「全員救われている」という意味

有名(?)な
あくにんしょうき説

悪人正機説の第三条(第二条後半のつづき)

ワタクシとしては
いわゆる善人悪人の区別など  
本来する必要もなく

ひとり残らず
救われてるってことやん( ̄▽ ̄)

イコール
「宇宙のしくみ(流れ)に全員含まれている存在である」
ということを言ってるだけやん
という結論に現在達している。
(都合いいこと億承知)


 『歎異抄』 第三条

自分の人生を生きやすくしようと
自力でがんばって修行に励み
達成できる人は
本来の自分を楽に
生きられるようになります

まして
宇宙は「ただ事が起きているだけ」という
そのしくみに気づいて
特別な修行はせずに
他力にまかせて
ほんとうの自分を生きる人も
楽に生きられるようになるのは
当然のことです

すべての存在は
宇宙のしくみの中に
含まれているからです

なのに世の中の人々は
他力にまかせて
修行もせずにいる人が
気楽に生きられるのは
当然なのだから

どうして自力でがんばっている人が
報われないことがあろうか
自力の人こそ救われるべきだと
いつも思っています

この教えは
一見その通りに思えますが
宇宙の法則である
ただ事象が起きているだけ
という真理に反しています

その理由としては
何とか自分のチカラで
起きることを
自由に変えられるはずだと
考えている自力の人は
そのことさえ宇宙の流れの中で
ただ起きていることの中に
含まれているのに

自分が起こしている
自由意志があると信じて
しくみに気づいていないという意味で
宇宙の法則に反しているのです

しかし
自分で何とかしてやるんだという
自力の考えを改めて
ただ起きているだけという
宇宙のしくみを思い出せば

ほんとうの自分を
生きられるようになり
気楽に過ごすことが
できるようになります

本来の自分とは何かを忘れ
思い込みにとらわれている我々は
どんなことをしても
生まれも死にもしない存在で
永遠に存在していくという
宇宙のしくみを
忘れてしまっているのです

ただ起きているだけという
宇宙の法則に気づき
信じている他力の人は
そのしくみの確かさを知っているので
宇宙の流れに乗って
気楽に生きていけるようになります

そういうわけで
自力でがんばって修行をする人でさえ
気楽に生きられるようになるのだから

まして宇宙の流れを信じる他力の人も
気楽に生きていけるのだ
と法然師匠は仰っていたのです


*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


第三条は
「悪人こそ救われる」
なんて解釈されがちだけど

よーく読んでみると

宇宙のしくみに対する
気づきの差はあるけど

安心しな!
みんな救われてるし
ただ起きているだけの
宇宙のしくみ(流れ)に
すべて含まれてるんだぜ!

と書いてある( ̄▽ ̄)

阿弥陀仏(宇宙のしくみ)を
擬人化していたり

「救われる」という言い回しのせいで
何かヒト的存在が助けてくれるように思わせるから
誤解を招いてきたのかも。
(親鸞さんの時代でも?)

元々
しくみをわかりやすく
説明するために

アミダ仏(宇宙のしくみ)が
人格を持った存在のように
喩えられて伝えられてきたことを
思い出しながら読むとイイかも。

「アミダ」とはつまり
宇宙の流れ(しくみ)のことで

「救われる」とはつまり
そのしくみの中に
何ひとつ誰一人残らず
すべての存在が含まれている(=本願)
(まさしくアミダの御手にスクわれている)

ということ。


善人とは
宇宙の流れを知らずに
自力で何とか苦しい修行をして
自分を生きようとする人

悪人とは
宇宙の流れ(しくみ)に気づいていて
苦しいことがあったとしても
気楽に自分を生きていける人

どっちかっていうと
悪人の方が
宇宙のしくみ(アミダ)に気づいてるから

苦しさも楽しんで
生きられるよね?
(=悪人成仏)


善人さんがやりたくなる修行も
やるのはやっていいんだけど

そのやりたくなる気持ちさえも
自力ではなく
ただ起きているだけの他力なんだと
気づきつつ修行すると
もっと気楽に生きられますよ~(´∀`)


そんな宇宙のしくみのことを
弥陀の本願に見立てて
説明していたのでは?


と解釈できる
第三条は以上。

※第四条「慈悲」って一体全体何なんだにつづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?