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「魔校舎の怪」後編

 旧校舎内はカビとホコリの匂いが充満していた。木の床が歩くたびにギシッギシッと、今にも穴を開けそうな音を出している。
 一階の廊下を慎重に歩く。歩くたびに、嫌な肌寒さを感じる。涼しさとは違う、鳥肌が立ちそうな冷気が静かに漂っていた。
「順番に見ていこうぜ」
 最初に覗いた教室には机と椅子が乱雑に積み上げられていて、まるでガラクタの山のようだった。逆さになった机の脚は折れ、鋭利な槍となっている。大きなコンパスの針も見えた。
 足の踏み場などなく、この中に悟はいないだろうと思った二人は、次の教室へと足を運んだ。
 隣の教室はさっきとはうって変わってガランとしていた。中央には机が一つあり、その上には花瓶が置かれていた。刺された花は、枯れている。
 黒板側には壊れた足踏みオルガンが置かれていた。鍵盤がいくつか欠けており、ほのぼのした音色はもう奏でられないだろう。
「ちょっと、記念に」
 陽介はチョークを持ち、黒板に『陽介さま参上! サトルのバーカ!』と汚い字で書き殴った。
 その隣にある理科室は異常だった。教室全体に大きな長机が無造作に並べられ、その上には大小様々な瓶がいくつも置かれてあり、中には解剖された魚やカエルが浮かんでいた。
「ウゲーなんだこれ」
「標本……ホルマリン漬け……かな?」
 理科の授業で使ったのだろうか。無数のホルマリン漬け標本が置かれた教室からは鼻をつんざく嫌な匂いが漂っている。
「昔って、こんな気持ち悪いことしてたんだな。マジで現代に生まれてよかった」
「うん……というかここの匂い、すごく気持ち悪いからはやく出よ……」
「誰もいなさそうだしな。つーかサトルのやつマジでどこにいるんだよ」
「……クルミもね」
 保健室は荒れ果てていた。棚は倒れ、物が散乱している。割れたガラスの破片を踏まないよう、気をつけながら歩く。
 一枚の黄ばんだカーテンの向こう側に、人影が見えた。
「お、悟、そこにいるのかぁーっ!」
 陽介は勢いよくカーテンを開ける。
「ふぎゃあああああああっ」
 現れたのは悟ではなく、人体模型だった。リアルでグロテスクな見た目に、悪寒が走った。
「なんだよ、このやろーっ」
 陽介は思いっきり人体模型を蹴り倒す。人体模型は音を立てて崩れ、無惨にもバラバラとなった。
 フーッ、フーッと荒い息が陽介の口と鼻から吐き出された。
「行こう、ここにはいないだよ」
 真弘は陽介の手を掴み、保健室を後にした。

