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年を重ねること。人間を育むこと。

車で神戸の町中から少しそれて、たまに使うパーキングに向かっていた。
すると、いつものパーキングは空いておらず、しばらく進んだ所にあるパーキングを目指していた。

空いている場所を見つけ、方向転換してバックで車を駐車するため、ハンドルを右にきり十字路を右に曲がろうとした時、80歳台くらいだろうか何とも優しく温かい雰囲気の男性が足を止めてこちらを見ている。
何か指を指しているため、渡りたいのだろうとずっと、どうぞと私も手で合図するが、渡ろうとはしない。
なので、お先にと合図してハンドルを右にきり、そのままバックで駐車した。

私が車の中で上着を着たりなんだかんだとしている間も、その方は、ずっと十字路で立っていた。
誰かを待っているのだろうと思っていた。

車から降り、その方の横を通り過ぎるときに、
こちらをにこやかに見てらっしゃったので
『お先にありがとうございました。』と声をかけた。

すると、『ああ、ごめんねぇ。ここを曲がって進んだら、一方通行なんよ。分かりにくいんやけどねぇ。この前、この先でぶつかってたし、警察もはってるかと思ってねえ。』と話された。

なんと。それを一生懸命伝えようとしてくれてたのだ。

しかも、その事を私に伝えるために、自分から寄るでもなく、その場でただ待っていてくれたのだ。

違いがわかるだろうか。

その方は、自分のことだけを考えたら、きっと私の車が駐車したら自分から寄ってきて伝えたはずだ。
一刻も早く自分が正しいことをした証明をするために。

でも、そうではなかった。

ただ、私が横切るのを待ち、私が次からも間違わないようにするために伝えてくれたのだ。
伝え終わると、にこやかにお辞儀をして去っていかれた。

私はとても心が温かくなった。
そんな温かい心に触れただけで、自分の心が澄みわたり和やかな気持ちで一日を過ごしたのだ。

年を重ねるとできないことが増えると言われるが、そうじゃない。
その人の意識次第でできることも増えるのだ。

人間としての積み重ねてきたものが周りに与える影響は大きい。

人は年齢ではなく、自分の経験をどのように受け取り過ごしてきたかで厚みがでる。
その人の佇まい、言葉、全体から放たれるバイブレーションがそれを物語る。
決して能力や地位ではない。
若い人でも素晴らしい方はたくさんいらっしゃる。

ただ、やはりご自身の経験を自分に還し重ねてきた人生の先輩方は厚みがあるのだ。
年を重ねれば言い訳では決してないが、今日お会いした方のように、ご自身のスペースがゆったりとありながら、本音からこちらのためにと思ってくださるからこそありがたいと感じるのだ。

人は、あなたのためにと言いながら自分のためであることがほとんどだ。
それは、素晴らしいことなんだけれど、自分のためにを覆い隠してあなたのためにを出すとなんとも気持ちが悪い。
それなら、潔く自分のためでいいのだ。

自分のためにと満ちてなければ、人のためにとは思えない。
自分のために、の延長上に人のためにが存在する。

自分勝手な迷惑者になるじゃないか、という人がいるが、自分に不足を感じているからこそ自分勝手になるのだ。
自分のためにと向き合い、満たせれば自ずと相手を想うだろう。

今日出会った方のように、純粋に生きれば人のために結果的になっているのだから。

私は、子どもたちが未来は明るく楽しいと思えるような人間でありたい。
それが教育だ。

そのためには、死ぬ瞬間まで自分を生き抜くこと。
年を重ねても自分で在り続けること。
世間で言われる目に見える『できないこと』の裏側にどんな『できること』、つまり価値が存在するのか。

一人ひとり異なるその答えに、わたしの探求は死ぬ時まで続くのだろう。

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