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40歳女の転職、走って転んで生きていく

39歳の冬、わたしは会社を辞めた。尊敬するpopInの程社長の元から離れた。大事な仲間と道が分かれることも寂しかった。

会社員としてのあらゆる感情の折り合いを捨て、自分の道を決めて前に進むための決断だった。
ベンチャー企業に身を置き、取締役という重責まで与えてもらい、仲間とともに毎日を必死に過ごし、最後の最後まで悩んだ末に退職を選んだ。

ここで辞めてたまるか。
ここまで頑張ったし、やれるだけのことはやった。
気持ちは毎日揺れ動いた。

それでも決めた。

退職後しばらくはものごとを考える余裕がなかった。
次の就職先を決める余力もないまま、ただひたすら心が落ち着くまでの時間を待った。

気を遣って連絡をくれる友人やお仕事関係の方々には、自分自身の無力感を打ち消すための精一杯の虚勢を張り、つらかった出来事も笑い話として披露した。

辞めることを決めたあと、とてもお世話になった方と銀座のビルの屋上で早朝に待ち合わせをして、退職の決意を告げた。
感情を押し殺すため、難しい話になればなるほどヘラヘラと話してしまう癖のある私は、その日も軽い気持ちで伝えようと決めていたが、静かに朝日を眺めならがぽつりぽつりと話始めると、じぶんの中で溜め込んでいた感情が涙と変わり無意識に溢れ出た。
相手は困っているようだったが、背を向けてわたしの泣く姿を見ないようにしてくれた。繊細なやさしさに今でも感謝をしている。

しんどかったんだな。自分自身に悔しかったんだな。と自覚した。

しばらくぼんやりと過ごしながら、私にはいったい何ができるのだろうか。と自問自答を繰り返した。

わかっていたけど、私には学がない。バレーボール一色だった青春時代

小学校4年生からバレーボールをはじめ、中学校は地元の公立に進みバレー部で活動していた。夏の蒸し暑い体育館、拭いても拭いても床にこぼれ落ちる汗と、汗で滑るボールの感触は何年経っても忘れない。
高校はバレーボールの推薦で入学、母校としては数年ぶりに東京都で3位の成績をおさめ、国体選手に選抜された。U-18の合宿にも参集され、そしてそのままバレーボールで大学に進学をした。

大学のバレー部は都内であるにも関わらず、バレー部は寮で集団生活、監督も寝食を共にし、お昼は学食は使わずみんなで交代でお弁当を作った。頑張った甲斐あって、全日本選手権で2度日本一になった。女子大生らしい遊びなんて経験しなかった。朝から晩まで練習をした。

インドアを引退後、ビーチバレーのユニバーシアードの日本代表に選出された。本職ではなかったがその後もアジアを遠征し、シンガポールの空港ではボールを抱えてベンチで眠り、タイの街では野犬に追いかけられ、グアドループ島では地元の御曹司から猛烈にモテた。当時のビーチバレーのパートナーであり大親友は今はビーチテニスに転向し日本代表として世界を転戦している。

一方、子どもの頃から勉強が苦手だった。
思い返せば、小学校低学年の分数の時点で算数が嫌いになっていた。歴史上の人物の名前を聞いても混乱してしまって忘れてしまう、理科の実験は言われたことより、アルコールランプをいたずらに使ってケタケタ笑って怒られ、図工では一生懸命色を塗って描いた「よだかの星」の絵を先生に洗われた。みんなの彩り豊かな絵が並ぶ中、私の滲んだよだかの星はヨレヨレだった。塗り直せば大丈夫だから。と言われても羞恥心や苦手意識は未だ拭えず、スポーツに明け暮れた。

転職と転機と強みと弱み

そんな私でも数回の転職ができている。
私の強みは、きっと声が大きいことだ。元気なのだ。基本的にゲラゲラ笑っている。
それでも若い頃はよくぶつかった。
どうしても譲れない時、あっさりと会社を辞めたこともあった。
じぶんの正しさと会社の求めることが違うことが許せなかったのだ。
今もその点は変わっていないから性格なのかもしれない。

納得できない限り働けないと思っての若さゆえの飛び出し方だ。
しばらく日雇い労働で食い繋ぎ、そろそろ安定した収入をと思い派遣スタッフとしてアドテク業界の面接に飛び込んだ。
とにかく必死だった。お金がなくて、すいとんを自作していた。

初めてのアドテク業界の面接。

「タグの管理はできますか?」の問いかけに、前職が旅行代理店だったこともあり、旅行バックにつける「タグ」と勘違いをして、大きな声で「はい!人数分管理をして倉庫にしまって管理をしていました!」と堂々と言ってのけた。
結果は採用、意味がわからない。

後に尋ねたところ「なんでも一生懸命やってくれそうだから」が決め手だったそうだ。これは未経験の弱みが強みになった瞬間だったかもしれない。

仕事は楽しかった。わからないことが少しずつわかるようになり、微力ではあったが役に立てることが嬉しかった。
派遣社員から正社員となり、営業としてアドテクを学んでいった。
とても充実した期間を過ごさせてもらい、メディアって面白い!と心から思った瞬間に出会った。
その後、ご縁あって、8年間在職した会社を辞め、転職をした。20代中盤〜30代中盤にかけての頃だ。


そうしてベンチャー企業に入社、絶対に経験できない苦楽を味わい、紆余曲折を経て、冒頭の通り39歳で退職、40歳になり仲間と一緒に起業をした。同時に個人事業主登録もした。

未来はわからないけれど、今を精一杯生きてみたい

今は新卒の気分だ。わからないことも、大変なことももちろんある。
そして、今までできなかったことにチャレンジもしている。
この年齢になってこんなに贅沢なことはあるのだろうか。
ど素人で学もなく、ただただ元気に精一杯過ごしてきたことで、いろんな人が色んなことを教えてくれる。尊敬する人に教えてもらえることの喜びと同時にあらわれる申し訳なさ。
でも、こんな機会はないのだからやってみるしかないのだ。やるしかないのだ。

そして、わたしは自分に学がないことに対して、恐縮することや周囲を心から尊敬をすることはあっても、自己否定はしていない。ただ、開き直ってももちろんいないし、学ぶ姿勢や謙虚さ尊敬の念は常に本心だ。

自己否定をしないでいられるのは、私は私の人生を精一杯生きてきたし、色んな意味でひとより不器用なところも個性として許して気に入っている。


過去は変えられない。
未来はわからない。
でも、今を信じて生きていくことならできるかもしれない。

「不得手はやらなくていいんじゃない?」と言われることもあるけれど、不得手がもしかしたら得意になるかもしれない。
やってみないとわからないし、やってみてダメだったらまた出直せばいい。

そして中庸ということばを教わる。正しさの暴力性も知った。
本当に大事に思う相手にはまっすぐぶつかる勇気も持ち続けたい。
大切だからこそコミュニケーションを諦めたくないのだ。

ヘラヘラと痛みを笑いに変えていた30代を乗り越え、40代になった今、走って転んでも「痛い」と言えば、きっと誰かが助けてくれる。
そして「痛い」と言えるようになれたのは、きっと少し大人になったからかもしれない。

わたしも誰かの「痛い」を拾えるように、寛容でいたい。我慢ではなく、寛容でありたい。





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