 一階で悟を見つけることができなかった真弘と陽介は、校舎の二階に上がることにした。一歩登るたびにギシギシと音を立てるその階段は今にも壊れてしまいそうだった。慎重に足を運ぶ。
 二階の廊下は、ほとんど何も見えなかった。天井に開いた穴から糸のように光が漏れているが、廊下全体を照らすには役割不足だった。
「やっべー。先がなにも見えねぇ」
 暗闇に陽介の声が響く。
「ちょっと、待ってて」
 真弘は手探りでバッグの中から懐中電灯を取り出し、辺りを照らした。
 暗闇の原因は、木の板だった。内側から全ての窓に木の板が何重にも打ち付けられている。
「なんでここまでするんだよ」
「わからない……」
 先に進むには一本の懐中電灯だけでは心許ないと、真弘は思った。スマホのライトもあるが、いざという時のために充電は残しておきたい。
「陽介、明かりある? 懐中電灯、これしかない」
「えーっと。あ、そうだ」
 陽介は半ズボンのカーゴポケットからオイルライターを取り出した。年季の入った真鍮製の重厚なボディには、いくつもの傷跡が刻まれている。カチンと蓋を開け、ホイールを回してジュっと火花を散らすと、オレンジ色の炎がほんのりと揺らめいた。
「お、結構明るいな」
 炎の明かりで周辺が照らされる。
「陽介……なんでそんなの持ってるの」
「え? こ、これはなぁ……じいちゃんのやつで、こんなこともあろうかと、ちょっと借りてきただけ!」
 陽介はアタフタしながら早口で言った。
「まだ子供なんだから、ダメだよ」
「す、吸ってるとか言ってねーだろ!」
 赤茶色の髪をボリボリ掻き、陽介は目を泳がせた。
 真弘は陽介のズボンのポケットに懐中電灯の光を当てる。四角い膨らみが浮かび上がった。
「なっ、何やってんだよ。さっさと行くぞ!」
「はいはい」
 手元の明かりを頼りに、二階の廊下を歩く。相変わらず、今にでも床が抜けそうな音がする。一階より、寒さが増している気がした。
 順番に教室を見ていこうとしたが、どこも窓と同じように木の板が打ちつけられていて、中に入ることができなかった。
 突き当たりまで進むと、板が打ち付けられていない教室を見つけた。
「ここが、最後かな?」
 二人は教室内をそーっと覗く。中は廊下と同じく、真っ暗だった。
「悟がいるとしたら、ここしかねぇ。入るぞ」
 陽介がオイルライター片手に教室内へと侵入する。
 明かりを教室内のあちこちに向けると、机と椅子が綺麗に並べられていた。埃は被っているが、他の荒れた教室とは違い、ついこの間まで授業が行われていたと言われてもおかしくはなかった。
「一気に明るくできないかなぁ」
 陽介が呟く。
「あ、そうだ」
 真弘はバッグからミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。懐中電灯を床に置き、その上にペットボトルを乗せた。
「おお、すっげー明るい! マヒロ、ナイス!」
 ペットボトルの水に反射した懐中電灯の光が、教室内を大きく照らしていた。
「前に、テレビで見たのを試しただけ。簡易的なランタン。災害時に、使えるやつ」
「これで探しやすくなるな」
 真弘は簡易ランタンを教室の中央にあった机の上に配置し、辺りを調べ始めた。
 隠れられそうな場所はあまりない。あるとしたら……
「ぎゃー!」
 ガシャンという音と共に陽介が悲鳴をあげた。
「陽介!?」
 仰向けに倒れ込んだ陽介の上に、骸骨が覆い被さっていた。
「うわっ。えっ?」
 よく見ると、陽介にダイブしたのは人体の骨格標本だった。掃除用具入れだと思われるロッカーを開けると出現して、そのまま陽介めがけて倒れ込んできたようだった。
「助けてー! 殺されるぅー」
 陽介は情けない声を上げている。
「だ、大丈夫?」
 真弘は骨格標本を陽介の体からどかした。
「これ、本物じゃない」
「わかってるって! ちょっとびっくりしただけ! 怖くないからな!」
 陽介は膝をガクガク震わせながら立ち上がる。
「つーかなんでこんな所に骨格標本なんて入れてるんだよ。こういうのは理科室とかにあるだろ普通。保健室の人体模型といい、もしかしてサトルが俺たちをびびらそうとして仕掛けたんじゃないだろーな」
 悟はどこかに隠れて笑っているのだろうか。しかし、辺りを見渡しても他に隠れることができそうな場所は見当たらなかった。
「もう、いいや。帰ろうぜ。疲れた」
「そうだね」
 教室を出ようとしたとき、ヒュゥーと、風を感じた。
「風? どこから? 窓は全部封鎖されているのに」
 真弘は耳を澄ませ、風の出所を探る。
 風は、先ほど骨格標本が姿を現したロッカーの後ろから流れてきていた。
「ここ、何かある」
 真弘と陽介は力を合わせて、ロッカーを横にずらす。
「あっ!」
 棚の後ろには大きな穴が隠れていた。穴は横の教室に繋がっているようだった。
「隠し通路じゃん!」
 この先に悟がいるのだろうか。二人は穴をくぐり抜け、封鎖されていた隣の教室へ侵入した。

