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出雲大社に行って戻ってきた縁。


「(俺らが出会ったのは)縁だよね。」
学生の頃、D先輩から言われた言葉。その言葉が何故か心に刺さって、その時から私は”縁”という言葉が好きです。



N氏パワーをもらっていた時間

人は他人を通して学ぶことがたくさんある。
私には「縁」を学ばせてくれた人、N氏がいる。(今も尚、縁を教えてくれている。)


N氏とは中学の頃に出会った。授業態度や生活の仕方、振る舞いなど、自分のルールの中を生きているような人だった。最初はただただ好きな人だったけれど、次第にそれは「尊敬」の気持ちだとわかった。



高校生になり、それぞれ別の高校に。その間も私はずっと憧れと尊敬の念を抱き続けていた。”N氏のようになりたい。次もしN氏に会う事があれば恥ずかしくない自分でいたい”という思いが強かった。高校の頃の私は、N氏を想いながら、目の前のこと(当時は勉強とバイト)をしっかりこなそうと必死だった。

私は高校から専門学校に、N氏は大学に進んだ。地元の人なので当時は友人の情報が風の噂で入ってくる状況だった。N氏が頑張っているという噂からパワーをもらって自分の毎日を頑張った。


戻ってきた縁


20歳を迎えた時に、10代を振り返った。満足だった。成長しようという思いから、いろんな経験をしていた。気づいたら、成長していた。その瞬間、N氏を想いながら頑張っていたことに終止符を打つことができた。N氏に感謝の気持ちが生まれ、これからは自分の力で成長しようという思いになった。


そんな時、なんとN氏から連絡があり会うことになった。縁って戻ってくるんだな、そう思った。N氏から連絡をもらうことなんで一度もなかったため、更にそう感じた。


中学の頃の話や、あの時どう思っていたのかなどたくさん話し、あの頃ではわからなかったことをお互い理解し合うことができた。とてもいい時間だった。愛しくて、誰にも邪魔されたくない時間だった。


そこからN氏とは暫く月1で飲みに行き、お互いパワーを分け合っていた。数年後N氏が結婚してからは会うことはなかったけれど、半年に1度くらいはどちらからともなく連絡をとっていた。お互いに「今度飲みに行こうよ!」と言いながらも全く生活の違う状況だったため、実現こそしなかったけれど。


再び戻ってきた縁

先月、出雲大社に行った。縁には恵まれている方だと思うので、特に出会いを求めてるわけではなかった。ただ”縁”というものが好きで、出雲大社に行ってみたかった。すると、出雲大社から戻った後、N氏から連絡があった。「今日行くか!」と連絡があり、なんと5年ぶりくらいN氏と会うことになった。


また縁が戻ってきた、そんな感覚だった。


その時もまた昔話に花を咲かせたり、近況を話した。どう考えて日々生きているのかや、お互いがお互いに感謝の言葉を伝え合った。とてもいい時間だった。


縁とは

縁は個々が握りしめている1本の糸のようなものだと思っている。スタートは必ず自分で、出逢う人の数だけその糸を持っている。波のようにくっついては離れる糸もあったり、V字のようにスタートだけがくっついていたり。自分の糸は自分でどんな形にもできる。人の糸には介入することはできない。私が”N氏との縁が戻ってきた”と感じているのは、お互いの糸が寄った時だと思う。



そして縁とは、とても物理的なものだと思っている。縁の糸が寄るときも、離れる時も、行動しているかしていないか。自分の糸の形を変えるのは、行動だけだと思う。相手の縁が寄ってこないからと、拗ねて離すこともできる。とても、物理的なものだと感じる。
会わなくなったから、会えなくなったから、気持ちがなくなったから「あの人とは縁がなかった」ということはない。縁があったから出会った。自分の縁をどのような形にするかは、自分次第。



縁を繋ぐために、必要なものは「好き」だけではない。感謝や尊敬、憧れや必要性。全てが縁を繋ぐ要素。N氏との縁が再び戻って来たのは、お互いの縁を繋ぐ”感謝”があるからだ。と勝手に思っている。だから離れては戻る。心地よく波のようなカーブを描く縁の糸のように。


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