金木犀

金木犀の香りが分からない、と彼女は言う。
真意が汲み取れずに、そうなんだ、とだけ私は返した。

金木犀の香りは良い香り、というには些か癖が強いけれど、かといって臭いと断ずるには勿体ない気持ちもある。
分からない、という人も昨今ではよく聞くけれど、その気持ちも分かる。
どちらかと言えば「この匂いが金木犀の香りなのかが」分からないのではないだろうか。
あくまで予測でしかないけれど。

曰く、「金木犀の香りが分からない人」で在りたいらしい。
余計に意味が分からなかった。
なんでも、そういった「他の人とはちょっとだけ外れていますよ」といったささやかな特別性が欲しいらしい。

なんとまあ下らないな、と正直思った。
思ったけれど、彼女の瞳は深く黒く澄んでいたからそれを口にすることはできなかった。
確かに、自分は他人とは違う、という特別感というか、ある種の愉悦感というのはかつて憧れていた。
実際に幼い頃は自分は選ばれた人間だったと自負していた。
恐らく学校のテストで良い点を取っていた頃の話だ。
それも時が経つにつれ自分もまた凡百の人間の一人だと気付き、テストの点も同じように平均点付近へと下がっていった。
私は世間に塗り潰されて大多数の一部へとなった。
きっと誰しもが通った道なのだろう。
だからその憧憬を無碍にするのは忍びないと、そう思った。
私はもう捨ててしまったものだから。

別に分からなくても良いんじゃない、と言ってみた。
真偽はどうあれ、まだささやかな憧れを捨てられずにいる彼女を、私は憧れていたから。
そっか、と短く彼女は言った。

翌日、シャンプーのテスターに金木犀の香りがあったから彼女に嗅がせて見た。
短く、臭っ、とだけ言っていた。

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