 真っ暗な部屋の中央に、赤い輝きがあった。それを見た瞬間、背筋がゾッとした。
 それに近づいたとき、スマホの着信音が鳴った。静寂に響く聴き慣れた陽気なメロディが急に恐ろしいメロディに聞こえてきた。
 画面上には『小林悟』と表示されている。
「も、もしもし悟? ど、どこにいるの……?」
 公園のときと同じく、ノイズ音が激しい。何度も悟の名前を呼び続けた。心臓の鼓動がどんどん早くなる。
 急にノイズ音が途切れた。
『ニクイ』
 悟の声ではなかった。地の底からの咆哮のような、おぞましい声だった。
『ニクイ……ニクイ……ニクイ』
 何度も何度も、その声が聞こえた。
『ハヤク、イッショニ』
 急に、通話が切れた。
 スマホを持っていた手とは反対の手に違和感を感じる。
 真弘は何かを握っていた。
 握った手を開くと、そこには破片のようなものがあった。見覚えのある、赤い破片だった。
「あああーっ」
 スマホを床に放り投げ、両手で赤い破片を握りしめる。
 憎しみ、悲しみ、孤独、怒り……ありとあらゆる負の感情が、流れてきた――

「お、おいマヒロ! 大丈夫かよ! どうしたんだよ真弘!!」
 陽介の声が聞こえた。
「落ち着けマヒロ!」
 身体が揺らされた。目の前にはオイルライターの炎に照らされた陽介の顔があった。目に涙を溜め、今にも泣き出しそうな表情をしている。
「陽介? なんで、泣きそうなの? おれ、どうか、してた?」
「してるもなにも、おかしいところしかないって! 急に真っ暗な中を走り出して……追いかけたらうずくまっていて、声かけても震えてるだけで全然返事しねーし……」
 陽介は目をこすり、ズズーっと鼻水をすすった。
「電話、悟じゃ……なかった」
「は? お前電話してたの? いつ?」
「……さっき。着信音鳴った……」
「いや、鳴ってねーし」
「赤い破片……」
「破片?」
 赤い破片は、どこにもなかった。
「あれ?」
「……はやくここ出るぞ」
 真弘は陽介の手に引っ張られ、簡易ランタンで照らされた教室へと戻った。

 真弘と陽介はホコリだらけの椅子に腰掛け、俯いていた。
「……ここまで探して見つからないとか、どーなってんだよ」
 赤茶色の髪の毛をいじりながら、陽介は舌打ちをした。
「あーっ、もう。悟もリスも、どこにいるんだよ」
 陽介は指先でトントンと机を叩いた。視線は廊下を見つめ、何度も浅く短い息を吐き出す。唇を舐める動作が頻繁になり、時折、口元を手で覆って抑えるような仕草を見せた。
「なぁ、マヒロ。俺、ちょっと……」
 悟とクルミは本当にどこにいるのだろうか、そもそも校舎の外から見た悟は本物だったのだろうか。赤い破片はどこにいったのだろうか。そもそもあの破片は一体……。
「マヒロ、聞いてる?」
「え、あ、うん」
「さっきからおかしいぞ、お前」
「そうかな?」
「本当に大丈夫かよ」
 陽介は、大きなため息をついた。
 ギシッ、ギシッ
「あれ? 何か、聞こえね?」
 廊下から、床の軋む音が聞こえた。一定のリズムを刻む音は、どんどん教室に近づいてきた。
「悟か?」
 陽介は椅子から立ち上がり、音のする廊下の方へと歩いていった。
「ちょっと……待って」
 軋む音とは別に、ゴリゴリと何かを引きずる音も聞こえた。
「違う」
 真弘は素早く陽介の手を引っ張った。
「な、なんだよ?」
 それは、ゆっくりと姿を見せた。大きく、黒い。全身が黒い布で覆われていた。
 そいつはゆらゆらと、身体を左右に動かし、教室内に侵入してきた。手には、真弘たちの身長の倍以上はある、大きな斧が握られていた。
「な……な……なにこいつ」
 陽介の声が震える。
 黒い異形の者は、二人の目の前までやってきた。
「あ、ああ……」
 逃げなきゃ。頭ではそう思っても身体が動かない。金縛り。瞳を閉じることができず、眼球は異形の者に釘付けになっていた。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』
 身も毛も凍りつくような雄叫びが響き渡る。
 歪み。ぐにゃりとした変な感覚に襲われた。
 気づくと、振り上げられた斧が真弘目掛けて突進してきていた。
 えっ?
「マヒローっ!」
 真弘は弾き飛ばされ、お尻から床についた。
「あっ」
 赤い液体が、勢いよく顔に飛んできた。
「いっづ……ぎゃああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
 真弘の視界の先には、うつ伏せに倒れた陽介の姿があった。背中には大きな斧が食い込んでいる。割れた背中から、ドロドロした赤い液体が溢れ出ている。瞬く間に、小さな体は赤い湖に沈んだ。
 斧が陽介の背中から引き抜かれる。刃から血が滴る。
「あっ、ぎゃあああぁぁぁ……」
 斧が再び、陽介に振り下ろされる。右足、左足、右腕、左腕。刃が次々と、幼い少年の体に深く突き刺さり、そして乱暴に引き抜かれる。
「ぅぁ……ぁぁぁぁぁ」
 陽介の叫びは、だんだんと小さくなっていった。
 やめて、やめて、やめて……陽介が死んじゃう……誰か、誰か助けて……。
 ついに陽介は動かなくなった。ヒューヒューという音だけが、口から漏れていた。
 突然、部屋全体が大きく揺れた。
 その衝撃で木の床に大きな穴がバキッとあいた。
「うわあああっ」
 真弘は、闇の中へと堕ちていった。

