性だ。年の頃は40後半だが、誰もが振り返る美人だ。
 
 「吉松です。よろしくお願いします。」
 
 よく通る声と、お手本のような笑顔で自己紹介だ
 
 「皆さんと早く一緒にお仕事したくてウズウズしてました。よろしくね。私、頑張ります。」
 
 “皆さん”という時にその場にいた全員の目を見渡していた。

 この吉松を皆の前に連れてきたのは営業の楠田である。
 
 「新体制ということで、改めて頑張りましょう。」
 
 楠田は相変わらず鋭い目つきで締めると吉松と酒橋を伴って事務所へ消えて行った。吉松の凛とした歩き方に比べると、酒橋の姿はいつもより更に下品な物に見えた。
 
 その日の休憩は街と一緒になった。
 
 「武藤さんどう思います?すごくないですかなんかオーラ」
 
 「確かに女優みたいでしたね。」
 
 「声もめちゃくちゃデカいし。」
 
 「絶対厳しいですよ、もうそういう顔してますもん。やだなー、息苦しいのやだな。」
 
 携帯をいじりながらも本当に嫌そうな様子だ。
 
 「しかも、英語もイタリア語もペラペラらしいですよー。ひぇー。」
 
 どこで聞きつけてきたのかそんなことまで話していた。
 
 「最初は様子見ですかね。」
 真也は当たり障りのないことを喋りつつ休憩を切り上げた。
 
 吉松は
 「しばらく皆さんのパフォーマンス見せてくださいね」と、ファイルを片手に売り場に立つようになった。
何を見ているのかわからないスタッフは戦々恐々といった様子だ。
 
