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なぜ勉強するの?

はじめに

「勉強して何の役に立つの?」「勉強してどんな意味があるの?」「なぜ勉強しなければいけないの?」こうした疑問をもったことがある人は多いのではないでしょうか?私自身中学校の教員を10年間する中で、多くの生徒から質問されたことでもあります。そこで私が考えてきた「こたえ」を、いま疑問をもちながら勉強している子どもはもちろん、いつの間にか勉強することを忘れた大人にも向けて書いていこうと思います。

まず、最初の3つの疑問「勉強して何の役に立つの?」「勉強してどんな意味があるの?」「なぜ勉強しなければいけないの?」は、同じようなものに感じられるかもしれませんが実は全く違います。ですからもちろんこたえもそれぞれ全く違います。それはこんなふうになります。

 1.「勉強して何の役に立つの?」
   「わかりません」

 2.「勉強してどんな意味があるの?」
   「勉強した後のあなたです」

 3.「なぜ勉強しなければいけないの?」
   「あなたが誰かを傷つけないように」

これだけではきっと「???」だと思うので、これからこれらの疑問ついて1つずつ考えていきましょう。


1.「勉強して何の役に立つの?」
  「わかりません」

いま、もしあなたが「え!?役に立たないなら勉強なんてやりたくない」と思ったなら、ちょっと待って。私は決して「勉強は何の役にも立たない」なんて言っているのではなく、いつどこで何の役に立つかわからないのが勉強なんです。

あなたはまだ「いつどこで何の役に立つかわからないものに時間をかけたくない」と思っていますか?その感覚は、例えば買い物をするときには正しいです。お店に行って「いつどこで何の役に立つかわからないもの」にお金を出す人はまずいないでしょう。でも、買い物と勉強は違います(これ、当たり前のようでとても大事です)。より安いお金で無駄なくすぐに役に立つものを買うのがいい買い物です。では、より少ない時間で無駄なくすぐに役に立つのがいい勉強でしょうか。

ここが多くの人がはまっている落とし穴で、例えばより少ない勉強しかしなくてもテストでいい点数をとれることを「勉強ができる」と思い込んでいます。実は中高生時代の私もそうでした。テストでいい点をとるために、希望する高校や大学に入るためにより時間をかけない効率のいい勉強を求めていました。その結果、私はどんどん勉強をしなくなりました。なぜなら「テストに出ないところは無駄だから勉強しない」「わからないことに時間をかけて勉強するなんて非効率」と思っていましたから。

これは「何かの役に立つからする勉強」すべてに共通することです。ちょっと極端に聞こえるかもしれませんが、テストでいい点をとるために勉強する人は絶対にばれないカンニングの方法があれば勉強しないし、学校でいい成績をとるために勉強する人は同級生みんなの成績が落ちれば勉強しないでしょう。勉強そのものに意味があるのではなく、他の役に立つ何かに最短距離でたどり着くことが目的なら勉強をする時間は少なければ少ないほどいいわけで、結果として勉強をしなくなるのは当然です。

勉強の目的を意識しなくても、「豊臣秀吉が行った政策は?」なんてことをわざわざ覚えなくても万が一必要になったらネットで検索すればいい、「go straight」の発音を練習しなくても英語で道案内を頼まれたらポケットからスマホを出して音声通訳アプリを起動すれば十分だと心の中でグチをこぼしながら仕方なく授業を受けている人はかなり多いと思います。実際「外国を旅行するときや仕事でも役に立つから英語は勉強すべき」という人(教員も)は多いですが、近い将来ほぼ完璧な同時通訳機が登場したときにはもう英語の勉強をする意味はないのでしょうか。