 独りで闇の中を歩く。
 虚空より声が聞こえる。
『何のために生まれたのだ。何のために戦ったのだ』
 歩き続ける。
『孤独だ。誰も私の気持ちを理解しない』
 ひたすら歩き続ける。
『孤独が憎い』
『封印したやつらが憎い』
『生み出した者が憎い』
『自分が、憎い』
 目の前に一本の大きな斧が浮いていた。
「おれは、私。ワタシは、オレ」
 真弘は斧の柄を、両手でギュッと握りしめた。

 目を覚ますと、真弘はガラクタの山に埋もれていた。天井を見上げると、大きな穴が開いている。あそこから自分が落ちたことを理解するのにしばらく時間がかかった。
「よ……陽介……」
 黒い得体の知れないものが振るった斧に陽介が襲われた光景が真弘の目に焼き付いて離れなかった。もし、陽介が突き飛ばさなかったら、真弘が凶刃に倒れていただろう。
 上体を起こすと、足に違和感を覚えた。目を凝らすと折れた机の脚が、真弘の太ももを貫通していた。先端が赤黒く染まっている。それを認識したとき、今まで感じたことのない激痛が襲ってきた。
「あ、ああああああああああああああああ!!」
 痛い痛い痛い痛い……いたい……だれか……助けてい……だれかぁ……あぁぁ……
 真弘は狂ったように叫んだ。
 どれくらい叫び続けただろうか、声が枯れてきた。このまま叫んでいても助けは来ない。
 真弘は、意を決した。
 ありったけの力を込め、突き刺さった机の脚を太ももから引き抜いた。その反動で真弘の体はガラクタの山から転げ落ち、廊下に投げ出された。
「ぐっ、がああああああぁぁ……」
 再び激痛が走った。太ももに空いた穴から赤い液体が溢れ出てくる。
「ち、血を……とめないと……」
 ショルダーバッグの中に絆創膏とハンカチが入っていることを思い出したが、バッグは上の教室に置いたままだった。もしかしたら一緒に落ちてきたかもしれないが、あのガラクタの山の中から探すことは今の状態では不可能だ。保健室に包帯などが残っていればいいのだが、果たしてこの状態でたどりつけるのだろうか。辿り着けたとしても、なかった場合は……?
 真弘は床に這いつくばり、腕の力だけで身を進めた。
 呼吸が、荒くなる。
「あ……」
 目の前に、タオルが落ちていた。陽介が首にかけていたスポーツタオルだ。そういえば、いつの間にか陽介の首から消えていた。探索中に落としたのだろう。
 真弘は太ももにタオルを巻きつけ、思い切り力を込めて押さえつけた。白いタオルがじわじわと赤色へと変色していく。簡単な止血だが、何もしないよりかはマシだろう。
 壁にもたれ掛かり、息を整えた。
「救急車……警察……」
 真弘はスマホを取り出し、画面を見る。壊れていないようだった。
 何十件もの不在着信が表示されていた。発信主は全て『小林悟』となっている。
「ひっ」
 急にスマホが熱くなり、煙が出てきた。
「うわっ」
 真弘はとっさにスマホを放り投げた。
 次の瞬間、スマホは爆発して粉々となった。
「あ……」
 真弘の口は開いたまま、静止した。
 何分ぼーっとしていただろうか。気づくと、足の痛みが消えていた。
「え?」
 スポーツタオルを外すと、血は止まっていた。ズボンは破けたままだが、傷口はきれいに塞がっている。
「な、なんで?」