 ある日、街が中年男性客を接客していた時、ファイルを酒橋に投げるように渡すと接客に割り込みを始めた。

 「そちらの方が素敵ですよ。あまりにお似合いですので、ついお声がけをしてしまいました。街さん、あなたもそう思うわよね?ウフフ」
 
 例のよく通る声で喋ると中年男性はニヤけながら購入を決めた。まるで魔法のような出来事だった。
 
 街は珍しく不機嫌な様子でバックヤードに引き上げていった。
 
 そんな出来事が何回も続き、スタッフは次第に吉松の謎の力を恐れるようになった。吉松は依然としてファイルに書き込みながら酒橋と相談する日々であった。
 
 あくる日、ついに真也は吉松に呼び出された。
 
 「武藤さん、櫻井さんからお話聞いてます。社員を目指してらっしゃるそうで。」
 
 「はい。やらせていただいております。」
 
 「それで、ご自身のキャリアをどうされたいとお考えですか?」
 
 「とりあえず社員になり、より貢献したいと…」
 
 「キャリアってね、そうじゃないの武藤さん。貢献ていう人、何人も見てきたけどみんなダメなの。あなたのビジョンは?と聞いてるの。」
 
 大きく開いていた目が狭められると、より凄まじい眼力だった。そしてその内容にも真也は言い返せない。
 
 「わかりました。櫻井さんから武藤さんのチャレンジについては引き継いでおりますので私が責任を持って監督します。そのつもりで。」
 
 真也はそれなりに悔しかったが、人間関係の綻びどころではない災いの予感を感じていた。
 
 吉松は同じように社員と面談したようで、吉松と面談を終えた社員は殆どが疲れ切っていた。
 
 佐々木は何を言われたのか、長髪の結びを解いてゴミ箱を蹴り飛ばしていた。さすが佐々木の蹴りなだけあってゴミ箱は遥か彼方まで飛んでいった。
 
 吉松は悪魔的な魅力で次々に男性客を獲得していった。大地主や大病院の医師、大きな財力を持つ人間、暴力団関係者、ありとあらゆる客でも最後はモノにした。
 
 唯一、トップセールスとしての波長が合うのか大山だけはこれまでと変わらず仕事をしていた。
 
 吉松も大山のスキルに満足したのか、かなり可愛がっていた。
 
 「大山さん、全国一位を目指しましょうね。そこが、あなたのスタートよ。」
 
 他のスタッフにも聞こえるように大山を鼓舞し、大山もそういうシチュエーションが好きなのか燃えていた。
 
 街や佐々木など、どちらかと言うと裏方気質の人間は吉松が出勤の日になると不機嫌になった。
 
 真也も接客が終わる毎に呼び出され、、細かい指摘をされ続けると頭がおかしくなりそうになった。
 
 「また単品売りですかー?お店の足を引っ張ってる自覚ありますかー?」
 
 「悪いんだけど私や大山さんが着いた方が売り上げ良くなりそう。」
 
 など、とんでもない事を言ってくるようになった。
 
 真也の得意の人間観察を持ってしても、吉松は隙がなかった。誰よりも早く出社し誰よりも遅く帰る姿勢、そして圧倒的な数字…
 
 ーモンスター…ー
 
 これまで遭遇したことのない相手に、真也は打ちのめされた。
 
 ある時、また街と休憩が一緒になった。
 
 「ヨシマツアキ、あれ社長の愛人らしいですよ。」 
 街は吉松をフルネームで呼ぶ
 
 「…?」
 
 「あたしの友達、ヨシマツアキと前の会社で一緒だったらしいんですけど、結構有名な話みたいで。」
 
 「ほんとですか…」
 
 「ほらうちの社長、雑誌とかテレビとか出るじゃないですか?だから間違いないらしいんです。きもー」
 
 「でも何で愛人なんかを…?」
 
 「知りませんよ!こっちが聞きたい。こんなんなら櫻井さんの方がマシだったー。」
 
 お菓子を食べながら不機嫌そうにしてると、休憩室に佐々木が入ってきた。
 
 「楽しそうだな。」
 
 「あ、佐々木さん一つ食べます?」
 
 チョコレート菓子を差し出すと佐々木は包み紙を剥いて一口で食べた。
 
 「たまにああいう奴もいるが、あいつの場合仕事も出来るから何も言えん。あいつは怪物だ。」  
 
 真也は強く同意した。
 
 「宮嶋なんぞ、ありゃまた病気が再発するんじゃねえか。」
 
 確かに真也と同じくらい宮嶋はやられており、成績も急低下していた。
 
 「パワハラもあそこまで堂々とやると正当化されるんだな、勉強になる。40過ぎても勉強になるぜ。」
 
 街はチョコレートの箱を冷蔵庫にしまいながら
 「馬鹿なこと言ってないで、本社に言って下さいよパワハラーて。」
 と捨て台詞を残して休憩を切り上げた。
 
 おそらく化粧直しを念入りにするのだろう、吉松は女性スタッフの化粧崩れにも厳しい。
 
 街がいなくなったのを確認すると
 
 「櫻井さん、やめたらしい。」
 
 佐々木は声を落として言った。
 
 「そうですか…」
 
 「社員化、まだ目指してるかい?」
 
 「わからなくなってきました。」
 
 「だろうな。」
 
 「ま、とりあえずやりますよ。年も年ですし。」
 
 「まだ若いさ、俺のように四十になればヨソのブランドも拾わない。色々やってみることさ。」
 
 「はい…」
 
 「さてと、怪物の演説でも見物しに行くか。」
 
 佐々木はそう言うと休憩室から出て行った。
 
 櫻井がくれたチャンスだが随分と毛色が変わった。自分の見通しが甘かった。今ある人間関係を攻略すれば、それでいいと思っていた。
 
 店舗というハコは異物を排除する機能もあれば、怪物を呼び込む機能もある。そんなことを思った。
 
 その後も吉松の快進撃は止まらない。滅多に売れることのない朝高額品を連続販売したりして、営業はもちろん疑惑の社長までもが賞賛に訪れた。
 
 そして真也への口撃も苛烈さを増して行った。
 
 「そろそろ次のキャリア考えてもいいんじゃないですか?」
 
 「おっしゃる意味がわかりません。」
 さすがの真也も反論すると
 
 「ウチはうわついた人間が居ていいブランドじゃないの、トップブランドなの。わかる?」
 
 「はい…」
 
 「考えるチャンスは与えました。結果でお返事頂くか、行動で示して頂戴。」
 
 吉松は真也と話す時も笑顔で話す、ただ全く目が笑っていない。そして本心で言っていることがわかった。その大きな声はなんの周波数なのか真也の脳に身体に響き渡り消えない。
 