私は「役に立つ勉強」を否定しているわけではありません。実際役に立つことも多いし、勉強するきっかけになることもあります。ただ「役に立つ」だけが勉強の目的になって、やがて勉強そのものの意味を見失いどんどん勉強をしなくなるのはあまりにもったいないし本末転倒だと思うのです。そうして多くの子どもたちが本来もっていたはずの勉強への関心や意欲を失っていくのは、教員をしていた私にはつらいものでした。そのとき「なぜ勉強するのか」をうまく伝えられなかったことに教員としてはもちろん、一人の大人としてずっと責任を感じていたのがこの文章を書いている理由の一つです。さきほど書いたように、勉強はいつどこで何の役に立つかわかりません。今日の授業で勉強したことが20年後にあなたの大切な決断を後押しするかもしれません、自分でも気づかないうちに。勉強とはそういうものです。「勉強して何の役に立つの?」と子どもから質問されたら、すぐに役に立つ何かをご褒美のようにぶら下げて「だから勉強しなさい」と押し付けるのではなく、ましてや「勉強しても社会では何の役にも立ちません」なんて逃げるのではなく、ちょっと勇気を出して「わかりません」と伝えてほしいと思います。それがその子どもが勉強への関心や意欲をもち続けていくために必要なことです。


2.「勉強してどんな意味があるの?」
  「勉強した後のあなたです」

「役に立つから」ではなく、私たちが勉強をする意味とはなんでしょう。勉強をするというのは、前章で勉強と買い物は違うと書いたように、例えば「紙を切るためのハサミ」や「速く移動するための車」といった「道具」を手に入れることとは本質的に違います。勉強することであなたは何かを手に入れるのではなく、あなた自身が変わるのです。それが「勉強した後のあなた」が勉強をする意味ということです。そしてあなた自身が変わるからこそ勉強がいつどこで何の役に立つかは他の人はもちろん自分でもわからないのです。

これまで「役に立つから勉強する」に慣れた人にはわかりにくいことなので、勉強に似ているものを例にあげてイメージしていきましょう。それは「旅行」です。海外旅行から帰ってきて土産話をする友人に「で、その旅行は何の役に立つの?」と尋ねる人はあまりいないでしょう。それは旅行に行くことがハサミや車を手に入れたときのようにすぐに実生活に役に立つものではないと多くの人がわかっているからです。それでも多くの人が時間やお金をかけて旅行をします。そして旅行から帰った人は「視野が広がった気がする」とか「いつも食べていたものの味が違って感じる」とか他の人がよくわからないことを嬉しそうに言ったりするものです。それは旅行に行く前と後ではその人自身が変化しているからです。それまで見たことのない景色や想像もしなかった味、耳にしたことのない言葉のリズム、知らなかった歴史や文化を体験したことで旅行に行く前とは「別人」になって帰ってきたのです。すぐには役に立たないし言葉では表現できないものですが、その変化こそ旅行をする大きな意味です。

これは勉強をする意味と非常に近い、というかそのものです。よく「因数分解や古文を勉強する意味がわからない」と言う人がいますが、確かに因数分解や古文を日常的に使っている人はそれほど多くないように見えます(もちろんいます)。しかし因数分解という考え方や古文のリズムを勉強した人は、それを勉強する前とは確かに変わっているはずです。数十年前の歴史を勉強することでそれまでは気づかなかった「いま」を感じられたり、美術の技法を勉強することでいつも歩く道が違って見えたりするのも、その人自身が変わったからです。

前章で例にした英語を勉強する意味も、母語とは違う言語である英語に触れることで自分自身を変えることにあります。英語に限らず他言語を勉強するとは、単に旅行や仕事で役に立つコミュニケーションの道具を手に入れるだけではなく、自分が生きてきた国や地域とは違う発音や表現、それを支える文化や歴史、哲学などに触れることであり、それによって自分自身を「アップデート」することになります。だから近い将来ほぼ完璧な同時通訳機が登場したとしても英語やその他の言語を勉強する意味が失われることはありません。

旅行と同じく、自分が知っている範囲から外に出て未知の言語や文化、歴史などに出会い吸収することで自分自身を「別人」に変化させて日常に帰ってくることが勉強の意味だとも言えます。ただしその変化は言葉にするよりはるかに繊細で複雑なものなので、日常の中で自分の変化を意識して感じることはできないか、ずっと後になってからかもしれません。