 真弘は自分の足を何度も触った。いつもの、自分の足だった。立ち上がって屈伸運動をしても、少し歩いてみても、全く痛みを感じなかった。
 意味が分からなかったが、これで助けを呼びにいけると思った真弘は、外に出ようとした。
「あ、え?」
 窓から外を見て、絶句した。
 外は真っ暗だった。日が暮れて、夜になったのではない。運動場の雑草も、木々も、地面も、何もかもが消えていて、ただただ、黒かった。
 ガシャン
 理科室の方から、何かが割れるような音がした。同時にピチャリ、ピチャリという音も聞こえてきた。
「ひっ」
 理科室から出てきたのは、脚が生えた魚と、巨大なカエルだった。真弘の身長と同じくらいある異形の生物が何匹もゾロゾロと現れ、近づいてきた。
「こ、来ないで……」
 立ち上がり、廊下の端まで逃げた。扉は開かず、外は闇。逃げ場はどこにもなかった。アタフタしている間にも怪物たちはどんどん近づいてくる。
「来ないでーーっ!」
 真弘は叫んだ。
 すると、怪物たちの動きはピタッと止まった。全く動こうとせず、真弘をジーっと見ているだけになった。
「うわあああっ」
 真弘は駆け出した。怪物たちの横を突っ切る。途中、何匹かにぶつかり、ベチョっとした感触を味わってしまった。保健室の前を横切ったとき、人体模型が扉の前に立っている姿が目に入った。パーツはチグハグにくっついていた。
「はあっ、はあっ……」
 振り向くと、怪物たちは静止したままで、相変わらず真弘を見つめていたが、追ってくる様子はなかった。
「う、おげえぇぇ」
 手洗い場で、真弘は吐いた。昼に食べたものが、全て吐き出された。
 顔を上げて鏡を見ると、真弘は違和感に襲われた。
「えっ?」
 よく知る夏野真弘の顔なのだが、真っ黒だった髪は真っ白になり、目は黒白目になっていた。頭からは小さな角のようなものが二本生えていた。
「なに……これ……?」
 もう本当にわけがわからなくなってきた。夢でも見ているのだろうか。夢ならはやく覚めてほしい。
「あ……あぁ……」
 感情が抑えきれなくなった。
 泣くだけ泣いて、涙が枯れてきた。

 真弘は冷たい廊下に横たわっていた。もう動きたくなかった。
 そんな体を無理やり動かす音が、階段の上から聞こえてきた。
 ギシッ……ギシッ……
 アイツだ。
 急いで隠れる場所を探した。階段下の物置スペースを見つけた真弘はすぐさまそこに身を隠した。そっと扉を閉め、息を殺す。
 真上からゴリゴリとした音と共に、木のクズとほこりが頭の上に落ちてくる。真弘は声が出ないように両手で口を押さえ、耳をすました。
 足音が、至近距離まできた。
 扉の向こう側に、気配がある。ドクドクという音が胸の中で響き渡り、耳まで血がのぼってきた。この音が扉の外に漏れているのではないかと不安になる。もし、漏れていたら見つかってしまうのだろうか?
 扉が一瞬、ガタッと動いた。真弘は必死に口を押さえつける。身体中のあらゆる場所から汁が出てくる。
 何分そうしていただろう。永遠の時間が流れたように感じた。いつの間にか、気配は消えていた。
 真弘はそーっと扉を開き、隙間から辺りを伺う。誰も、いなかった。
 廊下を見ると、魚やカエルの化け物たちも消えていた。
「あっ……」
 ホッとしたのも束の間、ズボンの股の部分が、生温かく湿っていることに気づいてしまった。

