冬を越えて

5年前の冬、何故か「もうこの冬は乗り越えられないだろう」と思った。そこに明確な理由は無い。とっくにその冬は乗り越え暑い季節に入ったし、健康の不安もあまりなかった。引越しや環境の変化などで心が弱っていたのかもしれない。ただただ駅のホームを歩いているとき、そこにふと明確な終わりを感じたのだ。

あれは死神というものかもしれないし、神経伝達物質等のバランスの変化で起こった、思考というにも感性というにもそれ未満の、思い立ちであったのかもしれない。自傷行為や自殺未遂に走る感情の、ほんの一端に触れた気がした。

一人でいると気が滅入るものだ(いや、誰かといても滅入るものだけれど)。精神の安寧とは、人類にとって永遠の課題の一つでもある。宇宙全体を一つの生物として考えてみると、未だに納得のいく答えにはたどり着いていない。

要するに、寂寥感や閉塞感は、容易く安寧を壊す。ひとたびそれが崩れてしまうと、我々の精神は退行し、稚拙な行動に陥ってしまう(ライフワークを持たない老人を思い起こしてみて欲しい)。未熟になるということは、たびたび他人からの影響を干渉レベルで受け取り過ぎ、怒りや悲しみといった強い感情に支配されやすくなる。

僅かな期間では、精神は病まない。というよりも生きていくうちに少しづつ少しづつ変質するものだ(背骨や股関節と同じ)。一定のボーダーラインを超えた瞬間、精神は「病んでいる」。自傷、破壊、衝動、攻撃、無気力、エトセトラ…ここに慈しみは無く(俗な言い方をすれば愛が無い)、自己愛すらも無い状態だ。ボーダーラインの基準はここにある。

ここにおそらく、探しているものがある。人の創造性の発露。おおよそ何かを作り上げたい者にとって、これほど価値のあるものは無い。しかしあるいは、既に病んでいるからこそ、何かを表現しようと思うのかもしれない。そして技術が1つずつ実りさらなる表現を求める。そうして「病んでいく」ことを求める。このサイクルを身に着け、ボーダーラインの線上へ向かうことこそが、生きていることなのではないかと、そう思ってやまない。

駅のホームを歩いているとき、死(あるいは狂気)と目が合った。
それだけの話ではあったのだが、そこから続きがある。


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