亀井秀雄『「小説」論』 小説を語る言説の誕生
坪内逍遥は、明治18年(1885)から明治19年(1886)にかけて、『小説神髄』を世に送り出した。『小説神髄』は、日本で最初の小説理論といわれる。上下巻からなり、上巻では、小説を美術のひとつとし、小説の歴史、ジャンルについて紹介する小説理論を展開し、下巻では文体論や主人公論、そして読者を飽きさせないプロットについてなどの小説の書き方を説く構成になっている。最近、松岡圭祐『小説家になって億を稼ごう』が話題になったが、いわゆる小説作法や創作術のハウツー本の原点といえるだろう。しかし、当時はまだ「小説」について語る言説そのものがなかった。そのため、坪内逍遥は、小説とは何か、という小説の定義から始めなければならなかった。亀井秀雄『「小説」論』は、このことをひとつの事件として捉え直し、自明視されるようになってしまった『小説神髄』の評価を覆していく。
『小説神髄』の評価のなかには、西洋の先進諸国の文学観を輸入したが、根本的な理解が足りなかったという指摘がある。例えば、中村光夫は『明治文学史』で、『小説神髄』を芸術思想として底の浅いものと批判している[※1]。しかし、亀井秀雄は、このような認識は、ヨーロッパ文学が「近代文学」であり、ヨーロッパ文学と比較して、「近代」「前近代」を判別する認識に陥っているという。そして、このような小説を語る言説は、西洋からもたらされたものではなく、じつは坪内逍遥の独創だったことが見落とされていると主張する。どういうことか?
亀井秀雄は、『小説神髄』と同時代の小説に関する言説を検証していき、欧米において、小説を芸術の一ジャンルとする考え方が、1884年まで存在しなかったことを明らかにする。欧米の芸術観には公共/個人の二項対立が存在し、公衆を高尚に導くものが価値が高いとされてきた。例えば、西洋では詩は芸術として考えられていたが、それは公衆に向かって朗読されるものだったからだ。一方、小説は黙読が基本であり、個人で享受するしかないため、芸術と認められていなかった。また、そもそも小説は娯楽として存在価値を持っていた。そのような芸術観が支配的だったところに、ウォルター・ベザントやヘンリー・ジェイムズが1884年に「小説は芸術(美術)」であることを他の芸術作品のアナロジーから主張し始め、欧米での「小説は芸術(美術)」という言説が始まったという。
これは坪内逍遥が1885年に『小説神髄』を発刊したことを考えると、「小説は芸術(美術)」という概念を、坪内逍遥は輸入したのではなく独力で練り上げたことになり、「小説は芸術(美術)」という言説は同時代に並行して発生した現象だったことを意味する。
では、なぜ坪内逍遥は「小説は芸術(美術)」という概念を独創しえたのか? 亀井秀雄はこの理由を、先程挙げた公共/個人の二項対立の制約がなかったことと、「前近代」と批判されていた江戸期の言説に求めた。
坪内逍遥は、美術の概念を、アーネスト・フェノロサが1882年に上野の教育博物館で行った講演の内容をヒントにし、美術を「心目ヲ娯楽シ気格ヲ高尚ニスル」ものとして理解していた。しかし、その理解のなかには、公共/個人の二項対立という背景は含まれていなかった。その証拠に彼が美術作品の例として嵌木工芸や銅器を挙げており、これらは「公共/個人の観点から見れば特定の個人に占有されがちであり、芸術のカテゴリーには入れられないはずである」[※2]という。そのような理解であったため、媒体にしばられず「心目ヲ娯楽シ気格ヲ高尚ニスル」ものを芸術(美術)として数えることができた。そして、西洋では公共/個人の二項対立を背景に、公衆が見聞きできるものが優れたものとする視覚・聴覚の優位が存在したが、坪内逍遥の考えには媒体の問題はなかったため、「心を五感の主位に置く」という発想が可能であった。つまり、西洋においては美術の範囲を視聴覚のレベルで問題となっていたが、坪内逍遥は、美術を心の領域に拡張し、思考することができた。
そして、日本には江戸時代から心=人情と物語の関係を論じる土台があった。本居宣長の「もののあはれ」論である。「もののあはれ」論では、本居宣長は、物語は儒教・仏教の教えを広める手段ではなく、世間や人の心を知ることであると説いている。あの有名な「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」という言葉はこのような物語言説が土台にあって初めて書き得たのである。坪内逍遥の『小説神髄』は、西洋の美術概念を「前近代」と批判されてきた物語言説を統合することで、「小説は芸術(美術)」という西洋においても新しかった概念を創り上げることができたのだ。
亀井秀雄『「小説」論』は、西洋/日本、近代/前近代といった当たり前に使っている言葉の意味を再度考えるように促してくれる、現在においてもますます貴重な位置にある書籍である。
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