 二階へと上がった。
 懐中電灯なしで暗闇の中を進むことができるのか不安だったが、その不安は疑問へと変化した。
 確かに真っ暗なのだが、視える。暗視ゴーグルでもかけているように、周りが鮮明に映し出された。今思えば、一階も真っ暗だったはずなのに、しっかりと視えていた。
 もう何が起こっても不思議ではない。真弘は深く考えることを止め、歩き出した。
「陽介……」
 この先に陽介がいる。しかし、生きてはいないだろう。
 悲しみと怒りと孤独が、真弘の中で大きくなる。
 歩いても歩いても、風景は変わらなかった。十分以上歩いても同じ景色だった。
 立ち止まり、後ろを振り向こうとした。
 そのとき、耳元で何かが囁いた。
「……」
 背筋が震えた。振り向いてはいけない。何かが、真後ろにいる。
「うわあああっ!」
 真弘は無我夢中で走った。どこまでも続く廊下を、とにかく走った。
 アイツだ。捕まったら殺される。陽介みたいに、なぶり殺しにされてしまう。
 どれだけ走っても、真後ろに気配がピッタリとくっついてくる。気味の悪い吐息が耳にかかる。離れろ。離れてくれ。お願いだから消えてくれ。
 何でこんなところに来てしまった。来るのではなかった。さっさと帰ればよかった。死にたくない、しにたくない。
「あっ、ああぁーっ!」
 真弘は何かに足を引っ掛け、派手に転んだ。ゴロゴロと何度もでんぐり返りをした。

 気づくと、知らない部屋にいた。何も置かれていない、広い部屋。壁一面が、赤黒い毛細血管で埋め尽くされ、ドクリドクリと、まるで生きているように脈打っていた。
 天井には顔があった。悟の顔だった。ニヤニヤ笑っている。
 気持ち悪かったので、視線を床に落とした。
 床を見ると、おびただしい量の血がベッタリとついている。その中に、オイルライターと焼け焦げた黒い布が落ちていた。
 ライターと布を拾った瞬間、冷たいものが真弘の首を掴んできた。
「ぐ、ぇえ……」
 何者かに後ろから首を強く掴まれた真弘の体が、じわりじわりと上昇する。
 息が、できない。首の骨が今にも折れてしまいそうだ。
 真弘は手足をバタバタ動かし、抵抗した。もがいていると次第に、手足の感覚が消え、ビチャビチャと液体が床に垂れる音が聞こえてきた。
 次は頭を強く鷲掴みにされた。脳みそが破壊されそうだった。
「あ、ぐげぇぇえぇぇ……」
 真弘の首はゴキゴキと鈍い音を立てて、百八十度回転した。
 自分を掴んでいるやつの顔が見えるはずだった。しかし、そこにあったのは顔ではなく、闇だった。首から上に存在する歪んだ黒い穴。ブラックホールみたいなそれに、真弘は吸い込まれる感覚を覚えた。
「グルルル……」
 意識が遠のいてきたとき、視界の端に、小さな光が見えた。
 その光は素早く、目の前を横切った。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
 断末魔の悲鳴が響き渡ると同時に、真弘の体は赤い液体をぶちまけながら、床に落ちた。
 クルミ……
 ぼやける視界に、一匹のリスの姿が映った。

 気がつくと、見慣れた天井が広がっていた。
 ゆっくりと辺りを見回すと、学習机やランドセルが見えた。カーテンの隙間から漏れる暖かな光の向こうからスズメの鳴き声が入り込んでくる。
 真弘は自分の布団で寝ていた。
「よっ、目が覚めたか?」
 黒いツンツン頭の少年がドアの前に立っていた。
「……にいちゃん?」
「おう。兄ちゃんだ!」
 兄はニッと笑うと、真弘の枕元にあぐらをかいて座り込んできた。
「お前、昨日の夕方、鳥居の前で倒れてたんだぜ? どこも怪我とかしてなかったし、ちゃんと息もしてたから俺が頑張ってここに運んだってわけ。親父にバレると面倒そうだったからコソーっとな」
 頭の中で記憶を遡ってみる。確か、公園で陽介と遊んで、それから自転車で……あれ?」
 それからどうなったんだっけ?
「頭、痛い……」
 急に頭痛が襲ってきた。
「おいおい、まだ寝てた方がいいんじゃないか?」
「うん……」
「そうそう、お前の自転車、保管所にあるって電話あったぞ。どこ行ってたんだよ。まぁ、今度取りに行ってやるから、しっかり休んどけ。学校には母ちゃんが連絡してくれてるからさ」
 兄は手を振り、部屋から出ていった。
「……寝よう」
 真弘は布団の中に潜り込んだ。すると、ポケットの中に何かが入っている感触がした。
 何だろうと思い、ポケットに手を入れる。
 出てきたのは血のついたオイルライターと、焼け焦げた布の切れ端。そしてかぼちゃの種だった。

