善意の提案がしやすい場所づくりに加担したい

サンフランシスコという街で暮らしてみて実感したこと。

「私、許されてるんだなあ。」

この私の感情は、大切な体験のひとつだ。

サンフランシスコは、多様性に対する器が大きい。

知人曰く、ニューヨークなどとは気質が大きくちがうそうだ。

英語が拙い自分が飲食店などで店員の前でモタモタしようものなら、「このクソジャップ」などと吐かれる(しかも私の回りにいる人にも、わかるような口調で)のではないか...と恐れていたのだが、そんな人はついに滞在中にであうことはなかった。サンフランシスコでの暮らしは、自分の存在を「許されている」雰囲気がここかしこに点在していたのだった。

「許される」と私が感じる小さな要因

夕方には散歩に連れ出された犬と家族(アレっ仕事は?)がメインストリートを行き交う。アパレルショップやカフェの前には時々水の入ったボウルが置いてあって、散歩中の犬は自由に飲んでもいい。スタバのコーヒーカップをもって違うカフェにいくこともできるし、お弁当や飲み物を持ち込んでもいいと言ってくれるお店も結構ある。コミュニケーションにおいても、言葉のなまりよりもまず先に「あなたにつたえたい気持ちがあるの!」という目的が前面に飛び出しているのだ。

「私が、私の行動が、許されてるっぽい雰囲気」は、いろんな事柄が要素になって作り出されているのだった。

日本の電車で泣き出す赤ちゃんは、私を加害者にしたてあげる。

誤解をものすごく恐れながら言うと、例えば日本の電車で赤ちゃんが泣き出せば、舌打ちもツイートもしてないのに、自分が加害者に無理やりさせられているような感じになる。「解決策を他人が申し出ても、かえって当事者達に気を使われる。気まずい空気を作り出し当事者たちを気まずくさせている加害者に無理やりさせられて罪をかぶるしかない、つらい」みたいな、複雑なんだけどこういう気持ちになるのだ。

私の提案が拒絶されても、私自身が拒絶されたわけではない、と思わせてくれる空気

でも、私がのったバスではそういう加害者意識も、被害者意識も消してくれる日常があった。赤ちゃんが泣き出しても家族でない乗客があやして、お母さんに挨拶をするのが多数派であり、通常だ。バスを降りてからでも、生活の色んな場面で、「私が他人に微笑んでも、戸惑いう人はいないだろう、頓珍漢な私の申し出も、きっとうまく許されるだろう」という気持ちを育ててくれるたくさんの小さな要素があった。

なんやかんやで許されるだろう、という認識が私の行動を変えた

目の前を小学生くらいの少年グループが歩いていた。1人はポケットから財布を落とし、そのまま気づかない様子で歩き続けた。10mほどの距離をとって歩いていた私は、落ちた財布を掴み、走ってその男の子を追いかけた。頭が真っ白で、呼び止めるための適切な英語が出てこず、「へい!!!!!!」と叫びぶ。その男の子は振り返ってハッとなり、次にお財布を私が拾ったことを理解してくれて「サンキュー」と御礼を言い、連れの男の子もにこやかに微笑んでくれた。

私は赤ちゃんの件もそうだけど、その人に自分の善意が伝わるかどうかということを気にしており、また偽善者の一面を見透かされることを恐れている。

でも、このサンフランシスコの雰囲気が、「それでも何かしらの部分で許される」感を出してくれていて、結果として、人見知りの自分が善意を申し出ることができたのである。

善意の提案がしやすい場所をつくりたい

多くの自分以外の他人に目的を達成してもらうためには、「これが許される空気」を意図的に作り出すのは有効な方法のひとつだと思う。

Webサービスにおいても、たとえばQ&Aサイトなら質問/回答のしやすさ維持向上のために、「不完全な内容の回答が許される」「質問文が日本語混じりでも英語ネイティブに質問することが許される」「オススメの海外ドラマについて質問することが許される」こんな感じのことが「許される/ある行為を行なうのが気軽である」と感じてもらえさえすれば、「どうぞお気軽になんでも投稿してください」とアラートで何度も出す必要はそもそもなくなるわけだ。

個人的には、自分の周囲くらいは善意の提案がしやすい場所でありたい。誰かの役にたつと自分が認識しつづけること、また他人にそれを認めてもらえること、これが自分の生きる目的だったりもするからです。

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