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婆さんの引っ越し

お母さんからLINEに来たメッセージ。

『ばあちゃん 入所の申し込みをしました。
 ごめんなさい🙇‍♂️🙇‍♂️🙇‍♂️🙇‍♂️🙇‍♂️』

100歳の婆さんが、ついに施設に入所することになりました。
ここに来て一気にいろんな理由が重なって。それでも昨日までは思っていなかったけど、今日になって急に「もう入所を申しこもう」と決めたそう。

ごめんなさいどころじゃない。今まで、お母さんの頑張りでたくさんの、殆どのことが支えられていた。忍耐と献身。今まで頑張ってくれて本当にありがとう。婆さんがボケてからも家で会えて、たまにでも私は介護に携われて、本当にとても豊かな、かけがえのない時間をもらいました。

もう婆さんがあの家にいなくなる。と言っても施設は満員なので、申し込んでもいつ順番が回ってくるかわからないんだけどそれでも、その時のことを思うと寂しい気持ち。
そして入所した後の婆さんを想うと胸が痛む。もうボケててやり取りなんてできないけど「母ちゃんに苦労をかけるくらいならオラ施設に入るよ」と選んでくれることがわかってる婆さんだからこそ。
「ボケてるからわからない」なんてことは絶対になくて、必ず情緒は動いているから。例えそれを表したり、感じ続けたりすることはできなくても。婆さんが細切れにでも感じるであろう寂しさを想像して、勝手に胸を痛める。

今まで私が大好きだった家が、
「ずっと生きててほしい!」っていう婆さんへの想いが、
お母さん一人に支えられていたんだと思い知る。
もう「できればまだ生きててほしい」と思えないことに気づく。本当はもうとっくに「いつあの世に行ってもいいよ。もう十分だよ」って心から言う時期は来てた。

でも、だからって
「もういいんで早く迎えに来てください」
と祈るのも違う気がする。少なくとも、今の私はこの答えではしっくりこない。
そんなことを考えるともなく考えていて、何となく腑に落ちる。


婆さんが今も生かされている意味について。

なんでまだ迎えがこないの?
そこには、私たち家族がさらに愛に向かうために必要なことが必ず隠されている。というか別に「隠されて」なんていない。その答えはいつも剥き出しで現れているのに、見えなくて気がついていないだけ。婆さんはそのために生きて「くれている」、少なくとも私の世界に於いては。
もういいよ、早く旅立っていいよどうぞ。
そう思うなら、婆さんを通じて天が、神様が与えてくれているチャレンジに気づいて、それをやること。婆さんがまだこの世に生きてる意義を、早く達成すること。
内容はここでは書かないけど明確に「これだ」と思い当たることがある。それは私たち家族がずっと抱えてきたこと。
私はそのために、私ができることをする。諦めずに伝える。誤解や混乱を恐れずに。そして相手が変わることを期待もしないで。

そしてそれと共に、祈ること。
ここに関わる私たちが、皆で協力して成そうとしている成長について。
もしも痛みが伴ったとしても「ウソのない自分」を表現できることを。
本当だと思っていたけど本質ではなかった自分を、辞めることを。
この出来事を通じて、愛を取り戻すことを。

人が生きていること、生かされていることには必ず大きな意味がある。
同時に、そこには何の意味もない。生きているということが全て。
それはどこから見るかによって違う。

意味をわざわざ見つけようとする必要はないし、したければいつだってそうすればいい。
ただその「生きる意味」のゴールはいつでも必ず、愛であることを忘れないこと。

普段は自分のノートに書いてることを、何だか今日は残したくなってここに書きました。



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