 あれから高熱が出て、一週間寝込んだ。なかなか熱が下がらないので病院で検査を受けたが、ただの風邪だと言われた。
 ようやく熱も下がり、学校に行けるようになった。久々にリビングで食事をとる。
 テレビのニュース速報が流れた。真弘の住む地区の名前が聞こえたので、テレビの画面を見る。画面には黒コゲになった建物が映されていた。
 廃校になっていた校舎が火事で全焼したというニュースだった。出火原因は不明で、放火の可能性もあるとアナウンサーが伝えていた。また、離れのトイレから身元不明の子供の焼死体が見つかり、死後十年以上経っているらしいとも報じていた。
「俺そろそろ学校行くけど、真弘もいっしょに行くか? 途中まで同じ道だろ?」
 卵かけご飯とお茶を口に流し込んだ兄が言う。
「いい……一人でいける」
「そっか。じゃ、先に行ってくるな。アイツも待たせてるし」
 兄はバタバタと家を出ていった。

 学校に到着し、自分の席に着席する。何人かクラスメイトが真弘のことを心配して声をかけてきてくれた。
 そのクラスメイトの中に陽介はいなかった。クラスメイトの内のひとりに陽介のことを聞くと、体調不良で休んでいると言われた。どうやら、真弘が休んだ日と同じ日から休んでいるらしい。
 真弘が休みの間に貯まったプリントを眺めていたとき、女子のヒソヒソ話が耳に入ってきた。
「ねぇ、金色のマスクをした髪の長い女の話って知ってる?」
「あー、噂になってるやつ?」
「あたしね、この前ママとデパートに行ったとき、見ちゃったの」
 よくある怪談話だ。
 ホームルームがはじまった。担任の佐藤先生がクラスメイトの名前を読み上げる。クラスメイトは元気に返事をする中、真弘は小さな声で返事をして右手をあげた。陽介は欠席。全員の名前が読み上げられたあと、違和感に気づいた。
 ひとり足りないような?
 その疑問を横の席の女子にたずねると変な顔をされた。これで全員らしい。
 放課後、ランドセルを背負って廊下を歩いているとき、隣のクラスの男子二人組の会話が聞こえてきた。「しらとり」という単語が出てきたので、真弘は聞き耳を立てた。
「一組のあいつ、ちょっとヤベーらしいぞ」
「一週間休んでるやつ?」
「俺のとーちゃん、救急隊なんだけど、こっそり話してるの聞いちゃってさ。一週間前に大怪我をして倒れていた子供を運んだみたいで、それが白鳥だったみたい。マジやばい怪我だったらしいぜ」
 真弘は急いで職員室にかけ込み、テストの採点をしていた佐藤先生を捕まえた。そして陽介の容態についてたずねた。
 佐藤先生は最初「大したことない。すぐに登校できるようになる」と言っていた。何度聞いても同じような内容しか言わなかったので、真弘は隣のクラスの男子がしていた会話の内容をぶちまけた。すると、先生は渋い顔をしたまま黙り込んだ。
「夏野は、白鳥と仲が良かったな……仕方ない」
 佐藤先生が重い口を開いた。
 話によると、陽介は入院しているようだった。一週間前、大怪我をした状態で道端に倒れているところを通行人に発見され、すぐに救急搬送された。目も背けたくなるほどの重傷だったが、手術は成功し、命は助かったようだった。しかし、一向に目を覚まさないらしい。

 真弘は夕暮れの中、独りでトボトボと歩いていた。
「あれ?」
 手の中に何か固いものを握っていることに気がついた。
 真弘は手を開く。そこには破片のようなものがあった。
「何だろう、これ?」
 破片は夕陽に照らされ、赤く輝いていた。

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