勉強をする意味が自分自身を変えることだと考えれば、「無駄な勉強」がないこともわかるはずです。また、知っていることをただ繰り返す勉強(これを勉強だと思い込んでいる人も多い)より自分が知らないことや今はまだわからないことに向かう勉強の方が大きな変化をもたらしてくれることも。すぐには難しいかもしれませんが、「役に立つから勉強する」ことで切り捨てていた「わからない」「無駄」「役に立たない」の中にこそ勉強をする意味があるのだと気づいてほしいと思います。そうすれば意欲や関心を失うことなく「勉強」をし続けることができます。もうわかると思いますが、ここでいう「勉強」は学校の授業である数学や英語や音楽などにとどまらずもっと広い意味をもちます。旅行も「勉強」でしょう。学校を卒業しても仕事をしてもおじいちゃんやおばあちゃんになっても「勉強」は続けることができます。教員を10年間して子どもたちに学校で最も学んでほしいのは「勉強の続け方」かもしれません。

「勉強してどんな意味があるの?」という子どもからの質問に「勉強した後のあなたです」とこたえてもあまり納得してくれないかもしれません。薬の処方せんのように、この勉強をこんな方法でこれだけすればこういう変化がありますと説明することはできないからです。そんなとき勉強をし続ける大人の存在がなによりも説得力をもちます。「勉強をしろ」という叱責の言葉ではなく、教員や親はもちろんすべての大人が「勉強をした後」の姿を、そしていまも勉強し続けることで変わり続ける姿を見せることが子どもたちに勉強する意味を伝え、意欲や関心を失わせない最良の「教育」だと私は思っています。


3.「なぜ勉強しなければいけないの?」
  「あなたが誰かを傷つけないように」

ここまで読んで、「勉強して自分を変える必要なんてない」と思う人がいるかもしれません。「勉強をしろ」という大人は多いけど、なぜ勉強をしなければいけないのかわからない子どもたちも多いでしょう。前章で書いたように、「知っていることをただ繰り返す勉強」をしなければいけない理由はありません。それでは続かないし、なにより苦しいだけです。しかし自分を変える本来の意味での勉強は「しなければいけない」と私は思っています。それはもしあなたが勉強をやめて、変化すること自分を「アップデート」することを拒否してしまったら誰かを傷つけるかもしれないからです。

「想像力は無限」と言う人がいます。私たちの想像は重さもなく疲れることもなく夢の中のように自由にどこまでも飛んでいけるのでしょうか。私はそうは思いません。逆に私たちがもつ想像力は秘めた力は非常に強いけれどとても不自由でそれだけでは動くことすらできない、燃料がなければ発射台でただ立ち尽くすだけの重たいロケットのようなものだと考えています。この想像力を動かす「燃料」が勉強です。勉強することによって初めて想像力ははるか遠くまで飛ぶ大きな力を発揮するのです。

いまは当たり前の「丸い地球」にも何の勉強なしに想像力だけではたどり着けないでしょう。何百年も前の暮らしも遠く離れた地域の言語や文化も、ミクロの世界や宇宙の広大さも、素晴らしい詩や音楽も勉強なしで想像することはできないのです。それどころか広い意味での勉強なしでは「自分と他者は違う」ということすら想像できなくなってしまうのが私たちです。前章で勉強する意味は自分を変えることだと言いましたが、逆に言えば勉強をしなくては自分を変えられないということです。それまでの自分がいた世界の外に出て「わからないもの」に触れて自分自身を変化させ続けなければ、たちまち想像力は動かなくなって手の届くせまい範囲のことくらいしか見えなくなってしまいます。