 ーそうか俺はここに居てはいけないんだー
 
 そう思わせる力があった。
 
 ーまた、どこかに流れるか。
 掛け持ちの生活か
 もう実家に戻るか
 親は何と言うだろうー
 
 そんなある日、吉松と大山が優秀な成績を評価されて本国フランスで行われるファッションショーへ行くことが決まった。
 
 いつのまにか吉松の取り巻きになった酒橋なぞは褒め称えていたが、残るスタッフは純粋に吉松の不在期間が産まれることを喜んだ。
 
 「滞在先でも皆さんの日報と数字見てますからねー!」
 
 恐ろしく大きな声でそう残し、吉松はフランスへ行った。
 
 大山は
 「本当は残って仕事したいんですけど、あの人聞かないんだよ」
 
 と大山らしいセリフも言っていたが、チャンスを逃す男ではない。また、自分を高く売り込んでくる、そう真也は思った。
 
 さて、日本である。
残った酒橋は事実上の責任者となり吉松の威光を使って猛威を振るった。そこに酒橋の恐ろしさがあるのだが、プライベートでも吉松の食事に同行し、その様子をSNSで投稿して恭順を示しているらしい。
 
 皆、ひとときの平穏を味わった。
 
 久しぶりに宮嶋と休憩することになり、あの定食屋へ行くことになった。例によって宮嶋はしょうが焼き定食を頼み、真也は鯖の味噌煮を頼んだ。
 
 「ヨシマツアキは今頃何してるんすかね」
 
 「さぁ、確かパーティとかもあるとメールにありませんでしたか?」
 
 「うぇーゲテモノパーティだ。」
 
 「だって確かその時のドレス、社販(従業員の福利厚生で安く買える)で買ってましたよ。」
 
 「稼いでますもんね、あの人。」
 
 しょうが焼きの肉をマヨネーズにつけて食べながら宮嶋は続けた。
 
 「そういえば、武藤さんに借りたボイスレコーダー…やってみたんですけど…」
 
 「!」
 
 「これってパワハラになるか、聞いてもらえますか?」
 
 「私でよければ聞かせてください。」
 
 宮嶋は定食を食べ終え、USBメモリと再生機をよこした。
 
 イヤホンを耳に当て再生すると、およそ真也にぶつけられていたような内容の発言が残されていた。宮嶋のものには、“あなたみたいな社員を雇うゆとりはない”といった内容や大山との比較が追加されていた。
 
