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「他力本願」のほんとうの意味

『歎異抄』第十三条

どんな人でも宇宙の流れの中に含まれ
そのしくみが不思議で理解できなくても
起きることが起きているのだと思い
悪事をおそれないのは「本願ぼこり」といって
心底気分良く生きていくことはできません

このことは宇宙の法則を本当の意味で理解しておらず
本来の自分を生きているかどうか
自分で自分のことを分かっていないから起こることです

自分にとっていいことが起きるのは
自分が何をしたら喜ぶか理解しているからです

自分に良くないことが起きるのは
自分が本当は何をしたら喜ぶかを理解せずに
事をなし続けてきた結果なのです

生前の親鸞先生が仰っていましたが
ウサギや羊の毛の先ほどのどんなに些細なことでも
本来の自分の気持ちを分からないまま
それを無視して行ってきた行為が
そのまま今の自分に返ってきている
どんなに小さなことでも今に影響を与えているものだと
仰っていました

またある時は
「唯円くんは私が言うことを信じるか」と仰ったので
「もちろんです」と返しました
「それなら私が言うことに従うか」と重ねて仰ったので
慎んで了解したところ
「それではまず人を千人殺しなさい。そうすれば
 人生を楽に生きていくことができる」
と仰いました

「そのように仰られましても
 私のような器量の人間には誰一人殺せないと思います」
と返事をしたところ
「それではどうして私が言うことに従うと言ったのだ」
と仰いました

「これで分かったであろう。何事も気持ちに任せて
 思うままするのなら、人生を楽に生きていくために
 私に千人殺せと言われたらすぐに殺せるだろう。
 しかしながら、一人も殺すことができないのは
 唯円くんの中に殺す因縁が存在しないから殺せないのだ」

自分の精神がよくて殺さないのではない
 またそんなことは決してしないと思っていても
 百人・千人殺してしまう機会もあるものだ」
と仰ったのです

私たちがこれはいい精神だ
あれはよくない精神だと各自で思い込み
決めつけて行動しているのは真実ではなく

すべては宇宙の法則のままに
起きていることが起きているということを
分かっていないのだ
ということを仰ったのです

その昔 間違った考えを持った人がいて
世間でいわれる悪事をなす人も
このしくみに任せてすべて助けられ
人生を楽に生きていけるのだと解釈し
敢えて悪事を行って それでもって
人生を気楽に生きていく糧にしようと
みなに吹聴し実行していました

いろいろな悪事が噂になっていた時
治す薬があるからといって
 敢えて毒を好んではならない

と親鸞先生は手紙に書かれているのは
このような誤った解釈を
止めようとしてのことなのです

すべての悪事や煩悩が
人生を安らかに生きる障りになる
というのではありません
戒律を守ることでしか
宇宙の法則を理解することができないのであれば
戒律を守り通せない私たちは
どうやって生死の苦しみから
解放されればいいのでしょうか

このような浅ましい人間でも
本願という宇宙のしくみに組み込まれ
スクわれている存在であり
そのこと自体を知り 信じることで
本当に気が楽に生きられるのです

そうはいっても
身に備わっていない悪事は
しようと思ってもできないように
なっているものです

また海や川に網を引き
釣りをして生活する人も
野山で猪や鹿を狩り
鳥を捕獲して食料とする人々も
商売をし田畑を耕して過ごす人も
みな同じ人間という存在なのです

何か悪いことをしようという因縁ができ
そうする気になったなら
どのような行為でもしてしまう
のが
人間というものだと親鸞先生は仰いました

しかし最近は
念仏を信仰する格好だけは立派にして
善を行うものだけが救われるのだから
善人だけが信じるもののように呼びかけたり

あるいは念仏を学ぶ道場に
これこれこういうことをした者は
この道場に入ってはいけいないなどという
張り紙をしている者がいます

さも賢い善人だけが精進しているかのような姿を
外面的に示しているだけで
内面には嘘偽りの心を隠し持っているとしか
思えないのであります

宇宙の流れなのだからと
敢えて罪深い行為をしてしまうのは
すべては本来の自分とはどんな存在なのか
という真理を忘れ 裏切ってきた
因縁の結果なのです

だからこそ
自分にとっていいことも悪いことも
すべて今までの行為の結果なのだ
起きることが起きているのだ
と 
一心に宇宙の法則を信じるということが
「他力」という言葉の本当の意味なのです

聖覚先生の著書『唯信抄』にも
「あなたは宇宙のしくみがどれほどのものと知って
 自分のような罪深い人間は救われないなどと思うのか
 煩悩にまみれた人間でもスクわれている
 どんな人間でもその流れの中に存在しているのだ」
と書かれています

宇宙の法則に甘えてつけ上がり
本当の自分を生きられずに苦しむ人こそ
かえって「他力」を信じる心に
つながっていくものです

もし悪業や煩悩をすっかり滅した後に
やっと宇宙の法則を信じることができるというのであれば
本当の自分を忘れ苦しむ思考は
湧いてくる必要はないものなのです

煩悩をすっかり振り払うということは
即ち苦楽を感じない
阿弥陀仏(宇宙)の存在そのものになるということ
であり
そのような状態の存在は
すでに成仏しているということなので
阿弥陀仏が長く考えられた教えは
必要なくなるのであります

本来の自分を忘れ
敢えて悪いことをして苦しんでいるのだと
誰かを批判する人々でさえも
心身がけがれているように見えます

それこそ煩悩にまみれた自分の身を顧みず
宇宙のしくみに甘えきって
本来の自分の価値を忘れ
する必要のない行為をして苦しんでいる
といえるのではないでしょうか

どのような行為を宇宙のしくみに外れているといい
どのような行為が宇宙のしくみに適っていると
いうのでしょうか
すべての行為は その流れの中に含まれているのです

かえって本願ぼこりばかりを非難するのは
自分の心身の汚れを忘れた
幼稚な行為だといえるのではないでしょうか

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