この想像力の欠如が人を傷つけます。せまい教室の中で起きる「いじめ」がいい例でしょう。たった数十人の中で容姿や言動が「自分や多数派と違う人」を見つけて攻撃することには、教室の外の世界に出れば「違うこと」が当たり前で自分もどこか他の集団では必ず少数派になるという想像も、いじめている自分やいじめられている人の過去や未来に何があるのかという想像もありません。いじめをなくすために「思いやりをもって」「相手の気持ちになって」と言われますが、中途半端にわかった気になるのも想像力を失う危険があるので、「わからない」や「違い」が自分自身を変えてくれる本来の勉強ができる多様性を尊重した環境を整えることが大切だと思っています。そういう意味で勉強をして想像力を鍛えるはずの学校でいじめが多く起こっているのは本当に悲しいし、教員をはじめ大人の責任は重いと思っています。

こういった想像力の欠如は「差別」の現場でも見られます。性差別や民族差別、障害者差別などで傷つけられている人は日本にも多くいますが、差別をする人やそれに加担する人は「差別はない」とか「どっちもどっち」と言うことで差別され傷つく人の存在を見ないようにします。自分とは違う人の声に耳を傾けることはもちろん、差別が続いてきた歴史や他国の状況、人権や法律について勉強しなければ想像力を失い誰もが無自覚に差別に加担する可能性があります。一流と言われる大学を出た政治家や社会的に成功しているように見える人たちが差別を扇動してネット上に偏見に満ちた言葉があふれるのを目にすると勉強なんて意味がないと思ってしまいそうですが、学歴や収入とは関係なくその人たちが本当に自分自身を変えて想像力を鍛える「勉強」をしているのか注意深く見てほしいと思います。

「私は差別なんか絶対にしない」という人もいるかもしれません。ただそれはそれほど簡単なことではないのです。それこそ歴史を勉強すれば、時代や地域の状況によって「普通の人たち」が差別に加わり多くの人の命を奪った例は数多くあることがわかるでしょう。もちろん私たちが暮らすこの国にもある悲惨な歴史から目を逸らしてはいけません。勉強して想像すればするほど、自分がそのような状況(ある人たちを差別するよう教育される、法律ができて反対すれば処罰されるなど)に置かれたときたった一人でも「私はしない」と言えるのかと恐怖を感じます。教室の中のいじめですら、「みんな」がしていることに一人で反対することには勇気がいるでしょう。

無自覚に誰かを傷つけていたことに気づいたり、傷つけられる人の側に立って自分の意志で行動したりするためには、ただ「思いやり」があるだけではダメで、時代や地域を越えてさまざまなことを勉強して自分自身を常に「アップデート」する必要があります。だから誰かを傷つけないように、あなたは勉強を「しなければいけない」のです。これは子どもも大人も関係ありません。むしろ子どもを守る立場の大人こそより広い視野をもって絶えず勉強をし続けなければいけないでしょう。


おわりに

最後まで読んでいただきありがとうございます。教員を10年間していまは専業主夫として子育てをしていることもあり、伝えたいことがたくさんあって長くなってしまいました。「なぜ勉強するの?」という疑問へのすっきりとわかりやすい「答え」を期待していた人は正直がっかりしたと思います。私がこの文章で伝えたかったのは、そうした疑問に大人としてどう「応える」かということでした。はじめに「私が考えてきた『こたえ』」とひらがなで書いたのはそのためです。「なぜ勉強するの?」という疑問に言葉だけでこたえることはできません。子どもたちには、もちろん言葉を尽くしますが、なにより勉強をし続けている大人を探すように伝えます。私たち大人が子どもたちにしてあげられる最高の贈り物は、子ども以上に勉強をし続け、子ども以上に生き生きと変わり続ける「先生(先に生きる人)」としての大人の姿だと思うのです。見返りやすぐに目に見える成果ばかりを求めるのではなく、教科書やテストにばかり縛られるのではなく、もっと広く長く続いていく勉強が私たちの学校や社会に根づき、いつかあなたとも一緒に勉強できる日がくることを楽しみにしています。


鬼頭 暁史


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