 いたたまれなくなり再生を止めた。
 
 「宮嶋さんこれどうします?」
 
 「く、楠田さんに言おうかと。」
 
 「それも、ありですよ。」
 
 「そうですかねぇ…」
 
 「私も随分やられてますし、私も録音してやろうと思ってました。」
 
 「そうなんですかー」
 
 「確かに言うこと正しいですけど、言い過ぎなんですよ。もう辞めようかなと思ってます。これ以上は辛いです。気楽な派遣に戻りますよ。」
 
 思っていることがつい口に出た。
 
 「え、辞めちゃうんですか?」
 
 「あそこまで言われたら、そうなりますよ。嫌なこと続けても仕方ないですし、宮嶋さんも若いんですからチャンスはたくさんありますよ。」
 偽らない気持ちで話した。
 
 ーそうだ。嫌なことを続けても意味がない。興味半分で人間関係かき混ぜて悦に入ってるくらいでちょうどいいんだー
 
 真也はある程度の覚悟をきめた。
 
Q
 あくる日、真也は酒橋に呼び出された。身に覚えがないといえばないタイミングだった。
 
 「武藤さん、あなた宮嶋さんと吉松チーフの悪口ばっかり言ってるでしょ。宮嶋さんからクレーム入ってるの。」
 
 「な、、」
 
 「宮嶋さんの病気知ってるでしょ?ネガティブな気分にさせるようなことばっかり言って、常識的にどうかと思います。」
 
 「社員間の雑談レベルですよ!なんで私だけそうおっしゃるんですか!」
 
 いつぞやの小林の件の怒りもあった、真也は声を荒げた
 
 「大きい声を出さないで、うるさい。それにねあなた録音もあるの。聞く?」
 
 「はぁ?」
 
 なんと聞かされた内容は、先日の定食屋の会話だった。それだけではない、これまで宮嶋と話した雑談の酒橋や吉松に関する部分が編集されていた。
 
 ー宮嶋、宮嶋、お前はそう言う奴だったのかー
 
 ーやられた、信じ切ってしまったー
 
 強く噛んだ唇から血の味がした。
 
 「このことは、私一人では決済できないので吉松チーフや楠田さんに報告をして取り決めます。」
 
 「…わかりました。」
 
 「あなた、最初見た時から斜に構えたところあって、私ずっと働いてもらうの反対だった。はぁ、はい。仕事戻って。」
 
 「…はい。」
 
 今まで生きてきた中で最大の怒りだった。自分の軽率さへの呪いと、目の前の女を殴り飛ばせない苦しみ、そして宮嶋という男を見誤ったこと、全てが混ぜ合わさた怒りだ。
 
 テレビのニュースで見る殺人事件はこうして起きるのか、と思うと同時にカッターナイフを手にした小林のことを思い出した。
 
 ー小林、お前もこうだったのか?ー
 ーお前は自分に嘘をつかなかったんだな、すごいよー
 
 そんなことを思うと、少し正気に戻った。目の前にはまだ酒橋がいた。初めて会った時と同じ緊張した張り詰めた顔だ。
 
 ー俺も初めて見た時から、あんたは嫌な奴だと思っていたよ。ー
 
 心の声を感じると、口の端を上げてニヤリと笑った。それを見た酒橋は目の下を痙攣させて嫌悪感を丸出しにした。
 
 さて、チャンスも居場所もまもなく失うことは明白だった。たった数ヶ月の居場所、肩入れをしすぎた自分が悪くて、それは仕方のないことだと思った。
 
 売り場に立っていると宮嶋がいた。
誰かと雑談をしていたが真也を見てやめた。背中をちょこんと下げて会釈をしてきた。真也はそれを無視してバックヤードに消えた。
 
 それからしばらくし、吉松が帰国するとお祭りムードが持ち込まれた。吉松は本国の役員と交渉して店舗のリニューアルと人員の拡大を取り付けてきたらしい。
 
 酒橋は土産話に相槌をうちながら、フランスでの出来事をレポートにまとめて社員と本社に配った。真也も目を通したが、写真付きの見事なレポートだった。
 
 真也は決めていた、派遣会社よりも誰よりも先に吉松に辞意を言うと。
 
 凛とした姿勢で店内を見渡す吉松に声をかけた。
 
 「チーフよろしいですか」
 
 吉松は話を聞いているのか、汚物を見るような目で真也を見た。
 
 「はい」
 
 「お世話になりました。退職させていただきます。」
 
 「派遣会社へお伝えください。」
 
 ドライな喋り方だった。
 
 「かしこまりました。」
 
 真也との立ち話が終わると、上客が来たのか小走りで去って行った。吉松の付けていた香水の匂いが残った。おそらく生涯の中で出会う人間の中でも最大の怪物の香りだ、忘れることはないだろう。
 
 あとは月末まで時間を潰すだけだった。何も考えることなく、シフト表に❌をつけていった。
 
 あと数日というところで、あの気のいい夫婦がやってきた。
 
 いつものように真也を指名し、バックヤードにいた真也は髪と服を整えて接客についた。
 
 ー最後だ、でも、この人たちには関係ないー
 
 そう思うと、新鮮な気持ちでサービスができた。サービスは無償の行為、見返りは求めないもの、そんな風に思えた。
 
 ひとしきりマフラーやベルト、女性用のポーチを選び終え会計のタイミングで真也は辞めることを告げた。
 
 「えー残念だなぁ。武藤さんから買うと気分がいいから…もうここには来ないかもなぁ」
 
 意外だった、なぜそういう発想になるのか分からなかった。
 
 「じゃあ最後に初めて買ったバッグ…アレに合うお財布ありますか?思い出に買いますよ。」
 
 真也は同じくブランドが誇る最高峰の財布を紹介した。
 
 ーああ、一流の男に会えたー
 真也は嬉しかった。そして、こういう仕事がしたかったと気づけた。人間関係をかき混ぜるなんてのは、情けない現状からの逃避だと気付いた。
 
 会計はまた3桁に到達した。最初と同じく会計は街が手伝ってくれた。クレジットカードのサインを終えると、吉松がやってきて
 
 「チーフの吉松です!武藤さんから伺っております…本当にありがとうございます!」
 
 などと売り込みを始めた。
夫婦は煙たそうにしていた、いいタイミングで品物の包装を終えた佐々木が割り込むように
 「お待たせしました。」と
大きな山吹色の紙袋を差し出した。

 真也はそれを持つと出口へ案内し、夫婦は会計用のソファを立った。
両手で紙袋を渡して礼を述べると、夫婦は揃って
 
 「お元気で」
 と手を振ってくれた。
 
 真也はそれを見て深々と頭を下げると、少し泣いた。
 
R
 最終勤務日、バックヤードを綺麗に清掃した。厳しい言葉ばかりだった吉松も、整然としたバックヤードだけは褒めていた。それも、酒橋などの手柄となっていたが割とどうでも良かった。
 
 宮嶋は恭順を決めたのか、吉松たちと行動を常に共にした。真也と行っていた定食屋ではなく、イタリアンばかり行くようになったらしい。
 
 最後の日は早番、これは業界のセオリーだ。身支度を整えるとなんだかんだ遅くなる。長く働いた人間であれ、短い期間派遣であれ借りていたものは返さねならない。
 
 雇用期間途中で与えられたスーツの制服を脱ぐと少し感傷的な気分になった。明日には制服は裁断され捨てられるだろう。
 
 諸々の支度を整えて吉松に挨拶をすると
 
 「また遊びに来て下さいね。」
 と言われた。
 
 これを言える強さがあれば、そう思ったが軽く頭を下げて立ち去った。
 
 バックヤードの扉から出ると、佐々木が私服で待っていた。
 
 「軽く送別会でもしようや。
 時間あるかい」
 
佐々木は自社の製品を一切身につけていない。好きな音楽なのかとんでもない柄のTシャツを着ている。
 
 「ありがとうございます。無職ですので時間はあります。」
 
 「だろうな、じゃあ行こうか。」
 
繁華街を歩き、こじんまりとした居酒屋に到着する。のれんをくぐり
 
 「予約の佐々木です」
 と声をかけると、
 「あー佐々木さんいらっしゃい」
 と高齢の店員が迎えた。
 
 奥の座敷の席に着くと、街がいた。

 「俺だけじゃ花がないので、うるさい奴を呼んでおいた。賑やかしにはなる。」
 
 「佐々木さんセクハラです。」
 街は笑顔で答えた。
 
 派遣で食い繋いでいたので送別会というのは久しぶりだった。その分、真也はとても嬉しかった。最後なのでいろんな話が聞けた。
 
 櫻井の女癖の悪さ、酒橋は年下の恋人に入れ上げた挙句捨てられたこと、とても楽しい飲み会だった。
 
 「で、武藤くん、これから何するんだ?」
 
 「決めてませんが、この業界からは消えようと思ってます。また倉庫か…そういう仕事だと思います。」
 
 「そうか、向いてそうなのにな接客業。」
 
 「整理するのは得意なんですよ、物はね。」
 
 「違いないな、うちの人間関係は散らかってる。」
 
 「言いすぎましたかね。」
 
 「鋭どーい。散らかってる。」
 
三人で笑った。
 
 楽しい時間は過ぎ去り、会計となった。会計は二人がしてくれた。心から礼を言い二人と別れた。
 
 夜もだいぶ更けてまもなく終電という時間帯、ふと思い立ってまた店の前を通ってみた。
 
 ウインドーは美しく飾り立てられ、真也のいる側と全く違う世界が広がっていた。
 
 ウインドーにうつる自分は、もう制服もなく自由だった。ポーズを取らされることもなく、スポットライトが当たることもない。
 
 ー仕方のないことだ、これも俺さー
 
 真也は開き直り、家路についた。
 
Sエピローグ
 真也は結局、倉庫での業務に戻りフォークリフトの免許を取るなどして物流の仕事をするようになった。
 
 全く違う側面だが、品物を誰かに届ける過程を見ている。
 
 通販サイトの巨大な倉庫、ここから品物が届くまでに接客はない。いつか全てが通販になれば、接客というのは無くなるのではないか?そう思うようになった。
 
 街に出れば真也がいたブランドのバッグや服が溢れている。安くもないのに皆それを競うように持っている。
 
 ー意外と吉松から買ったのかもな、俺なら嫌だなあんな芝居に付き合うのはー
 
 離れると、そんな風に思えた。
 
 倉庫の仕事の帰り道、立ち寄ったコンビニでみた雑誌の表紙は、全身あのブランドで着飾ったモデルだった。
 
 真也はその雑誌の上にマンガ雑誌を重ねると。少し笑ってビールコーナーへ行き缶ビールを買った。
 
 ラグジュアリーブランドのラグジュアリーとはゆとりがあると言うらしい、あの店にいた連中はゆとりあったかな?そんなことを思い、歩きながらビールを飲んだ。
 
            おわり
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 

 
 
 

 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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